10.痛み

「うん、いい感じ! 文脈もしっかり読み取れてるよ」


「ありがとうございます!」


添削された現代文のプリントを返して、田代先生が笑顔を見せる。

茶髪のセミロングで、派手な顔立ちの美人の先生。たぶん30代だけど、大学生でもギリギリ通るかもしれない。日本史(世界史も担当している)の森崎先生が「お姉さん」タイプなら、田代先生は「姉御肌」っていう感じで、話しやすい。第一印象では苦手なタイプかも・・・・・・と思ったけど、いつのまにか距離が近くなって、その日の授業でなんだかもの足りないときに、別の問題をもらうようになった。個別指導とまではいかないけれど、できているところと課題をすぱっと指摘してくれる。


「琴音さん、本けっこう読むからかなー。文章に入り込んで要点を押さえるのが上手いよ。漢検2級だっけ? そういうの持ってるかなかな、語彙の辺りも強いなって思う」


漢検は高校受験のときに塾の方針で無理やりとらされたものだけど、どうやら無駄じゃなかったらしい。

小学生でもないのにそんなに褒められると、なんだか照れくさい。


入学して1カ月。だんだんと学校のことがわかり始め、わたしの新しい生活のスタイルができあがっていった。

今、週に4回の登校。だいたい1日4~5時間授業を受けて、たまに渡部先生と話して帰る(わたしじゃなくて先生が、好きな特撮もののDVDボックスを奮発買いしたとか、そんな話だけど)。


こんな世界ってあるんだなって、大げさだけど、駅のホームなんかでときどき思う。


いろいろ参加してみてわかったけれど、この学校は教科ごと、理解度に合わせて細かく授業が開講されている。中1の初めで見たような内容の数学の授業もあるかと思えば、複雑でぜんぜん分からない英文読解の問題を解く授業まで、バラバラ。

6人の先生は、専門の教科はあってもそういうバラバラな内容の授業をたくさん受け持っていて、たぶんそうとう忙しいはずなのに、職員室のスペースで生徒と爆笑してたりする。個別指導の時間だって別枠だし、どういう時間の使い方をしてるんだろう・・・・・・。


そしてもうひとつ、ここの先生って大変だなって思った場面。

腕にまっすぐな切り傷をつけて、うつろな眼でふらっとやってきた子。

そのときは森崎先生が一緒に面談室に入って、少しして出てきたその子は、学校近くのメンタルクリニックに向かったようだった。

わたしなんて血を見た瞬間ぞっとしてしまって固まってしまったのだけど、森崎先生はじめ、先生たちはぜんぜん動揺してなくて、けれど冷たくあしらうこともせず、「痛くなかった? ちょっと話そっかー」と、さりげなく手をとっていた。

血をにじませたその子は、無表情にこくりと頷いた。


「ああいうことをする子って、ここ多いんですか・・・・・・?」


どうしても気になって、月に一度の定期面談で、担任の渡瀬先生に訊いてみた。


「それって、自傷ってこと?」


あの場には渡部先生もいたし、質問するわたしの様子から察したのだろう。

ずばりの応えが返ってきた。わたしが頷くと、地顔がニコニコの渡瀬先生が、めずらしく真顔っぽくなって言葉を続けた。


「多い少ないは言えないけど、琴音さんも見たように、そういう子は何人かいるね。いろんな事情がある」


「そうなんですか・・・・・・」


突然目の前の白の壁が無機質に迫ってきて、少しくらっとした。

胃の中に、あのときの黒色が蘇った。サイレンの音。吐く、入れる、吐く、入れる・・・・・・。


「・・・・・・先生」


「んー?」


「こわく・・・・・・ないんですか?」


深く関わるつもりなんてない。

入学したとき、わたしはしっかりそう思っていたけれど、今はこの言葉への答えを聞きたい。とんだ甘えんぼだ。

けれど今わたしがこうして生活できているのも、きっとたまたまだ。あの子はもちろん他人だけど、あの子が必ずわたしじゃないなんて、もうわたしには思えなかった。


いつも通りの、たぶん砂糖たっぷりのミルクコーヒーのボトルを考えるようにひと回しして、渡瀬先生が口を開いた。


「おいらも最初はびっくりしちゃったね。ぜんぜん何もできないんだよ。そんふうにしてたら、周りの先生がいつのまにかその子に付いてて、しばらくするとその子が授業受けに来てくれて、もちろんどうなったかは知ってるけど、ああ、来てくれたー、みたいなね」


テーブルの下で、手を握りしめた。


「これはこれが正しい考え方、とかじゃないんだけどね。『痛い』を言うことができない子がとっても多い気がする。いろんな事情があって、言葉じゃなくて、身体で傷を伝えたり、あるいは自分だけで、気持ちの『痛い』を、身体の痛みの世界で解決しちゃうって言えばいいのかな」


わたしが、わかったようなわからないような顔をしているように見えたのだろう。

「でも、それだって分かってないのかもしれないけどね」と、渡瀬先生はほんの少し影が差すように笑った。


「まあ、うちは都合上あんまり来られないけど、カウンセラーの先生もいるし、外で医療の専門の人が繋がってるから、おいらたちはできることをするしかないね。傷を治すことはできないけど、それ以上にならないように」


初めて聞いた答えだった。

わたしの生きた時間なんてほんとにちっぽけだけど、その中で初めて。

一瞬じわっときかけたけど、それは渡瀬先生が続けた「って、田代先生が言ってた」というセリフで、とり消しになった。


「・・・・・・先生、そういうのいろいろズルいと思いますよ」


「あー、だよねー。おいらそういうことちゃんと考えるの、なかなかできなくてね。

田代先生とか、いろんな人がいろいろ教えてくれるから、教わってばかりだよー」


まったくこの人は・・・・・・(最近知ったけど)それでも主任かと思っていると、渡瀬先生は言った。


「だからさ、琴音さんもいっぱい訊くといいよ。分からないことも、それ以外のことも。なんだかんだ、そうやって学校来てくれたら、おいらは嬉しいからさ」


授業終了の鐘の音が流れた。

ああ、もうこんな時間かと、渡瀬先生は机の上のカリキュラム票をまとめ始める。


「じゃあ、琴音さん。あたふたして悪いけど、今から会議入ってるから、お先に失礼するねー。個別指導のことも遠矢先生に訊いておくから、明日明後日でも、よかったらまた話そうねー」


扉を開けようとして観葉植物の鉢植えに足をぶつけて倒しそうになる、渡瀬先生。

太っているのにフットワークが軽いその後ろ姿を見ながら、さっきの言葉は、「田代先生から」じゃなくて、「田代先生からも」聞いた言葉じゃないんじゃないかと、ふと思った。
















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