3.戸惑い

「りん」というのは、たとえば「りんとしている」とか、そういう理由でつけた名前ではなかった。


十数年前に亡くなった祖母は「おりん」と言っていたが、ようは仏具の「りん」だ。

祖父が亡くなったのはわたしが小学3年生のころで、祖母が毎日鳴らす「おりん」の「チーン」と鳴る音が、なぜかわたしは好きだった。


「名前はことが決めなさい」


予告もせずに子犬を連れて帰宅した父。驚くこともない母。

わたしの知らないところで、きっと話し合っていたのだろう。

二人とも特に動物好きというわけではなかったけれど、突然変異のように、わたしは動物、とくに犬が大好きだったから。


レスキュー犬。

災害時の支援に携わる彼らは、シェパードや、ゴールデンレトリバーのイメージがあった。けれどあの日、心の災害に見舞われていた15歳のわたしの元にやってきたのは、膝上くらいの大きさしかない、まだほんの子犬の「りん」だった。


ひとまず急ごしらえの囲いとケージ、ご飯とお水。

急に慣れない場所に連れてこられて不安なのだろう。きゅん、きゅーんと、まるで泣いているような声でこちらを見上げて鳴く、小さな命。


可愛いとは、思った。

けれどわたしの心の中は、もっと圧倒的な不安と、いったいどうすればいいのだろうという困惑こんわくのほうが大きかった。この子の名前も、この先も。

思ったような反応が得られなかったのだろう。わたしだけでなく、父も母も、この状況に言葉を続けることができないでいた。

「泣きたいのはこっちなんじゃないだろうか」とすら、思ったくらいだから。


「おやおや、かわいいわんちゃんが来たねえ」


沈黙を破ったのは、奥の部屋から出てきた、少し早い羽織姿の祖母だった。

後から聞いた話だけれど、祖母も子どものころ、実家で犬を飼っていたらしい。

壊れものを遠巻きに眺めるしかないわたしたちに比べ、ケージを見つめるそのまなざしは、どこか遠く懐かしいものをみるように、温かな奥行きをたたえていた。


「お耳が垂れてるのね。この子は、お名前はなんていうんだい?」


「・・・・・・決まってない」


たぶん無表情に近い顔で言ったわたしに何を言うわけでもなく、そうねそうねと、祖母はうなづいた。


「この子は、琴ちゃんの犬かい。じゃあ、いい名前考えてあげんといかんねえ」


いっそそのまま、祖母に命名してほしいくらいだった。

わたしはもう既にいろいろなことどころか、生きているだけで手一杯で、言い方は悪いけれど、降ってわいたようなこの状況で、これ以上まわる頭もなかった。


子犬は、まだきゅんきゅんと鳴いている。なんだか悲鳴のように聞こえて、いっそ耳をふさぎたかった。

だというのに、それだけ言って、祖母はまた部屋に戻ってしまった。



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