第7話

 ローズマリーが演奏を提案した曲というのは、三楽章構成で三十分足らずの曲だ。そして彼女が生まれた年に作られた。

 昨日にそれを聞いて楽譜を渡された際には、カノンはその曲とご令嬢に特別な繋がりがあるかを訊いた。

 

 彼女は笑ってまずは否定した。何も彼女の生誕に合わせて作曲されたものではなく、そもそも作曲家と面識もないのだという。

 そう説明してからその楽譜を「今はもういない大切な人からの贈り物」と表現した。

 そのときのローズマリーの哀切な声に、やはり特別であるに相違ないとカノンは思った。その大切な人というのが亡くなった婚約者であるオットーなのは容易に察しがついたのだった。


「おさらいしておきましょう」


 二人きりの音楽室。

 ローズマリーはピアノを、カノンはイルヴィオンを弾く準備が整っていた。


「今から演奏するイルヴィオンソナタでは、ピアノとイルヴィオンが対等なの。大公国の音楽史上、ピアノとイルヴィオンは相容れない楽器だと考えられてきた時代のほうが長いと教えたわよね?」


 ピアノと弦楽器の二重奏で最も多いのは、あくまでピアノがメインであり助奏として弦楽器が加わっている曲だ。そしてその弦楽器にイルヴィオンが選ばれることは珍しかった。

 作曲家たちはその二つが組み合わさることを忌避していたと記す書物もあるぐらいだ。

 

 相容れない存在とされてきたピアノとイルヴィオン。どちらか片方がもう一方に従属している曲ではなく、対等な関係にある曲が大公国で作られ始めたのは五十年ほど前からだ。ピアノとイルヴィオンの二重奏は他の二重奏に比べると人気があるとは言えない。


「この曲の面白い部分は、何だと話したかしら。カノン、覚えている?」

「もちろんです。第一楽章ではあたかも二つの楽器が好き勝手に自分の音楽を進んでいるようにも聞こえるのに、しだいにそれらが調和していく。第二楽章では入れ替わり立ち替わりといったふうに、どちらの音も主役となり脇役となりを繰り返していきます」

「そう。第三楽章では?」

「手を取り合う、いえ、一体となると言えばいいでしょうか。まさしく異種楽器の二重奏の極致とも言える共鳴があります」

「そうね、譜面上、もっと言うと頭の中にはあるわよね。そのイメージが。けれど、私たちはそこに辿りつけていない。その入り口にさえもね」


 二人が知り合ったのは数日前。そしてカノンはつい昨日に初めてこの曲に出会った。

 一朝一夕で納得がいくレベルに仕上げるのは到底不可能だ。それがわからないローズマリーではない。ローズマリーは無理難題を振って自分の意志を折ろうとしているのではない、そのはずだとカノンは感じた。


 入り口とご令嬢は言った。

 カノンもせめてそこへと達したい。自分一人だけでは無理でも、二人なら、この人となら……。そう思うと同時に、それがご令嬢の真に望んでいることなのかと疑わしくなる。 

 なぜなら、本来この曲を彼女と共に弾き、奏者としての感動を分かち合うのはオットー様であったはずだからだ……。


「カノン? 弾く前から怖じ気ついた顔をしないで」

「し、していませんっ!」

「なんですって。それは私の目に狂いがあると言いたいのかしら」

「違います。そうではないのです。それを――――演奏で証明してみせます」


 空気がいっそう張り詰める。

 口答えしたことにカノン自身が驚いていた。ただ単純に誤解してほしくなかったのだ。怖いのではない。不安なのではない。そう自分に言い聞かせてカノンは深呼吸をした。


 オットー様はもういない。それが揺るがない事実だ。

 レオンツォ様はご令嬢に未来を見るべきだと話した。そのとおりだ。

 この曲で自分は亡き人の代わりをするのではない。友人には決してなれずとも、音楽の中でなら、今ここにおいては対等になりたい。それをどうか許してほしい。

 カノンは覚悟を決めた。


 ローズマリーの目に、カノンの面構えがこの数日で見たどんなものよりも凛々しく映った。それによって彼女はそれ以上何も言えなくなったどころか、咎めたのを悔やみさえした。

 

 たしかに数秒前にこの少女に恐れや不安を見たはずなのに、今はどこにもない。

 実は自分自身の心中を鏡のように覗いただけではないかと思った。ローズマリーはカノンに倣って深く呼吸をした。

 集中しなければならない。この子の想いがにわかに芽生えた、取るに足らないものかこの曲で見極めるのだ。


 お互いの顔が目に入る位置に、カノンは立ってイルヴィオンを構えた。

 

 おおよそすべてを暗譜しているローズマリーと違って、カノンは譜面台を要した。それも複数の。楽譜をめくってくれる誰かをご令嬢は呼ぼうとせず、カノンからも頼みはしなかった。

 苦肉の策ではあったが、楽譜が目の届く場所にある以上、失念や注意不足での演奏中断をご令嬢は禁じたとも言える。

 こうしたことを踏まえた上で、できることならと願うカノンがいる。演奏の最中にローズマリーを、その心が動くその瞬間を目にしたいと。





 あともう少し。

 その感覚を二人で共有して既に三時間が経過している。音楽室に入ってからは六時間だ。午後二時を過ぎている。

 

 二回目の小休憩もまた一回目と同様に演奏に関する話をいくらかしただけであとは無言だった。彼女たちの疲弊を使用人は案じていたが、演奏を止められはしない。二人の顔に浮かんでいるのは疲れだけではなく、強い意志だからだ。


 結果としてまだ満足のいくレベルに到達していないが、カノンが一度だって半端な演奏をしてはいないのをローズマリーはわかっていた。だからこそ彼女も手が抜けない。

 もとより抜くつもりないとは言っても、カノンのイルヴィオンにしだいに圧倒されて、ついていくのが精一杯になっているのは認めざるを得ない。


 だがそれを、彼女はあのニコラ・パッガーニの弟子で、自分は先月までピアノを遠ざけていた令嬢だからと割り切ってしまいたくない。この曲はそんな簡単にイルヴィオン弾きにリードされていいものではない。


 ふと、ローズマリーとカノンの視線がぶつかる。演奏を再開する合図だと受け取ったカノンはイルヴィオンを構えたが、ローズマリーはピアノにその手を向けず、立ち上がった。


「カノン、少し髪が乱れているわね」

「……すいません。直してきます」

「待ちなさい。それほどでもないから、私でも直せるわ」

「でしたら、口頭で指示をくだされば私自身で……」

「こっちに来て」


 言われるがままにイルヴィオンを椅子にそっと置き、ご令嬢のそばに寄るカノン。そんな彼女を正面から見据えて、黒髪に触れるローズマリー。


 カノンはどこを見ていればいいのか困った。近くで目にするご令嬢は綺麗すぎて息が詰まりそうになる。

 ふわりと香るその匂いにしても、まるで人ではなく妖精や精霊と称される者たちが人を惑わすためにつけている匂いなのだ。


「あの、ローズマリー様は髪を結ばれることはないのですか」


 黙していると香りに酔いそうでカノンはなんとなしに尋ねた。


「あるわよ。むしろパーティーに出席するときはこのままなのがないわね。この一年間は家族の誕生日にも手紙だけでここを出ていないけれど」

「そう、なんですね」

「できたわ。……ねぇ、その髪飾りは気に入ったの? 他にもたくさん種類があるというのに、ずっとそれよね」


 ローズマリーがカノンの髪についている、金色の花を眺めて言う。小さく可愛らしいそれは黒にはよく映えるので、この数日間のローズマリーの記憶に残っていた。


「似ているかなと思って」

「あなたの好きな花に?」

「いえ、その……」

「話せないことなの?」

「ローズマリー様の髪に似ていると思ったのです」


 観念してカノンが白状すると、ローズマリーはきょとんとして、それから顔を背けた。


「そう……。いじらしいことをするのね」

「不愉快にさせたなら申し訳ありません」

「いいえ。とんだ不意打ちだったわ」

「不意打ち?」

「再開しましょう。今度こそ、二人でこの曲をものにするのよ」


 そうしてまた二人は演奏し始めた。

 ここ一時間は第三楽章を重点的に練習していたが、ここで第一楽章に戻ってみることにした。構成上、まずはピアノとイルヴィオン各々が独立している様相があり、そこからの歩み寄りを経て、そして調和がある。その流れを今一度掴むことでその後の楽章をより上質な演奏にしようと話し合った。





 さらに三時間後、二人は「もう少し」から抜け出して、至高の共鳴をその手中に、そして耳で捉えつつあった。

 それは二人がこれまで重ねた短い時間からすると奇跡的な旋律であったが、二人揃ってまだ満ち足りていない。

 

 この人とならもっと……。互いにそう感じていた。


 使用人の一人がタイミングを見計らって、部屋へと入り、夕食の準備ができたと告げた。それは三回目の休憩時にご令嬢が使用人から通常の時間通りに用意していいかを訊かれて、そうしてと応じたものだ。


「三十分後に食べるわ。……カノン。次で決めるわよ。そしてどんな結果であろうと、今日はもう演奏しないわ」


 そしてローズマリーは使用人を部屋から出した。聴衆はいらない。必要なのは共に曲を奏でるその少女だけだ。


 演奏が始まる。


 第一楽章では互いの音は手を取り合うことのない、離れ離れから始まって、しだいに惹かれあっていく。


 第二楽章では繋がれたその手をどうしたらいいかわからずに、それぞれが一方を引っ張るのを繰り返す。


 第三楽章でやっと二つの音はあるべき場所を見つけたように、絡み合い、溶け合い、一つになろうとする。


 カノンが頭に描いていたのはローズマリーとのダンスだ。

 それは抽象的なイメージよりもずっと単純かつ鮮明に、カノンにどう演奏したらいいかを教えてくれる。

 愛や死、今はそんなものは考えずにただひたすらに彼女と踊り続けたく思った。


 最後の一音が室内に響いた時、自然と二人は見つめ合っていた。


 ローズマリーの顔に笑みが浮かんだのを目にした時、カノンは全身が熱くなって、そのまま倒れこみかけた。


 どうにか両足で踏ん張ったが、しかし膝から崩れ落ちる。イルヴィオンはぎゅっと掴んだままだ。からん、と弓が床に落ちた。


「カノン!」


 その声が聞こえたのを最後に、カノンの意識は闇へと沈んだ。

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