第8話

 光を見つけるまで時間はかからなかった。


 ローズマリーとの演奏直後に気を失ったカノンだが、数十秒でその意識を取り戻した。そして目と鼻の先にご令嬢の顔があるのがわかって仰天する。

 彼女はピアノからカノンへとすぐさま駆け寄って来て、その身体を抱きしめるようにして支えているのだった。


 悲鳴にも近いローズマリーの声を聞いて、使用人たちも部屋に入ってきた。


「えっと……感極まって気絶しちゃったみたいですね」

「ですね、じゃないわよ。大丈夫なの? 立てる?」


 カノンのどこか他人事で暢気な言葉にローズマリーは眉を寄せた。


 ご令嬢の肩を借りてカノンはよろよろと立ち上がるが、使用人の一人が部屋で寝かせたほうがいいと言う。


「でも……」

「無理してはいけないわ」

「お腹もけっこう空いちゃっていて……」

「後で山ほど食べればいいわ」

「それにローズマリー様から、まだ聞いていません」

「え?」

「今の演奏はあなたの心を動かせましたか」


 くすっとローズマリーが笑う。

 カノンの言ったことを戯言だといなす笑い方ではない。使用人たちは思わず顔を見合わせた。話には聞いていても、ローズマリーがそんなふうに優しげに笑ったのを直に拝んだ経験がほとんどなかった。


「ついさっき、目を合わせたときに伝わったものだと思っていたわ。私の思い過ごしだったのかしら」

「いえ、それはその……きちんとお言葉をいただきたくて」


 カノンはしゃんっと立ってローズマリーと向かい合った。


「言質がほしいってこと? あなた、意外と肝が座っているのね」

「わ、私はローズマリー様の心を晴らすためにやってきたんです。二人での演奏は、予想していた形ではありませんでしたが……」

「そう」


 ローズマリーは心がむずむずとした。

 まっすぐに自分を見据えて話すカノン、それを使用人たちに見られるのがなんだか恥ずかしかった。


「敢えて不躾な言い方をすれば、今の演奏でようやくローズマリー様に触れることができた気がするんです」

「ん、ん。カノン、そういった話はまた後でしましょう。そうね、夕食が済んだら私の部屋にいらっしゃい」


 それから、カノンの体調に問題がないのか使用人が確認しつつ、先に部屋を出た。イルヴィオンの弓とケースを持って別の使用人が続く。


 音楽室に一人にしてもらったローズマリーはまずピアノの屋根を閉め、それから鍵盤の蓋閉じた。先の演奏を思い起こして名残惜しくもなる。

 しかしそれ以上に清々しい。


 あの時のカノンの顔。意識を失う寸前とは思えない、威風堂々とした美がそこにあった。あれこそが堂々たる若きイルヴィオン弾きの真価であり、その奏でる音色は一人の令嬢の心に響いた。いや、響き合ったのだ。


「カノン、あなたの気持ちは嬉しい。でも私は……」


 その独り言は音楽室に残響することなく消えた。





 空に浮かんだ半月はローズマリーの部屋をほんのりと照らす。


 窓辺にて、二人の少女を隔てる円卓上にはオイルランプが灯り、そのオレンジ色の炎が微かにゆらめく。カノンは同じく円卓上にある白と黒の駒を操る盤上遊戯を初めて目にした。ローズマリーに手ほどきされながらゲームを少しずつ進めていく。


 しかしご令嬢が私室に招いたのは遊び相手がほしかったからではないと当然、承知していた。


「何をどこから話そうかしら」


 盤上で早々と決着がつき、カノンの白い王様が倒されてからローズマリーが呟いた。


「そうね、まずはあなたが望んだように言葉にしておくわ。あの時の演奏、素晴らしかったわ。あなたは私に初めて触れられただなんて口にしたけれど……ええ、私もそれまでにない一体感を得たのよ。あるいは幸福感と言ってもいい」

「あ、ありがとうございます」

「感謝するのは私だわ。けれどね、あなたは勘違いしているかもしれない」

「勘違い?」

「そう。あの楽譜はオットー様からの贈り物ではないの」


 今はもういない大切な人からの贈り物。楽譜についてローズマリーの説明がそれだった。ゆえにカノンは亡き婚約者だと考えたいたのだった。


 もしかして別の身内の方、たとえば祖父母なのだろうか。貴族の動向をまったく知らないカノンにしてみれば、クライスラ侯爵家で誰が存命なのかは把握していない。


「あれはね、オットー様の妹であるアリーチェからもらったものなのよ。私の一つ下の女の子でね、オットー様と三人とでよく演奏したものだわ」


 アリーチェ。たしかにその名前なら、使用人に聞き込みをした際にご令嬢と合奏していた相手として挙がっていた。

 今、ご令嬢が教えてくれたこと、すなわち兄妹揃って親交があったのも聞いている。


「そうだったのですね……」

「ねぇ、カノン。あなたはここに来る前に私について何か噂を聞いた?」

「いいえ、何も」


 カノンの即答にローズマリーは苦笑する。それを見たカノンは慌てて、道中を思い返した。


「執事さん、それにメイドさんから、ローズマリー様が大変美しいお嬢様であるのは聞いておりました」

「実際に会ってどうかしら」

「噂どおり、いえ、噂以上の美貌に私は……」

「そこまでにしておいて。そう褒められるとこの後話しづらいから」

「何か全然別の噂がされているのですか」


 ローズマリーは曖昧に頷くと、ふぅと溜息をついた。

 そしてそれがこれから話すことに必要なのだと暗に示すように、ベールをとった。何度見ても心惹かれる髪、それに瞳だ。


「私はオットー様の死を受けてこの一年間、喪に服していたのではないの」


 声が震えていた。

 ここにいる使用人含め、誰にも明かしてこなかった秘密なのだとカノンは悟る。


「それってつまり……」

「アリーチェなのよ」


 炎のゆらめきが増した、そんな気がカノンにはした。でもそんなことはない。

 今のローズマリーの呟きは炎を揺らめかせるどころか、消えてなくなりそうなか細く、弱い声だったのだから。

 それをはっきりと耳にできたのはカノンがローズマリーの声に懸命に耳を傾け、一言足りとも聞き逃しはしまいとしていたからだ。


「アリーチェ様? オットー様の妹君がローズマリー様が喪に服するのとどんな関係があるのですか」

「そう……あなたは知らないのね。アリーチェも同時期に亡くなっているの。オットー様と同じ流行病でね」

「それじゃ、ローズマリー様は――」


 そこまで言ってカノンは続きを問うのを躊躇った。盤上で倒れたままの白い王様。白い女王は黒の駒に囲まれて身動きができずに戦いは終わった。


「オットー様は五歳下の少女である私を愛してくれていたわ。外見ばかりではなく、私のことを理解しようとしてくれていた。クライスラ家での演奏会もあの方が発案してくれたの。彼のイルヴィオンは逞しく強かな音色で、私を導いてくれた」


 ある日、それはローズマリーが十四歳を迎えた春季のこと。

 オットー様との月に一度か二度の演奏会が二十回に達していた頃、アリーチェは彼に連れられてクライスラ家へと訪れた。伯爵家でオットーと同じ師からイルヴィオンを習っていた彼女は兄が定期的に外へと弾きに出向くのを羨んでいたのだった。


「私たちはすぐに打ち解けたわ。それまでお茶会やパーティーで同年代の令嬢たちと知り合うことはあったけれど、心を通わせはできなかった。なぜか相手が萎縮してしまうのが多かったの」


 触れがたい美しさの弊害かもしれないとカノンは思った。たとえ当時のローズマリーが明るい性格であっても、彼女と対面したその日に女神が如くその容貌に慣れ親しむのは難しいだろうから。


「アリーチェは違ったわ。まるで私を姉のように慕い、そして私も彼女を妹のように慕い始めた。ゆくゆくは義妹になる予定だったのだから周囲も微笑ましく見てくれていた」


 二人の関係が変わったのは、アリーチェがオットーに同伴ではなく一人でもローズマリーを訪ねることが増え始めて数ヶ月してからだ。ローズマリーは十六歳となっていた。


「あの子は……私からの愛情を望んだの。オットー様が私に伝えてくれていた意味での愛よ。ようするに、こういうことなの。あの子は本気で実兄を恋敵として見ていたのよ」


 カノンは恐れおののいた。

 自分にとっては友人となるのも叶いそうない存在のローズマリー様、実の兄の婚約者である彼女にアリーチェ様は恋慕していたというのだ。

 成就し得ない恋心の行き着く先がどんなものかカノンには想像だにできない。ただ、知っているのはローズマリー様を愛した二人は病で亡くなったということだ。


「ローズマリー様はアリーチェ様の気持ちにどう応えなさったんですか」


 乾いた声が自分のものだと信じられないカノンだった。

 目を伏せたローズマリーが唇を噛む。


「拒みきれなかった。いいえ、これは嘘ね。拒みたいと思えなかったの。たしかにアリーチェは私と同じ女性であり、だからそんな仲になるのは無理だとわかっていたわ。けれど……あるいはだからこそだったのかしら」


 目元を指で抑えるローズマリーは夜想曲を奏でるように言葉を紡ぐ。


「あの子の想いをできる限りは受け入れたかったのよ。その想いが夢のようなもので、いつか覚めると信じていたわ。でもね……気がつけば夢の主が彼女一人なのか、私もなのか区別がつかなくなっていた」

「では、アリーチェ様のことを――――」


 喉がきゅっと締まって最後まで訊けない。だが、それで十分だ。

 ローズマリーはその細白い指先、ピアノを優雅に舞っていたそれで瞳を隠したまま、こくりと肯いた。カノンは言葉を失う。それだけではなく、ずきんずきんと胸が痛い。


「この一年間……私はアリーチェを想ってここにいたの。私たちの関係を誰かにきちんと告白したのはこれが初めてよ」


 そうしてローズマリーは、もう一つ打ち明ける。

 この別荘地にいる使用人を選んだのは彼女であり、その人選の理由は生前のアリーチェとの関係がクライスラ家の若いメイドを中心に噂になっていたからというものだった。

 できるだけ自分とそれまでに関わりのなかった使用人、そして年上の人物を選んだのだという。


 レオンツォは本家のメイド、もしくはそのメイドが噂を漏らした誰かからローズマリーとアリーチェとの件を耳にしたのだろう。

 あの忠告の真意は、ローズマリーが再び本家に戻る際にはアリーチェとの噂がすっかり払拭されておくべきなのに、年の近い可憐なイルヴィオン弾きを寵愛していたら都合が悪いというものだったのだ。





 ローズマリーの告白を聞くだけ聞いて、まともに返事ができないままカノンは部屋を去ることになった。

 そして与えられている部屋で一人になって自分に何ができるかを考えてみる。

 ご令嬢の秘密、それに対して何をどんなふうに言えば彼女がすすり泣くのを止められたのか。結局、彼女はその涙も涙声も聞かせまいとカノンを部屋から出したのだ。


「これで終わりなのかな」


 闇の中、ベッドの上で横になっておぼろげに望める天蓋にカノンは声を投じる。でもそれはカノン自身に落ちてくるだけだ。

 結果がどうであれ一度帰るとニコラと約束している。であれば、明日にでもこの屋敷を離れるのが適当だろうか。


 まさかそんなことない。


「だって……やっと知りたかったことを、ローズマリー様の胸の内を知ったんだ。ずっと抱えてきたことを教えてくださったんだ。だから、そうだよ……これが始まりなんだ」


 カノンはベッドから出て手探りでケースからイルヴィオンを取り出す。


 幼い頃にニコラが、夜を怖がって目は閉じても眠りにつけないカノンに弾いてくれた曲があった。それをカノンは子守唄なのだと信じていたが、後になって鎮魂曲なのだと判明して複雑な心境だった。


 それを今、弾き始める。暗闇の中でも音は聞こえる。その楽器の手触りがわかる。


 会ったことのない高貴な兄妹のために、と驕るつもりはない。

 誰かに届けられるとしたら、希うことを許されるのであれば、それはやはりローズマリーだ。彼女の心が、そして魂が安らかにこの夜を越せるようにと祈って弾く。


 そうして抗えない眠りが少女の頭をガンガンと叩くまで、弾き続けたのだった。





 翌朝、カノンは寝坊して使用人の一人に起こされた。

 それは例の髪結いのメイドで、何やら興奮した様子だった。寝ぼけ眼をこすったカノンは、もしかして自分を屋敷から追い出すようにとご令嬢から指示が下ったのかと不安になって確かめた。


「何言っているんだい! カノンちゃん、早く部屋を出る支度をして。私も手伝ってあげるから。いくらお嬢様がのんびりと食後のお茶に興じているといっても限界があるよ」

「えっと……まさかローズマリー様がお待ちなのですか」

「そうだよ! それも、なんと食堂で。今朝、ふらーっと寝間着のままで現れて『今日はここで食べるわ』って言ったものだから、食事担当の人が部屋の清掃担当に『お嬢様の部屋になにか臭いものでもぶちまけたのか』って訊いていたぐらいだよ」

「そんなことが……朝から大変ですね」

「カノンちゃん?寝ぼけているんじゃないよ。お嬢様の部屋は無事さ。カノンちゃんといっしょに食事をとりたいってことだよ!」

「ええっ!」


 大慌てでカノンが身なりを正して食堂へと向かうと、あの月夜に目にしたシュミーズドレス姿のローズマリーがそこにいた。


「遅いわよ。食後、私の部屋に来なさい。服を選んでもらうわ」

「は、はい!…………服?」


 首をかしげるカノンに構わず、ローズマリーは食堂を去った。そのカップに飲み物は一滴も残っていない。


「さぁ、カノン。どれか一つ選びなさい」


 食後、言われたとおりにご令嬢の私室に赴くとローズマリーが三つのドレスを大きなテーブルの上に広げていた。


「あの、どれも私にはサイズが……」

「何を言っているの?着るのは私よ」


 さらりとローズマリーは口にした。カノンの誤解は予想どおりであったのか、まったく気にしていない。


「え? それはつまり、もう喪服を着ないということですか」

「ねぇ、一から十まで説明しないといけないかしら」


 怒りではない。ローズマリーの表情にあるのは照れだ。


「いえ。ですが、一つだけよろしいですか」

「……なに」


 その場の思いつきの質問ではない。

 昨夜イルヴィオンを弾きながら、ご令嬢に訊こうと決意していた事柄だ。それ抜きでは、今後のカノンの演奏はないと言える。


「ローズマリー様は今は亡き大切な人の喪に服して一生を終えるのではなく、別の未来を進みたいという気持ちがおありですか。もしそうなら……どうか私にそのお手伝いをさせてください」


 カノンは見よう見まねであったが、ご令嬢の前で跪いた。


 急にそんな態度をとられてローズマリーはかなり動揺する。新しい門出、その最初の一着をカノンに選んでもらいたかった、他でもなく自分の心を溶かした張本人にとそうしてほしかっただけなのだ。

 それ以上は求めてならない、それは忠告を無視するどころの騒ぎではない。

 そうよ、彼女の想いには答えられないわ――そう結論を出していたのに、仰ぎ見てくるカノンの言葉で揺らぐ。


「あなたのために私は弾きたいのです」


 今度は顔を背けられなかったローズマリーであった。


「っ!! あなた、こんな朝からそんな……。わかった、好きになさい。けれど、覚えておくのよ。私は決してあなたの想いに答えられないって。ただ、しばらく私の元にいることを許すだけ。一人のイルヴィオン弾きとしてね」


 カノンは心の内が見透かされた心地がした。これから先、ローズマリーのために演奏を続けていけば、いつか友人になれる日が来るかもしれないとそんなふうに希望を抱いてもいたのだ。

 けれどその想いには応じられないと言われてしまった。


 でも、とカノンは前向きに考える。


 一人のイルヴィオン弾きとしてなら、彼女のそばにいられるのだ。ローズマリー様に寄り添えるのだ。


「カノン、あなたには私の世界を変えた責任をとってもらうわよ」

「ええ、喜んで」


 カノンが、ローズマリーに抱く想いが献身や友情、敬慕とは異なると自覚するのは先の話になる。一方、喪服を脱いだローズマリーがその平民の少女の一挙一動に惑わされるようになるのはもう少し近い未来である。


 何はともあれ、かくして一人のイルヴィオン弾きの少女と一人の侯爵令嬢は新しい関係を結び、共に歩み始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弦奏恋路譚〜侯爵令嬢に捧げるカプリース〜 よなが @yonaga221001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ