少年 大志を抱いた場合

 門戸は、開かれていた。

 バカでかい門戸だった。その幅たるや正確に九十九里浜と同じ長さだった。というか九十九里浜だった。


 ここは神聖東京大学全体学部。先ほど入学したところだ。受験がちらつく高2の夏、ふと目に留まったパンフレットに、パチ屋の看板じみたド派手な金色の文字で建学の精神が書かれていた。「全知、さもなくば死」。

 ここに行こうと決めた。全知、さもなくば死。この明快さ。心臓をひとつかみの風が吹き抜けていった。


 入学式は流れで始まった。入学生が揃っているようには見えなかったし、というかそこには十二、三人の、年齢も性別も風采も何もかもバラバラ、たまたま今そこにいたとしか思えない人々が雁首揃えてみなボーッと突っ立っていた。パイプ椅子どころか、大ホールも、講義棟さえも見当たらなかった。どうしたって九十九里浜だから。四月、春。まだ鬱々しさを薄く湛えた波が、静かに寄せては返している。だが、きっとみんな、こここそが神聖東京大学全体学部だということを確信していたに違いない。ここに入れるようなやつは、この「東京」が「東京ディズニーランド」の「東京」と同じ仕組みであることなど、バチボコに殴られた末の昏睡状態だったとしても瞬時に理解しただろうから。

 どうして入学式が始まったのが分かったかといえば、棒立ちの面々を迎える海辺の景色をつんざいて、「総長挨拶」という天の声が響き渡ったからだ。それはあまりにも完璧な天の声だったので、その場にいる誰一人として、今の声が誰のものかといった首振り、目線の泳ぎその他衰弱した仕草を見せることはなかった。すべてが大いなる流れの中にあった。今まで考えもしなかったが、確かに、こんな感じで始まる入学式があってもよかったのだ。全知への道は長く険しく、そしてほのかに潮の香りがした。


 いうまでもなくみな総長を知覚していた。総長は最初から、まるで自明性が受肉したかのように仄白い沖に聳え立っていた。大学の公式ホームページを見た時、上部のバナーにアトランティスの神殿もかくやという巨大な白亜の学舎が掲載されており、その下には「総長のことば」とあって、総長らしき人物の顔写真が慎ましく添えられていた。まさかその写真とバナーの縮尺が全く同一のものだとは予想していなかった。総長、山田極限人(やまだ・きわみのかぎひと)は、知の孤峰だった。目を細めてみても、その肩の上には誰も立っているようには見えなかった。もしかしたら、知はいまだ始まってすらいないのかもしれない、そんな気がしてきた。何人かが「え……何?」「デカいとか、そういうレベルじゃなくね」「小錦?」と呻くように呟き、震える手でスマホのカメラを総長に向けていた。たぶん、ボーダーギリギリで受かった連中だろう。入学式はすでに始まっているというのに。

 その挨拶だが、総長が何かを言っていることは分かったが、何を言っているのかは分からなかった。ちょっと遠すぎたのかもしれない。体格からすれば十分ここまで聞こえるだろうと推定されたが、俯き加減にボソボソと喋っているのがここまで聞こえない原因かもしれない。原稿を読んでいるのだ。その手元には千葉県全体を容易に拭きとれるほど巨大なトイレットペーパーともいうべき、びっしょびしょに濡れそぼった原稿が渡されていて、総長はそれを唯一の機能とする特有の装置であるかのように、信じられない勢いでトイレットペーパーを右から左に送り続けていた。一向に終端に達する様子がなかった。


 「国歌かつ校歌斉唱」と、再び天の声。総長の挨拶は当然終わっていないが、そういう流れなのだから仕方なかった。残響が止むと、それまで総長だけが屹立していた海の奥から、びっしょびしょのオーケストラらしき面々と、びっしょびしょの合唱隊らしき面々が次々と頭部を現しはじめた。まもなく音楽が鳴り響いたが、それは未来の音楽としかいいようのないものだった。国歌かつ校歌であることなどそうそうない。建学の精神即建国の精神であることがたちどころに理解され、自然と背筋が伸びた。ただでさえ青白い顔色をしていた右斜め前あたりの女学生がくずおれた。どうやら失神したらしい。全知、さもなくば死。

 歌の途中で総長の挨拶が終わった。トイレットペーパーはあまさず海に呑まれ、総長は突然、摂理が裂けるほどの大声で「ない、ない! ないないなっちゃった!」と慟哭を始めた。両腕をブン回していたところ右手が太陽に当たり、太陽は不意を突かれた様子で海(この場合、正確に千葉沖ということになる)にめり込んでいった。あたり一面が闇の叫び声のような七色に転じたあと、静かになった。総長はしゃがんで自分自身がはたき落としたばかりの太陽を両手で掬い取った。傷ついた太陽は緑色にちらついていた。蛍の光を思い出した。その緑色もやがて弱っていった。


 ほとんど何も見えない黒の中を、一陣の風が吹いた。景色は再び元の色を取り戻したが、あの太陽は総長の左手にしっかり握られていた。一時の動転が嘘のように、総長はふたたびその威風を取り戻していた。左手を胸元に捧げるようにして、堂々たる体躯をこちらに向けた総長は、ゆっくり振り返ると、右手で東の空を指さした。


「Hey Guys」


 今初めて、総長の声が「届いた」。脳髄の一番深いところまで染み渡るように響いた。


「Boys be……」


 一瞬で身体が沸騰した気がした。アツさ、バイブスを超えすぎて一周回って単純に熱いというのが正確なアツさが、末梢神経の最後のひと先に至るまで走り抜け、燃えあがる身体は反射的に海へと向かった。どこまでも行きたい。見渡す限り広がる(千葉沖)、可能性の、ひんやりとした、さわやかな未来へ……

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短いもの置き場 伊東黒雲 @Itou_Cocoon

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