奇想譚本能寺
作久
1話 信長
その夜本能寺は燃えていた。赤々と燃えていた。夜の暗闇を無視するかのように煌々と。歴史の変わり目を照らして煌々と。
襲われたるは第六天魔織田信長と寡兵の手勢。
襲い掛かるは明智の御旗。
反旗堂々翻し本能寺境内へと押し入り主君の御首奪わんとす。
その乱戦の中にて信長探して明智の旗をばったばったと切り伏せ、まい進する武者が一人。
着の身着のまま鎧もなしに、おっとり刀一本持って本能寺の乱戦逆賊明智の兵を真っ向二つに切り進む。
それこそは明智惟任光秀その人であった。
本堂正面に陣取り槍を縦横に振う信長を眼二つにギラリと視とめた惟任光秀
信長!と一つ叫ぶと放たれた矢のごとくにひっとんでその傍に飛び込み信長背後に忍び寄る明智の逆賊を袈裟にばさりと斬って捨つ。
「十兵衛か!よもや来るとは思わなんだぞ!」
「早くお逃げを!」
「したいところは山々だがのぅ。」十兵衛しかと見つめる信長はわらいてあるが、その顔にはだらだらと滝の如きの脂汗。見れば手に腹に返り血とは違う血の帯がつぅと裾まで流れたる。
「鉛弾よ。猿の奴め、手勢に雑賀よりも腕がいいのがおるわい。」
「蘭、信長さまに肩を!」
「もう遅いわ。蘭!誰も本堂へと入れるでないぞ!」その一言に小姓の蘭丸覚悟を悟り、主消えたる本堂の前に兄弟共々陣取って仁王立っては槍を振りあげ。
「何人たりとも先には通さぬ。森の槍傷をば黄泉路の土産にしたき者はかかって参れ」と宣誓す。
「信長。あと少しで私の軍勢がここに来る。そうすれば猿の軍など打ち払える。さすれば腹のキズも。」光秀は手元にある物で信長の腹の止血を図る。
「ほぅ。攻め手を猿と気づいておったか。お主。」手当を受ける信長はすでに攻め手が猿、秀吉と看破している光秀に感嘆する。
「今、京より西から攻め寄せれる軍はあやつの手勢しかおらぬ。誰でもわかる事よ。しかし何故お前を討とうとするのか。」光秀には秀吉のそこが解せなかった。
「それが天下という物よ。」信長は嬉しそうにほほ笑む。
「天下?」あまりものスケールの大きな言葉に光秀はそれをそのまま鸚鵡返す。
「何を裏切り出し抜いてでも欲しくなる。手にさえすれば世を思いのままに作れる立場になる。儂が欲する天下。それを猿も欲したそれだけのことよ。こうも鮮やかにやるとは思わんかったがのぅ。まんまとやられたわい」してやられたと言う風に信長は笑みを変える。
「なれば信長、なおの事奴の鼻っ柱をおるため早うお前の健在を日ノ本に知らしめねばならん。さぁ肩を。」明智は信長の脇を抱えぐっと支える
「儂の事はワシがよくわかる。血を流し過ぎた。いかな手を持ってももう持たぬわ。」信長はあきらめに眼を閉じた。
「何を弱気なことを!そのようなことを言うな!聞きたくもない!さような言葉など!お前がかき起こしたこの新たな世へのうねりをお前がまとめずして誰がまとめられると言うのだ。」光秀は信長への声を荒らげ激を言い放つ。
「儂の後はおそらく猿よ。刻を見る眼。そしてこの手際を見ればわかる。犬も権六も今の猿には勝てん。忠勝がおる竹千代ですらもおそらくは無理よの。」だのに信長は自らが無き世をすでに見ていた。ただ、真っ先に継ぐのが猿であると言ったことが光秀の胸にしこりを生んだ。
「ただ、官兵衛に秀長がおる故なりを潜めてはおるが猿めは生来短気だ。枷がなくなれば山の上で横暴に振る舞うのが目に見える。ゆえにアヤツは猿なのだ。その猿の世は続かぬだろうな。」今までの信長ではありえぬほど自らを外に置くその言動に光秀は絶望を覚え始める。
「猿の世は長くないと言うことか。」しかしそれでもいい。信長の意識と命を持たせるために光秀は話を続けようとする。
「たとえ子をなせたとしてもアヤツ当代で終るだろうな。」
「その後は」話を切らぬようにさらに尋ねる。わずかな期待をもって
「生きておれば竹千代よ。あやつめは辛抱ができるようになったからな。」出て来た名は松平家康であった。先ほど生まれたしこり。それを理解した光秀ははばかることなくそれを口にする。
「私では……私ではないのか。お前の後は。」
信長の口から出てくる後の世の継ぐだろう人物の名。その中に出てこぬ自分の名前。それがこたえた光秀は胸のしこりを絞り出すように言う。
信長は光秀が絞り出すように求めたそれを高らかに笑い一蹴する。
「何を言うておるのだ十兵衛よ!。貴様では天下を御するのは無理よ。出来ぬのだ貴様では。十兵衛、貴様ではな。今この時、この場に及んで儂の命を救おうとするお主では無理なのだ。」ひとしきり笑った信長はスッと破顔を覚ますと光秀を見つめて静かに言う。
「天下を御するに何よりいらぬ情を持ちすぎておるお主に天下人などは酷な話よ。」
信長は今の言葉を発したことに後悔があるのか顔を曇らせ一つ深く息を吐いた。
「十兵衛。そう時を稼ぐな。せっかく手当をしてもろうたとて言うたように儂の命はもたん。介錯をせい。」
「……」求められたとて光秀はそれを受諾できずに押し黙り信長を真正面に睨む。
「天下は猿めにくれてやっても、この首までもをやるのは癪に障る。のぅ。早う。」
信長は苛烈ないつもの顔からは想像が出来ぬほどの柔和で柔らかな、仏のような笑みを光秀に見せ決断を迫った。その人世を超えた表情の中に覆せぬ彼の覚悟を見て取った十兵衛はツッと涙を一つ流した。その涙を見た信長も事ここに及んでも変わらぬ光秀の心持に微笑みをやわくした。
燃える本堂。建具に柱にと火が回りはじめ仏が鎮座する段にまで火が及ぼうとしている。そこここで木が爆ぜる音や炎に風が巻く音、撃ち合う刀剣、命がはてたる断末魔がし続けている。
まさに戦禍ただなかの騒乱の中。
だのに、その中で二人は驚くほどに静謐となってしまった。もはや、彼岸に渡る覚悟を決めた者を止める言葉を光秀はもたなかった。一筋の涙との別れを終えた彼は刀身にぬらつく雑兵の血をぬぐい清め、ただ静かにその時を信長のその時を待つしかなかった。
そしてその時は即座あっけなく訪れる。
信長はカッと目を見開くと、もろ肌に脱ぎ躊躇なくサパっと腹のキズに短刀を切りこみ忌々しい猿めからの手傷を上書きする様に真一文字に掻っ捌く。
それを見届けた光秀は白刃を走らせ主の首をこれまたサパっと鮮やかに介錯をして応えた。
今、ここに戦国の日ノ本を嵐のように駆け抜けた魔王が彼岸に堂々と渡り、歴史の転換点が静かに打たれた。
信長の首をいとおしく抱えた光秀は本能寺から一路安土へと馬にまたがりひた走る。
安土の城を主君の墓所とするためひた走る。
月は朗々闇夜に人馬を照らしだす。
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