7.焦燥

いないよりも、いるほうがマシ。


世話係はわたしだったのに、りんから見たわたしはそういう人間だった。

りんが一番好きなのは、口うるさいわたしより、穏やかなおばあちゃん。


というのも、ご飯とトイレ、そして(お互い嫌いな)散歩は、わたしの役割。

これだけならまったく問題はなかったのだけれど、一番肝心な問題があった。

「しつけ」だ。


うちは一軒家だけど、だからといって無駄吠えはさせられない。

お客さんに、嚙みつかない。そしてまず、トイレを覚えさせること。


動物と暮らすうえで、「しつけ」がどれほど大変なのか、思い知った。

小学校にいた、朝の掃除だけすればあとは可愛がるだけでよかったウサギとは、当たり前だけど格が違う。宅配便の人は初対面だからまだわからなくもないけれど、りんはよく食べ、よく吠え、そしてよく粗相そそうをした。

あっ、と思ったときはもう遅い。体勢を低くした股の間から、リビングの白い床に、黄色いおしっこが広がっていく。


「もうっ! りんっ! もうっ!!」


急いでトイレシートを床に押し当て、消臭剤を振りかける。

犬が嫌がるトイレしつけ用の匂いということだったけれど、りんはどこ吹く風というように、すっきりした顔でその辺をうろうろしている。


「ダメっ! トイレはここじゃなくて、あっち!」


胴体を抱えて、隅に敷いてあるトイレシートに連れていく。

けれど当然人の言葉なんて通じないりんは、迷惑を全身で表してじたばたするばかりだ。これはダメだと判断して、ひとまずりんを解放する。さっさとリビングを出ていくりんの背中に、「お前は嫌い」と言われたような気がした。

「もう、知らないからね・・・・・・」と言っても、そうもいくわけがない。けれどなんだか悔しくて、そんな意味もないことをつぶやく。その収まらない気持ちのまま、わたしは重い足で部屋への階段を上がった。


「失敗したときは短くハッキリと叱り、成功したときはたくさんほめてあげましょう」


リンクをタップして目に入るのは、どこも似たような内容ばかり。

そんなことは分かっている。もちろんたまに成功したときにはわたしなりにほめているのだけれど、トイレは特に、失敗回数のほうがまだまだ多い。それも、頭打ちになった成績のように、りんの成功率は、数回に一度以上からは、伸び悩んでいた。


他の家のことは知らないけれど、この難関をどう乗り越えたんだろう。

まあ、無駄吠えについては、りんもそんなにしないと思う。思うけど、やっぱりそれだけじゃ、室内で暮らすには足りなくて・・・・・・。


こんなこと、いつまでやらないといけないんだろう・・・・・・。

そんなことを考えてしまうのはいけないと思いながらも、ため息をついてしまう。


「琴ちゃん、いるかーい?」


階下から声がした。おばあちゃんの声だ。


「いるー!」と返事して、階段を下りていく。

声のしたリビングのほうに行くと、りんと、おばあちゃん、そして黄色く染まったトイレシートが目に入った。


「え、できてる・・・・・・」


さっき水をがぶがぶ飲んでいたし、わたしもスマホのしつけサイトにかかりっきりで、壁時計を見ると、気がつけば長い時間が経っていた。


「わんちゃんに教えるときはね、こうすればいいのよ」

言っておばあちゃんは、りんを抱っこして、染まったトイレシートのもとに連れていく。くんくんと、黄色の染みを嗅ぐりん。えらいねー、りんちゃん、お利巧りこうさんだねーと、被せるようにしておばあちゃんが話しかける。


「もちろん、出してすぐにこうすればそれにこしたことはないんだけどねー。私も琴ちゃんみたいにさっさと動ければいいんだけど、最近腰がね」


そういえば。

詳しくは知らないけど、おばあちゃんも昔、犬を飼っていたことがあると聞いたことがある。もちろん、トイレシートなんてなかっただろう時代なのだけど。


しっぽを振って、機嫌よさそうな顔を見せているりんと、やさしいまなざしのおばあちゃん。いろいろな経験の差ということは、わたしでもわかる。

それでもなんだか、わたしだけが「あちら側」になっている気がして、ちくんと胸が痛んだ。「ありがとう」とは言ったけれど、なんだかその声は、自分ながらひどく頼りないものだった。


そのまま黙っていると、「琴ちゃん琴ちゃん」と、おばあちゃんが手招きした。

わたしが小さいころから続く、「おいで」の合図。

お菓子をもらいにいくような年を過ぎてからは、久しぶりに見た気がする。


廊下を抜け、久しぶりに和室に入る。線香と、かすかに樟脳しょうのうの匂い。

棚に生けられた花はコスモスで、そよぐ風に当たっているように、ひとつひとつの花がふんわりとふくらんでいた。


その紫色の花弁をぼうっと眺めていると、おばあちゃんが言った。


「琴ちゃん。比べなくていいのよ」





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