第3話 地中海料理レストラン・アルディアのバカラオのコロッケ
下ろしたての白いパソコンの綺麗なディスプレイに、データをメモリスティックに収めた表示が出た。
新しいパソコンがいかにも新しい店って感じの雰囲気を出している。
3人掛けの小さなカウンターの隅にきちんと揃えてクラフトファイルに綴じられた資料が几帳面な性格を感じさせる。
店内の飾りや磨き上げられたナイフや鍋、ピカピカの厨房の器具もいかにも新しい店って感じだ。
下ごしらえしているのか、ほんのりした香草のいい香りが漂っている。
開店前の店内にはBGMがわりにラジオのコメンテーターのトークが流れていた。
「オープンして2月ですけど、どうですか?」
「うん、まずまず順調だと思う。でもオープニング効果は終わったからさ、これからが勝負だね」
黒いTシャツに黒いエプロンをつけたシェフが答えてくれる。
細身の体に縮れた感じの短めの髪に丸眼鏡、年は確か30歳くらいだったと思うけど、それより若くも見えるし少し年配にも見える。
ここは新しくオープンしたスペイン料理のお店だ。
住宅地の小さいビルの二階の角で場所的には不利な気もするけど。
狭い階段を上った隠れ家風の店構えで、角の全面をガラス張りにしてテーブルを配置しているから、2階から見下ろす眺めが良い。
少し傾いてきた太陽の光が店一杯に差し込んできていて、テーブルを照らしている。
外からは賑やかな小学生たちの声が聞こえた。今は4時ごろ。下校時かな
「しかしさ……雇われやってる頃は、お客さんはほどほどで良いなとか思ってたけどね」
「そうなんですか?」
この人は雇われでとあるイタリアン系のレストランでシェフをやっている時から顔見知りだ。
そのお店にも何度も言っていたからなのか、独立するにあたってと、うちの事務所に来てくれた。
「うん。たくさん来ると忙しいしね。でもさー、今は来てくれてありがとうって感じるよ」
「私の前で言わないでくださいよ。一応客でもあるんですから」
ぶっちゃけすぎだとは思うけど、そういうものかもしれない。
雇われてシェフをしているのと、自分の店じゃ感じ方も違うだろう。
自分の城を持ちたいというのは料理人には共通しているのかもしれない。
オーナーシェフは基本的には激務だ。
雇われている方が待遇がいいんじゃないか、と思うときもある。
それでも自分の好きに料理をし、自分で思うままに作った店を持ちたい、という願望は強い人が多い。
料理人も多分芸術家肌が多いんだろう、と私は結論づけている。
◆
「ああ、そういえば、ありがとね」
「なにがです?」
「このフォロー記事、描いてくれたの、杠葉さんでしょ?」
そう言ってシェフがスマホを差し出してきた。
そこに映っているのは大手グルメ系のSNSの口コミ欄だ。
開店直後なのにもういくつか口コミが書かれている。
概ね肯定的な評価だけど、一つだけかなり辛辣な内容のものがトップに来ている。☆も一つだけだ。何枚かの写真が添えられている。
その下には私が書いた口コミ。
「そうです……ってよくわかりますね」
「口調と似てるからね」
「ただ正確には、所長の指示です」
開店直後はどれだけ念入りにシミュレーションをしても予想もしないトラブルが出たりする。
これは飲食店に限ったものじゃない。
レストランは一期一会の場だし、プロとして開店3日目だろうが完ぺきなオペレーションをすべきだ、客の立場を考えろ、というのは正論だとは思う、
ただ、個人的にはその正論は好きになれない。だれもがそんなに完璧じゃないからだ。
その一方で、現実的には商売は初動がとても大事だ。
開店時にはミスが出てしまうけど、それをSNSとかで殊更に拡散されたら開店から数か月で危機に陥りかねない。
飲食店の5割は2年持たない……というのはよく聞く話ではある。
あれは色々と誇張されている気もするけど、生き残ることが難しい業界なのは確かだ。
個人でレストランを開く人に限らないけど、個人で事業をする人は大抵は長く修行とかを積み、それなりの額の借り入れをして文字通り人生を賭けてスタートを切る。
お客さんじゃなくても、一日でも長く続けて欲しいし、殊更に不当な評価を受けてほしくない
ということで辛辣な記事に対抗するためにポジティブなレビューを書いてみた。
効果がどの程度あるかは分からないけど……この反応なら少しはあったんだろう。
「広告費、別件で支払おうか?」
「代金貰うとステマっぽくなるじゃないですか」
「そうかもね。じゃあ来てくれたらグラスワインをサービスするよ」
「ありがとうございます」
そこまで言って、シェフがちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「でもね……俺、この人誰だかわかるんだわ」
「なんで?匿名ですよね」
SNSの投稿者名はPNだった。たまたま顔見知りなんてことはないだろう。
顔見知りがあんなことは書かないだろうし。
「出した料理の組み合わせとか皿の盛り付けとかそういうのは案外覚えてるんだよ。しかも今は開店直後だからなおさらね」
「そうなんですか」
毎日料理をしていても覚えていられるものなんだろうか。
でもこういう商売をしている人は本当に人の顔を覚えている。年単位で行かなかった店のオーナーが覚えてくれていたこともあって驚くほどだ。
「実は……この人、もう一度来たんだよ」
「それは……なんか大胆ですね」
辛辣な意見を描いた店にもう一度くるのは、改善されているのを見に来たのか。
それとももう一度キツイことでも書きたかったのか。
「勘定の時に、SNSのコメント、ありがとうございますって言ったら慌てて帰って行ったよ」
「なるほど」
さすがはプロだ、と思う。
「批評を受けるのは仕方ないけどね……ここまで書かれるとちょっとやり返したくなったってこと。
普段はキツイお言葉もありがたく受け止めてるよ」
◆
話も一段落着いたので リュックにメモリスティックとファイルを入れた。
「じゃあそろそろ行きます」
「ああ、帰る前に、これ、試食してみない?」
シェフが言って白い板皿を差し出してきた。
皿には茶色っぽい衣の揚げ物が乗っている。小さい俵のような感じの見た目で、爪楊枝が刺さっていた。
「いいんですか?」
「遠慮なくどうぞ」
そう言われるならありがたく頂こう。爪楊枝を摘まんで口に運ぶ。
サクッとした衣は薄いけど、しっかりしていて歯ごたえがある。その衣の中には濃くて柔らかい味のクリームが入っていた。
熱すぎない絶妙のあったかさのクリーム。そのほんのり甘いクリームの中にざらっとした舌触りの具が入っている。
少し塩味が利いていて甘めのクリームとのコントラストが良い。
クリームは濃厚で衣もしっかりしているからボリュームがある。
クリームコロッケなんだけど、型崩れしないから食べやすい。
「これはなんですか?」
「バカラオのコロッケ。ポルトガル名物だよ」
「バカラオ?」
「塩鱈のこと。地中海エリアだと割とどこでもあるんだけど、ポルトガルではよく使うんだ。オムレツに入れたりとかね」
「そうなんですね……美味しいです」
これはワインにも合いそうだし、今度来たら頼んでみようか。
あんまり大きくないから4口ほどで食べ終わってしまった……もう少し味わって食べれば良かったな。
「ところで、気付いてる?杠葉さん」
「何がです?」
「食べる時、凄い嬉しそうな顔してるよ」
「え?」
「美味しいってオーラが出てる……でもその顔ならこの料理は行けるな」
「普段は割と飄々としてるから見てると面白いよね」
キッチンの奥でグラスを拭いていた奥さんが合いの手を入れてくる。
「あと、必ずご馳走様って言って帰るのもポイント高い」
「あれ、結構嬉しいんだよ」
二人が顔を見合わせて笑う。
「あー……じゃあ失礼しますね。また来ます」
なんか気恥ずかしくなってリュックを持って店を出た。
後ろでドアベルが鳴る……そんなに顔に出てるかな
★会計TIPS
・経費
事業に使った経費をどう区分するかは画一的に決められているわけではなく、割と人によって違います。
例えば電話代を通信費、タクシー代を交通費と区分する人もいれば、まとめて通信交通費という区分に入れてしまう人もいます。
この辺の区分は個人の裁量次第であり、その基準を継続して使えば問題ありません。
伯耆原会計事務所・監査担当、杠葉葉子の飲食店顧客巡りと会計TIPS ユキミヤリンドウ/夏風ユキト @yukimiyarindou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。伯耆原会計事務所・監査担当、杠葉葉子の飲食店顧客巡りと会計TIPSの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます