第6話
レオンツォが屋敷を離れた後、カノンは二時間にわたってご令嬢の前で演奏した。
元々、演奏は午後からの予定だったはずが、演奏を中断させたのは昼食だった。そして昼食後、ローズマリーはカノンに音楽室と隣り合わせの小さな部屋を案内した。
そこにはイルヴィオンの手入れに必要な道具が一式揃っていた。弦と弓の予備もあり、演奏前に弓毛に塗る松脂については何種類か置かれている。カノンが使用している松脂はニコラが調合したもので、彼女曰く貴族であった頃に懇意にしていた職人からレシピを教えてもらったそうだ。
昼下がりから夕食までの時間は、ローズマリーの提案でピアノとイルヴィオンとで合奏することにした。ローズマリーが以前はよくイルヴィオンソナタの伴奏を受け持っていたと話したので、カノンは思い切って「オットー様とですよね」と訊いた。
するとご令嬢は「そう」とのみ返して、追及を許さなかった。
「レオンツォ様はまるで私がベールを外すのが特別なふうにおっしゃっていたけれど、そんなこともないのよ」
そう言ってピアノ椅子に腰を下ろしたローズマリーがベールを脱ぎ取る。
ピアノを弾く上で目元が隠されていては弾きにくいから。考えてみれば当たり前のことで、もしもレオンツォ様が最初からご令嬢に伴奏を頼んでいたらどうしたのだろうと思うカノンだった。
「大公国の歴史を紐解けば、盲目の音楽家も三名ほどいるけれどね」
「そうなのですか」
「ええ。時間があったからこの一年間で音楽関係の本や雑誌、新聞記事はたくさん読んだわ。あなたの師匠であるニコラ・パッガーニについても」
麗しい赤みがかった金髪にご令嬢が手櫛を入れながら話す。
「あなたに兄弟子や姉弟子はいるの?」
「さあ……唯一の弟子だと言われたことはありません。ただ、弟子をとるような人ではないです。孤児になった私を教会から引き取って育ててくれたのだって『気まぐれ』なんだってよく言っていましたし」
「聞いたところ、あなたが暮らしているのは小さな農村なのよね」
「はい。目立つ建物は教会だけで、村長の家すらこじんまりしています」
「そういった環境下で、今のあなたの話し方を教育するのはそう簡単でないはずよ。ようは、いつか外の世界に送り出そうと最初から考えていたんでしょうね。気まぐれなんかじゃなくて」
ご令嬢から予想だにしない指摘をされてカノンは言葉に詰まった。
たしかにこの話し方は本の影響が大きいとは言っても、ニコラからの教えが一番だ。
荒々しい口調の彼女が自分には丁寧な言葉遣いを教え込むのは師弟という上下関係ゆえだと推察していたので、いつか来る旅立ちのためと言われてもぽかんとしてしまう。
だがもう少し考えを進めてみればご令嬢が正しいとカノンにもわかった。
貴族を相手に顔をしかめられない発音と言葉遣いが生かされるのは小さな農村ではないのだから。あの村でたとえ一端のイルヴィオン弾きになったところで演奏だけで生計を立てられないのも事実だ。ニコラがいなくなっても、あの村で生き続けている自分、その未来を思い描けるだろうか?
カノンはそこで思考を止めた。
そしてそれを見計らったようにローズマリーが「さぁ、弾きましょう」と鍵盤に指を添えるのだった。
その夜。夕食後にカノンは部屋で一人になると、目を閉じて記憶にある今日の自分の演奏をなぞった。
しかしそれはうまくいかず、演奏前後のローズマリーとの会話ばかりが思い出される。
その中でも後悔している会話というのが何度も頭で繰り返されて嫌になる。
二人での演奏が終わった後にカノンはご令嬢に「今日の演奏には何点くれますか」と真顔で訊いてみたのだ。その点数しだいでは彼女がその胸中を明かしてくれると見込んで。
けれど失敗だった。
――――レオンツォ様はああ言っていたけれど、べつに私はオットー様の演奏に頻繁に点数をつけていたのではないの。あの七点というのも、彼に求められて冗談半分で言ったものなのよ。だから今日、あんなふうに言われていい気分ではなかったわ。
今もあの時のローズマリーの声がカノンの耳に響いている。
それが、失言した自分への叱責や怒りが込められたものならばまだ耐えられた。だが、その声からご令嬢自身が彼女の言動を悔やんでいるのが伝わって胸が締め付けられた。
カノンは落ち着かなくなって、部屋の中にある立派なクローゼットを開いた。
そこには日中着ていた例の若草色のドレスがかけられている。ローズマリーはカノンにそれを譲り渡すと言ったのだ。
その上で明日はまた別のドレスを着てもらうからとも話した。
断る選択肢はないが、こんな待遇を受けるとなおさらレオンツォのあの言葉に深い理由があるのではと勘ぐってしまう。
彼はローズマリーに、カノンを可愛がり過ぎないようにと「忠告」した。
なぜだろう。
カノンはクローゼットを閉じて窓辺へと行き、わずかに欠けた月を仰ぎ見た。
たとえば飼っていた小鳥を溺愛してかまいすぎたために、隙をつかれて逃げられたとか?
いや、そんなので遠方の侯爵子息の耳に入るわけがない。
流行り病で亡くなったというオットー様。
ご令嬢がずっと喪に服するぐらいだから、きっと二人には深い愛情があったのだろう。
その頃のご令嬢はどんな格好でどんな表情をしていたのだろう。
自分の知らないローズマリー・クライスラ。黒ではないドレスに、明るい笑顔、愛しさが込められた声。
胸に手をあててカノンはちくちくとした痛みに悶える。不思議な痛みだ。
これまで味わったことがない。病でないのを願って、カノンは眠りにつくのだった。
それは三日後にカノンが淡い紫色を基調にしたドレスを纏った時だった。
「答えて、カノン。あなたは今でも私の秘密を知りたい?」
そう問われてカノンは思わず鏡の中のローズマリーではなく、そばにいる彼女を直に見た。相変わらずその顔半分は隠れているが、今までにない決意が漂っている。
つまりこの問いは重要な意味を持つのだ。
秘密、そう形容したこと自体が初めてだった。カノンはこの数日間でローズマリーの抱える何かについてあれこれ考えを巡らしては、答えを得るには演奏を続けるしかないと結論に至っていた。
「はい。私は日を追うごとにローズマリー様の心の内を知りたいという気持ちが強くなっています」
「そう。……それは演奏のため?」
「たしかに私は今でもローズマリー様のことをよく知ることで、もっとローズマリー様の心に響く演奏ができるのではと信じている部分があります。ただ……」
「それだけではないの?」
話してみるか迷っていたカノンだが、ローズマリーにそう尋ねられて、訥々とでも言葉にしてみようと決めた。
「自分でもわからない部分もあるんです。ええと、その……気がつけばローズマリー様のことばかり頭にあって……それは、えっと、音楽とは関係なしに知りたがっているといいますか。もっと近づきたい、そんなことを真剣に願ってしまっていて。……こんなの初めてなんです」
つまるところ、二歳上の貴族令嬢である彼女と友人になりたがっているのかもしれない。カノンは話しながらそんな答えを導き出していた。
村にはカノンと同年代の子は男女ともにいなかった。教会にはかつてのカノンと同様の境遇である小さい子が数人いたが、彼らとはきょうだいのような仲で、友人とは言えなかった。
カノンが知る友人という関係性、その在り方は本の中の登場人物から教わったものだ。
お互いに敬慕し合い、心を許し合い、理解し合い、助け合う。そんなふうに「合う」人間。カノンはそれに憧れていたのだ。
「ひょっとしたら、この気持ちは……私はローズマリー様と――――」
そこまで言って我に返ってカノンは口を閉ざした。
危うく、無礼極まりない申し出を口にするところだった。一介の村娘がどうして侯爵令嬢と友人になるのが許されようか。一体全体、ローズマリー様が自分のどこを敬い慕うというのか。
あり得ない。
最後まで言わずに済んで本当によかった。
「私と? なに、カノン。続けて」
「えっ」
「待って!」
「ええっ!?」
何が起こっているのかわからずカノンは目を丸くした。
ローズマリーは話の続きを促して、その直後に待てと言ってきた。しかもこれまでに聞いたことのない必死な声色だ。
何がどうなっているんだ。カノンが狼狽えていると、ローズマリーがサッと距離をとり、背を向けて呟く。
「嘘、そんな……」
「あ、あの、ローズマリー様?」
カノンが後ろから勇気を出して声をかけると振り返らずにローズマリーは言う。
「やめなさい。そう、いけないわ。ええ、それは気軽に口にしてはいけない。そういった気持ちはそんな簡単に明かしてはいけないの。わかるわね?」
「そ、そうですよね。不快にさせてしまってすいません」
こうしたやりとりの直後、一足先にご令嬢が音楽室へと向かうのを見送ったカノンは、その日もまたメイドに髪を結ってもらう手筈になっていた。
例のメイドが部屋に入ってきたなりに訊いてくる。
「今さっき、すれ違ったお嬢様が頰を赤くしていたけれど、何か怒らせてしまったの?」
「はい……失礼なことを言いそうになって。慌てて口は閉じたのですが、内容を察したご様子でした」
「はぁ、そうだったのねぇ。カノンちゃんがそんなこと言いかけるなんて信じ難いけれど、身分が違うとやっぱり、そういう失言もあるもんだよ」
いつの間にか「様」ではなく「ちゃん」に、カノンの呼称が変化しているメイドがうんうんと頷いた。
そして、髪を結いながら過去に仕事の中でした失敗談を話してくれた。結い終わって、カノンを音楽室に送り出す時には「大丈夫。お嬢様がまだ演奏を聴く気だってことは、演奏しだいでは許してくれるってことだと思うねぇ」と励ましてもくれるのだった。
音楽室に出向くと、蓋が開かれたピアノがカノンを迎える。あたかも大口開けて飲み込もうとする怪物のように見え、カノンは後ずさりかけた。
そのピアノの前に既に腰掛けていたローズマリーが立ち上がり、カノンを見た。
「今日の演奏だけれど」
「は、はい」
「昨日、うまく合わせられない曲があったわよね。もしもあれを二人ともが満足のいく出来で最初から最後まで奏でられたその時は……」
「その時は?」
ごくりとつばを飲み込み、言葉を継ぐ。
「カノン、あなたに私の秘密を教えるわ。洗いざらいね」
「……いいのですか」
ローズマリーはカノンの確認に応じず、黙って近づいてきた。既にベールは外され、その瞳はカノンを、その心の奥深くまで捉えるように見つめる。
「その代わり、中途半端な演奏をしたらすぐに出て行ってもらうわ。いい? あなたの想いと覚悟、全部ぶつけてきなさい」
仄かに紅潮している美しい顔。
まだ怒りがおさまっていないのだとカノンは解した。そして誠心誠意、演奏に臨むと心に誓い、力強く肯くのだった。
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