11.変更

 年末年始が近づく頃、気づけばりんの胴体はずいぶんと長くなった。

どこからどう見ても、ミニチュア・ダックスフンド。


 オレンジを灯す電気ヒーターの前で、長い胴体を横たえて、無防備に眠っている。

閉じられた目は漢字の「一」の字にそっくりで、わたしは密かにその目をとても愛していた。

 緩んだ口元からはベロがほんの少しはみだしていて、最初は何か具合が悪いのかと思ったけれど、単にリラックスしすぎてベロをしまい忘れているのだと知ってからは、ますますその寝顔が可愛くて、いつまででも傍にいた。


 いつの頃からか、りんとわたしの距離はうすぼんやりと繋がった雲のようにやわらかくなっていて、家にはおばあちゃんと、学校以外にはほとんど出かけないわたししかいなくて。いつかのトイレ騒動がひと段落すると、だんだんとりんのくせや性格や、ちょっとした動作や表情のニュアンスがつかめるようになってきてた。

 徐々に言葉を覚えてきたりんも、まるで昔からずっとうちにいたように、どっしりとしたキャラに染まっていた。


 ほんの数週間前までは、りんはもっぱらおばあちゃんの部屋で、座布団の上でうつらうつらしたり、散歩(相変わらず嫌い)以外は気ままに家の1階を歩き回っていることが多く、わたしもべつに二階の部屋にばかりいるわけじゃなかったから、おもちゃで遊んだり、おばあちゃんの部屋に行って、3人(?)でお話したりしていた。

 

 けれど最近のりんは、わたしが自分の部屋への階段をのぼっていると、連れていけとくーんくーんとさみし気な声を上げるときも多くなってきて、そんなに動き回るスペースもないのにと思いながら、はいはい、仕方ないなと抱っこして、りんはわたしの部屋で過ごすことも多くなった。

 もちろん環境がちがうから、何度かトイレは失敗されたし、たまたま落としていたノートにおしっこが染みていたときはさすがにこたえたけど、このごろはなんだか慣れっこになってしまって、怒る気持ちはあった。

 けど、部屋の隅で「怒られる」と上目遣いにこちらをうかがうりんを目にすると、それよりもさて、いったいどうやってこの跡を落とそうか、そんな苦笑いのほうが先に出てきた。


 今でもどうやったのかわからないけれど、りんとわたしの関係を少しずつつないでくれたのは、やっぱりおばあちゃんだと思う。


「私みたいなおばあちゃんより、りんも琴ちゃんみたいなお姉ちゃんがいいのよ」なんて言っていたけど、ついこの間まで中学生で、しかも初めてのことばかりで、何をしていいかわからずに混乱しきっていたわたしのことを、いつも助けてくれたのはおばあちゃんだったから。


 そうそう、りんと言えば、ひとつはっきりしたことがある。

りんは、超インドア派だ。


 相変わらず散歩は大嫌いで、行く道はしぶしぶ重い足取りでめんどくさそうに地面を嗅いで、他の犬にはおびえてわたしの後ろに隠れてしまう。

 相手がフレンドリーなワンちゃんなときはたまにお互いの匂いを嗅ぎあうこともあるけれど、けっきょく早くその場を離れたがり、そのまま家に帰ってしまうことがほとんど。

 もちろん、帰り道は足取りが軽い。わたしの中の「犬は散歩が好き」という常識は、とっくの昔に都市伝説になり果てていた。


 そのくせ食欲旺盛で、一日三回のご飯なんてぺろっと食べてしまう。わたしも人(犬)のことは言えないけど、さすがに運動不足じゃないのかと思っていたら、定期健診では特に問題はないです、標準体重内ですよということだった。

 なので、りんのエネルギーは部屋の行き来やあの短い散歩、そして成長で、順調に消費されているのだろう。立派に伸びた胴体も、その証なのかもしれないし。


「やっぱり変えないほうがよかったのかなー・・・・・・」


 シャーペンを投げ出すと、大きなため息が出てしまった。

手元には、「数Ⅰ」の問題集と、見当違いの方程式が書きなぐられて、そのうえ赤の  ×ばっかりやたら目立つノート。

 中学生のときから知っていたけど、わたしは生粋の文系だ。


 うちの学校の弱点は、あえていえば、教科によっては、クラスごとのできるできないの内容に差がありすぎるところだと思う。

 初めて参加した初級の「数学」の授業は、正直びっくりした。授業内容が、消費税の計算だったから。


 どういうこと? これ、中1か、もしかすると小学校で似たようなことをやってた気がするんだけど・・・・・・。

 いや、たしかに役には立つかもしれないけど、これを高校でやるの・・・・・・?

それが正直な感想だった。

 担当していた本山もとやまという若い男の先生に訊くと、他には分数の計算や、場合によっては簡単な四則演算の復習をやっているということだった。


 帰りの階段を下りながら、純粋な驚きで、「マジかあ・・・・・・」とつぶやかずにはいられなかった。

 ちなみにその話を返ってきたお母さんにすると、やっぱりかなり驚いていた。けれど少しして、「勉強できる環境にいなかった子が多いのかもね・・・・・・」と言っていて、わたしの年齢でも、ああ・・・・・・と、なんとなく胸の奥が重くなった。


 ただ、それとこれとは話が別だ。


 べつに、これといったきっかけがあるわけじゃない。それに、これといった目標があるわけでもない。


 梅雨の終わりがけ。ほんの少しの晴れ間が差した、7月の終わり。

まだ水たまりが多いので、散歩が先延ばしになり、ごきげんなりんとおもちゃの綱を引きあって遊んでいたとき、ふと思った。


 大学に、行きたい。


 しつこいけど、ほんとうに何か目標とか、まして将来の夢みたいなものがあるわけでもない。夢なんてしいて言えば、「普通の高校生になりたい」くらいだった。

ほんの数週間前までは、「普通になりたい」、それだけだった。なにが「普通」なのかもわからないまま、届かない「普通」を思って毎日のようにベッドの上で泣いていたときもあった。


 りんがいるときは小さな小さなその身体に顔をうずめて、小麦のような匂いに包まれながら、それでもやっぱり涙が止まらなくて、返事の言葉がない「どうしよう」とか、「どうしたらいいんだろう」を、ずっとずっと繰り返していた。

 それは家族の前では、たとえおばあちゃんの前でも、流したことのない涙だった。抱っこされていると思っていたのか、それとも何かを感じ取っていたのか、そんなとき、りんは大人しくわたしに抱かれ、ときどきむき出しの腕をなめてくれた。


 ふがふがと鼻息荒く、しっぽをぶんぶん振ってわたしから縄を奪おうとするりんと綱引きしていて、でもそう思った。


 理由なんて、もしかしたらこの先もずっと思いつかないのかもしれない。

わたしに、「普通」以外の、おぼろげな未来の輪郭が見えた瞬間だった。


 渡部先生に面談の時間を割いてもらって、「数 Ⅰ」のクラスに変更をしてほしいとお願いしたのは、その次の登校日だった。


※2,024.2.13 時系列を間違えていたため、文章を一部修正しました。







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