狂気と正常が入れ替わる時
アマノヤワラ
『今朝の話』
その町はいつも霧に包まれている。
物理的な霧ではない。言うなれば、心の霧である。
町の人々は、自分たちが『見たいもの』しか見ないし、『聞きたい音』しか聞かない。
……そして、“其れ”を無視し続ける。
◇◇◇
「見える?見えるよねアレ!あれなんだよ。娘を連れてっちまったんだよ!」
一人の男が騒いでいる。四十がらみの男である。
男は自分の家の前の電信柱の上の辺りを指さしながら、しきりに近所の人間に呼びかけている。
男の家の玄関を出てすぐの、なんの変哲もない田舎の電信柱である。
「アレ!なんでだれもなにもいわないの?あんなものがこの町にはいるというのに!」
血走った男の目は狂気を帯び、集まってきた近所の人たちを辟易させている様子である。
男の様子はどう見ても尋常ではない。
もしも心理学をかじっている者であるならば、即座に男は『パラノイア』であると判断するだろう。
近所の人たちは、少し変わり者であったこの男に奇異の視線を向けこそすれ、今のこの男に誰もなにも話しかけたりなどはしなかった。
そんな周囲の様子を見て、焦ったかのように男はさらにまくしたてる。
「あそこ!電信柱の上!娘がさらわれちまったんだよ。どうしてだれもたすけてくれないんだよ!」
男はずっとおかしなことを叫び続けている。
この男には娘など『最初からいない』。
それがこの町の住人全員の共通認識だというのに。
◇◇◇
「娘が!ああ、俺のかわいい俺の娘が!」
近所の人間が呼んだ二名の警察官に両脇を抱えられてパトカーの中に引きずられていくまでの間、男はずっと泣き叫びながら自分の家の玄関の前に立っている電信柱の上を指さし続けていた。
パトカーに乗せられたあとも、男はパトカーの窓から電信柱の上を見上げながら、外に出ようと足掻き続け、泣き叫び続けていた。
パトカーの中で警察官に手錠を掛けられる男を近所の人たちはただ、黙って見ていた。
やがて、男を乗せたパトカーは町を離れてゆき、町にはいつも通りの平穏が再び訪れた。
男の家の玄関の前に倒れていた子供用の自転車を家の壁の前に立てかけると、もう用は済んだとばかりに集まっていた近所の人たちも去っていった。
男の家の前の電信柱はしとどに赤い液体にまみれてはいたが、季節は秋の初めである。
折からの秋雨に洗われて翌朝にはきれいになった。
四十がらみの男の錯乱というイレギュラーは、しばらくは町の人たちの口の端にのぼることとなった。
しかし、町はすぐに男の存在を忘れいつも通りの『正常性』を取り戻した。
◇◇◇
──もしも、狂気と正常が入れ替わる時。
あなたはなにを『見ない』だろうか?
狂気と正常が入れ替わる時 アマノヤワラ @sisaku-0gou
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