5.りん
廊下の奥からかすかに聞こえてきたのは、祖母が「おりん」を鳴らした、空気が震えたその音だった。続いて漂ってくる、かすかな線香の匂い。
いつもならなんとも思わないし、むしろ心が落ち着く、好きな音だった。
けれどそのとき
ひとがこんなに大変なときに、わたしを無視して何もないかのように鳴る音に、それを鳴らした祖母に。これ以上裏切らないでよと、たぶんそう叫びたかった。
正しい現実のことくらいわかっている。だって、わかっていたい。そんなのずっと、わかっていたい。普通の道から外れてしまったんだから、なおさらに。
けれど頭の中が、真っ黒な嵐になぶられる。ごうごうとかき回され、枝が折れていく音がこだまする森。半分の視界に飛び込んできた葉には、血脈が浮かんでいる。
言葉も、考えも追いつかない。声を出したくても、ひゅうひゅうと変な音しか出てこない。ただただ頭も身体も痛い。痛くて痛くて、もう止められない。そう思った。
聞きなれたはずのその音が、けれど長く重く、身体の奥に積もるように響いてきた。
わずかなスペースに、隙間が空いた。なんだろう、この感じ・・・・・・。
いつもと、違う?
内側の混沌が、外からの響きに、少しずつ場所を譲っていく。
等間隔に三回鳴った、「おりん」を打つ音。
それはそのたびに少しずつ、わたしの黒い引き潮を、促してくれた。
「琴音・・・・・・?」
恐る恐るといった様子で、後ろから母の声がした。
まるで夢から覚めたかのような感覚で、わたしはその声に気づいた。
目の前に広がるのは、いつものリビング。いつもの床。いつもの壁。
知らないうちに握りしめていたこぶしを開くと、ぱらぱらとちぎれた黒髪が落ちた。
「おりんはね、鳴らすひとのこころの音が出るときがあるのよ」
これはあとから、祖母に聞いた話だ。
りんがすっかり家族にも慣れ、とりわけ家にいる時間が長い祖母に、必然的に一番懐いていた。その背中をするする撫でながら。
目を細めて、遠くを見ながら祖母は続けた。
「琴ちゃんがつらいのにどうにもしてあげられなくて、苦しくてたまらなかった。とにかくとにかく、お願いしたんよ」。
そのとき胸に去来した感情は、今もわたしには苦い思い出としてしまい込んである。
わたしは今でも、その感情にうまく名前をつけることができない。
迷ったものの、けっきょく「何を?」と訊かずにはいられなかったわたしに、祖母は笑ってこたえた。
「何も覚えてないの。たぶん、ほんとうに何も思ってなかったんじゃないかしら」。
あの時わたしに届いたのは、そうした言葉にならない、苦しさとせめぎあう祈りの、瀬戸際の音だったのかもしれない。
ちょうどわたしがあの頃、壊れてしまう自分に、普通の道から外れて生きる怖さに、引き裂かれそうになっていたように。
「・・・りん、にする」
判断する前に、口がそう言っていた。
「・・・・・・りん?」
かがみこむ。たった今生まれた名前を、目の前の命に。その真っ黒な瞳に。
いい? きみは今から、「りん」でいい?
わたしなんかが、つけた名前でいい?
自分に話しかけているのが分かったのか、いきなりこくりと首をかしげられた。
濡れていた景色が、驚きに変わる。
え、犬って、首かしげたりするの・・・・・・?
そんな驚きとともにふと浮かんできたのは、そういえばまず把握しておくべきだった問題だった。
はっきり言って
そんな気がしながら、わたしは両親に向かって、振り返って言った。
「この子、女の子・・・だよね・・・・・・?」
※
時々、思うことがある。
あのときそこから鳴り、わたしがそう聞いたその音を。
無意識に、まるで
わたしは「りん」というあの子に、与えたのかもしれないと。
だから、あのとき順番がきちんとしていて、あの子が男の子だと知っていたとしても。「りん」はやっぱり、「りん」だったんだろうだと。
わたしは今でも、そう思っている。
「りん」がわたしにとって、いつまでもそうであるように。
空き時間に少しまどろむだけのつもりだったけれど、
わたしの意識は、だんだんと過去の記憶を手繰り寄せていった。
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