2話 秀吉

 羽柴秀吉は畿内近傍に着き本能寺方面さらには京へと進軍する機をうかがっていた。潜む形であるためわずかな手勢それもほぼ伝令用の手勢で機を待っていた。


「本能寺への襲撃は成功したようですな。風説の流布も上々のようです。」伝令が携えた文を確認した軍師の黒田官兵衛はそう短く報告する。


「ならばもうよいだろう。まだ進んではならんのか?」秀吉はいらだたしげに官兵衛に言う。

「もうしばらくはここにいなければなりませぬ。早過ぎては疑われまするぞ。これより先は摂津衆への手回しをしてからでなくては進むことはあいなりませぬ。」官兵衛は偽旗部隊があげた報告を確認しながら答えを返す。


「しかし、ここにある誰何もなく明智の旗を付けさせた我らの手勢を切り伏せれる者とは一体。」偽旗部隊からの報告にある人物それは誰かと官兵衛は考えをめぐらす。

「誰何無しに明智の軍を切れるものなどそんなの当の明智に決まってんだろ。」秀吉は誰何もなしという所から即明智と看破する。

「自分の軍でないことは自明であるから確認するものもないしその必要などないからな。しかもあやつは頭が回る。俺がやっとることも気づいていてもおかしくはない。」前のめりに椅子に腰かけている秀吉はいらだっているのか扇子を太腿に押し当てまげていた。


「松平のやつの動きはどうだ?よう見てけん制しとけ。あいつはカヤの外に置いておかねばならん。いっそ機会があれば切っちまってもいいぞ。」秀吉は天下取りにおいて目下一番のライバルであると自らが考える家康の動きを気にしていた。


「心配めさらずとも今堺におわすであろう松平殿の元には十分な兵がございませぬ。ゆえに一度自らの領内に引いてから事に当たられるでしょうから時は我らにゆるりとござります。ここで急いては事を仕損じますぞ。」官兵衛は、天下へと滾りはやる秀吉をなだめるのに苦慮していた。秀吉が畿内に早く入り過ぎては本能寺を襲ったのは明智ではなく秀吉の手勢ではないかとの疑念がわいてしまう。そうなれば偽旗まで用意した策が無駄になってしまう。官兵衛としてはそれは何よりも避けなければならぬことである。


 秀吉は物事の機微をつかむ早さと決断の速さが強みであったが、物事への気がはやると短慮に走り後先の考えなく物事を進めようとするきらいがある。そのきらいを秀吉は今まさに暴れ馬のように発揮しているところであった。


(長秀殿は本によぅ殿を扱いなさる。)


 このような気のある秀吉をたしなめ諫め小言を言い補っている彼の弟、羽柴長秀の手腕に官兵衛は腹で感嘆していた。そして、そんな長秀を備中高松に秀吉がまだ居ると偽るために秀吉の影武者にしたてる策を献策し秀吉と離してしまったことに官兵衛は少しばかり後悔した。


「官兵衛、明智との戦の場はどこになると思う?」秀吉は扇子を足に当て鳴らしながら来るであろう明智討伐の戦について尋ねて来た。この話題に、官兵衛は秀吉が落ち着くための時間を稼げそうだとほっと安堵する。

 官兵衛は地図に碁石を並べて説明を始める。京に黒石を一つ置き、本能寺に白石を置いた。

「明智殿が本能寺におったと言うことからして我らのたくらみを看破されていることは明白。その場合、我らとの戦が近いとして京の周辺から地を固め始めるでしょう。京からはじめ私たちとは逆の東の方へと。そして、」続けて官兵衛は碁石のふたを近江の方面に置く。


「そして東に行けばそこには柴田殿がおわす。」


「そう、そこよ。明智が柴田や前田と手を組まれては面倒になる。」秀吉の気が京へ京へと急いているのは明智と柴田、もしくは前田が手を組むことを恐れていたからだった。それをされてしまった場合を考えてか秀吉は顔を渋くした。

「柴田殿のいらっしゃる場所は京から遠きため本能寺の出来事を知るまでに時間がかかります。明智が早馬を飛ばしたとしても柴田殿が手を組む決断を下すには時間がかかりますればそれは杞憂かと存じます。ゆえに今柴田殿に注意を払う必要はないかと存じます。」官兵衛は地図の上から碁石のふたを取り除く。


「おそらく、明智殿は柴田殿や滝川殿ではなく京の近辺、手を伸ばせて近江あたりで織田恩顧以外の大名を説き伏せ戦力を整えようとなさるでしょう。」先の展望を官兵衛が話しても秀吉の顔は渋いままだった。それを見た官兵衛は本能寺に置いた白石をスッと二条城へと滑らせた。

「明智殿の策謀がよほど気になさりますか。では、本能寺を襲撃させた隊にそのまま二条の信忠様を攻めさせましょう。明智殿の謀反を織田家中により強く印象付けられる上、明智殿が二条に訴え逃げ込む余地をなくすこともできまする。」


「京の周辺におる明智以外の奴らの中にも面倒なのがいるぞ。細川に筒井に」


「そちらの方には摂津にやっておる様に信長様生存の報を謀反の報と合わせて流せばしばらくはどちらにつくかの態度を決めかねるでしょう。その間の間に我ら共々兵を畿内に押し込めば優位を取れるかと。」軍師のさらりと返してくる答えに落ち着いたのか秀吉の姿勢は前のめりから椅子にどっかりと座る形になっていた。


「それで、そうなるとどこらで明智を討つ?」


 主から尋ねられた軍師官兵衛は迷うことなく一点の地名を扇子の先でたたいて示す。

「私たちは摂津の方面から上がる事を考えると山崎のあたりがよろしいかと。」

「ってぇなるとだ。後はどうやってそこを主戦場にする方向に評定で話を持っていくかだな。」顎をさすりながら秀吉は思案を始める。

「四国攻略と松平殿の饗応で今カヤの外におられる重鎮の丹羽殿、神戸殿を抱き込めるかがカギになるでしょう。」官兵衛は四国に黒石をぱらっと撒く。

「評定の要はお二方のどちらかはたまた両方か。お二方が殿と明智どちらに手を組んでくるかにもよりましょうが、」言いつつ彼は今自分たちがいるあたりにざらざらと山のように白の碁石を盛り上げた。

「信長様の兵主力を握っておる我らが評定の場で置いても優位にある事は明白にして明らか。それらの数と我らを貴方様の剛腕と辣腕の両腕でもって存分にうまく活用なさってくだされば容易き事。そうではありませぬか?」官兵衛は軽く冗談を混ぜ

「気を張り過ぎていては肝心な時にちぎれてしまいます。今はまだ、その時ではありませぬ故多少はゆるりと抜きておりなさいませ。」官兵衛は主に重ねて待つことを求めた。


「その時とやらはいつ来る?」

 この秀吉の問いに対して官兵衛はあいまいにせずキッチリと区切った方が秀吉が納得するだろうと少し考えいくつかある時と言葉を選ぶ。

「早くとも長秀さまがいらっしゃってからでしょうな。そうでなくては殿と入れ替わることはできませぬし、何より戦も評定も勝てる手勢がありませぬ。」その言葉を聞いた秀吉はスクッと立ち上がると弟がいる西の方を今か今かとにらみつける。


 そして、今に至る短いが濃い、謀反までの時間に思いを馳せた。



 いつか自分の天下を。


 その考えは常に秀吉の頭の中には存在していた。そのためにはいつか信長の寝首をかく必要があるということも秀吉も漫然とだが常に頭の隅で考えていた。

 信長の行う革新を続ける統治は素晴らしいものであるが、出自が武士である信長の普請する世では民をすべてを丸っと抱えこめる世にはならぬとの直感が彼にあったからであった。そしてそれをなせる位置に最も近いのが自分であるという自負も。


 だが、その野望、野心ともいえる直感や思考は彼の信長への情がしっかりと押さえつけていた。

 武士の出自にない自分を重用して引き上げてくれた恩のある信長に対する尊敬、敬愛、忠義の真の心が彼の魂にあるのは事実であるし、信長の指揮下で軍を率いることは秀吉自身たまらなく幸せであり充実していた。そして何より信長の見る世界を自分も傍で見たいという情緒は彼の中では嘘偽りのない確かな心持であった。


 秀吉はその情と自らの持つ野心のはざまでいつも常に揺れつづけていた。


 しかしその天秤は今野心に一挙に傾き、秀吉はその体満身に野心のみが満ち満ちている状態になってしまった。


 今、

 この時勢、

 自らが軍主力を持ち、

 信長が本能寺に寡兵でいるという最大の好機。


 これは天秤の野心が昂る決定打としては真に十分な物であった。また、秀吉の直感も今ここ、この機を逃さば自らが天下をつかむことはなく信長普請の世が盤石になってしまうと告げた事も野心の後押しをしてしまった。備中高松において清水宗治を攻めていた彼はこの直感に従い、そう至った彼の心の変遷を彼が理解し飲み下すよりも先にもう、小一郎と官兵衛に謀反を下知してしまっていた。


 その無謀ともいえる指示に弟の長秀と官兵衛の二人は応え算段を取り状況を勘定し謀反の策をあっという間に組み上げ実行してくれた。


 謀反などという大それた事を起こした後である今でも秀吉の心象に謀反の負い目がないわけではない。裏切ると言うことの迷いと戸惑いは早々振り切れるものではないし振り切れるほど軽薄な人間でもない。足を止めたくなる。しかし、帰り路のない道をもう走り出してしまった。しまったのだから走り切るまで止まるわけにはいかない。さらには、この無謀ともいえることを諫めもせず忠義を尽くすこの二人の奉公に報いねばとの思いと天下を握りきる決意を秀吉は強くした。

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