第2話 あるインドカレー屋さんのサグマトンカレー

「売上のレジシートに、仕入れの請求書、小口の現金出納帳、預金通帳、給与明細……うん、今月も全部そろってるね」


 ここは我が職場、伯耆原会計事務所だ。

 私と所長を入れて5人の小さな事務所。同僚は外回りに出ていて、今は私と所長、それと一人のお客さんしきない。


 昼下がりの静かな事務所の中にはブラインド越しに太陽の光が程よく差し込んできている。

 壁際には簡素な白のロッカーと棚が並んでいて、整然と書類や本が収められていた。

 

 窓際の来客対応用の応接スペースで所長が細い指で資料をめくって、クラフトファイルを閉じた。

 伯耆原先生は60歳くらいの白髪が目立つベテラン税理士だ。

 体つきは細いけどよく食べてよく飲む人なのは忘年会とかで職員全員がよく知っている。


 正面には浅黒い肌の男の人。パキスタン人のアルスランさん。

 彫が深い顔立ちはエキゾチックな感じで整っている。短めの黒髪と口ひげでなんとなく年が分かりにくいけど、確かまだ30歳らしい。顔立ちと髭のせいかもっと上に見えてしまう。

 

「ボクは長く商売するつもりなので、キチンとしますよ」

「うん、それは大事だと思う」


 所長が言う。


「カクテイ……なんでしたっけ?」

「確定申告★」

「そう、それもきちんとシマスんで」


「2年ほど商売して一稼ぎしたら国に帰るとかなら別だけど、長く続けるならきちんと記録を残す方がいいよ」

「ボクは成功して、パキスタンから家族を呼ぶつもりデスから」


 彼がやる気十分って感じで言う。


 富山にはなぜかパキスタンの人が多い。

 昔は富山港からロシアとかに向けて車の輸出が盛んだったようで、その関係で中古車ディーラーとして働いている人が多かった……らしい。


 その後、その輸出も色々あって往時ほどのものではなくなった。

 けどその後も富山に留まった人は多いようで、彼らが経営する美味しいカレー屋さんが富山のあちこちにある。


「じゃあ整理して確認してレポートを出すから、また連絡します」

「ヨロシクお願いします」


 浅黒い顔ににこやかな笑みを浮かべてアルスランが事務所から出て行った。

 軽自動車が甲高いエンジン音を立てて走り去っていく。


「杠葉さん、よろしくね」

「はい」

 

 所長が資料を机の上に置いた。

 クラフトファイルからカレーのスパイスのにおいが漂う。


 料理人はそのジャンルによって体ににおいが染みつく。

 オリーブオイル、揚げ油、ごま油、唐辛子、ニンニク、香草とか色々あるけれど、カレー屋さんはスパイスの香りだ。


 彼を見ているとあの日のことを思い出す。

 もう無くなった一軒のカレー屋さん。



 そのお店はインド人二人のカレー屋さんだった。

 がっちりした太目の人とその弟分のようなひょろっとした人。


 太めの人は日本語がほぼ完ぺきで、細い人はまだ日本にきたばかりかのか。片言だった。

 料理は太めの人がやるから、日本語が拙い細い人が接客というちょっとちぐはぐな店だったのを覚えている。


 殺風景な部屋に、あまりこだわっていない簡素な机といす。

 白い壁にはお手製って感じの飾りつけとインド映画のポスターが貼ってあった。


 まだ始めたばかりで客もつかず、経理を頼む余裕もなさそうだったけど。

 美味しかったから通っていた。


「どう?」

「今日も美味しいですよ」


 ここの名物はサグマトンカレーだ。

 大き目の銀色の金属のお盆の隅にはこれまた金属のお椀が置かれていて、ほうれん草の鮮やかな緑色のカレーがたっぷり入っている。


 一口目はほうれん草がほんのりと甘く、後からスパイスの辛みが追いかけてくる。  

 マトンは香辛料で似ているのか癖が無く、大きめに切られているから噛み応えがある。


 大きめの肉が浮いているカレーはご馳走感があって好きだ。

 他にも色んなカレーがそろっているけど、二回に一回はこれを頼んでいる。

 

 お盆の半分を覆うようなザクザクした歯ごたえの大きいナンにはたっぷりのバターが塗られている。

 チーズナンとかもいいけど、カレーと併せるならプレーンが一番いい。


 添えられているライスがビリヤニなのも個人的にはポイントが高い。

 ほんのりとスパイスが香るパラパラの米は軽い感じで食べられるのがいい。


 ただ、この料と味で値段はかなり安い……というより釣り合ってない。

 職業柄、原価計算とかをしてしまうけど、大丈夫だろうか。

 

 店の中はがらんとしていて、私の他に御客はいない。

 今も手持無沙汰になったシェフと話をしている……知名度さえ上がれば一気に流行りそうなんだけど。


 少し古びた雑居ビルの奥というのも良くない。

 一応表に看板は外に出ているけど、建物の奥とか二階とかはそれだけで結構不利だ。


 ほんの数メートル、ほんの数歩分の違いなんだけど、客足に対する影響は大きい。

 なんだかんだいって場所の善し悪しは大事だ。

 ……なんてことを言ってもどうにもならないのだけど。


 机の上に置かれたラミネート加工されたメニューを見る。

 カラフルなメニューにはインドのあの呪文みたいな文字が書かれていたけど……全然意味が分からない


「ディーヴァナガーリーに興味アル?」

「ええ」


 文字を指でなぞっていたら、店の扉の方をチラチラ見ていたシェフが声をかけてきた。

 この文字はそう言う名前らしい。

 いつ見ても、魔法の呪文とかそういう感じの文字はどんな風に読むのか見当もつかない。

 それに書き順とかも分からない。


「じゃア、ヨウコさん。取り寄せてあげるよ。インドの辞典」

「えー、あの、そんなことしてもらっても悪いわ」

「イイヨ、今度ママから送ってもらうものあるからさ、ツイデツイデ」


 シェフが嬉しそうに言う。

 今更、ちょっと興味があっただけでそこまで本気じゃないとも言えない。


「いつも来てくれてるからね、このくらいはサービス。それにレディには親切にしないとね」

「ありがとう、じゃあラッシーもう一杯もらえます?」

「イイヨ、ちょっと待ってね」


 そう言ってシェフが薄いカーテンに仕切られた厨房に引っ込んでいった。


 ……それが彼の顔を見た最後だ。

 10日ほどしてその店に行ったらある日行ったらドアにはかぎが掛かっていて、でも、OPENの札がかかっていた。


 ガラス越しに薄暗い店内に転がる椅子とかが見えて、何が起きたのかは察しがついた。

 近くの店の人に聞いたら夜逃げ同然でいなくなってしまったらしい。


 飲食店ではよくある話かもしれない。

 こんなことは私が観測できていない場所でもいくらでもある話なんだろう。

 でもそれを見た時にはなんとも切ない気持ちになった。



 その数日後にたまたまその店の前を通りがかったら、集合ポストに大きめの本がむき出しのままで刺さっていた。

 表紙を見たら、例のインドの文字と英語が書かれていて、彼が言っていた辞書なのはすぐにわかった。

 よくないと思いつつもその辞書は持ち帰った。


 そのお店の場所はダイニングバーになったりカフェになったりして、色々と入れ替わって今は洒落なヘアサロンになった。

 白と黒のモノトーンでまとめられて、これまた白のシャツに黒のエプロンを身につけたオシャレな店員さんが行きかっている。

 あのがらんとした殺風景な店の面影はもうない。


 その辞書は今も私の部屋に置いてある。

 今はネットで簡単な文章なら翻訳できてしまうから必要がなくなったけど、それでも時々めくってみる。


 ……今は彼はどうしているだろうか。



★会計TIPS


 ・確定申告


 その年の所得を「確定」させて税務署にその年の税金を「申告」すること。

 個人で商売をしている人は、その年の売上(作中だとカレーの売上)や経費(カレーの材料費や電気代やガス代、家賃とか備品とか)を計算して利益≠所得を計算することになります。


 サラリーマンのような給与をもらっている人は年末調整で所得が確定して税金が雲確定するのでやる必要はありません。

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