第六章 平国士は開眼する!

第22話 平国士は覚悟する




 やがて、重い沈黙を経てエレベーターの扉が開く。

 目の前には長い通路が続き、正面に両開きの扉が見える。そこだ、と直感した。俺達は通路を行き、扉を押し開く。

 部屋は、だだっ広い会議室だった。


 会議室の真ん中には悪魔イスライシュの姿があった。奴はゆったりとしたソファーに腰掛けて、気だるげに、俺たちへと視線を向ける。その傍には、あんなの姿もあった。あんなは椅子に縛り付けられていた。目元が赤い。きっと、散々泣いたのだろう。

 俺の頭蓋に、強烈な怒りが充満する。


「どうやって此処に辿り着いたのかな?」


 悪魔イスライシュが好奇心に目を輝かせながら問う。


「なにを言ってるんだ悪魔。こっちには、ぷうちゃんがいるんだぞ」

「ふむ。裏切者のライカンスロープのことか。確か、先程殺したと思ったのだが。僕の想定を超える回復力だ。もしかすると、そのライカンスロープは特定個体なのかな?」

「特定個体? ぷうちゃん、そうなのか?」

「ソウダ! ルーシーハ、トクベツナライカンスロープナンダ。トッテモ強クテオリコウサンナンダゾ!」

「やはりそうか。どうであれ、ここまで来たからには生かして返せないよ。この建物は我々の領土だからね。君達を殺害しても協定ルールには反しない」


 悪魔憑きの眼に、殺意混じりの微笑が浮かぶ。


「そういった難しい話はどうでも良いんだよ。大人同士で勝手にやってろ。俺が用があるのはあんなだけだ。お前は、あんなを置いてどこかに消えろ。そうすれば見逃してやっても良いのだぞ」

「……聞き捨てならない台詞だね。君は、どうやって僕に勝つつもりなのかな?」


 悪魔が薄く怒りを滲ませて、椅子から腰を上げる。俺も静かに歩み出る。

 俺達は、会議室の真ん中で睨み合う。もう、殴り合いの距離だった。


「あんな。まさか帰れなんて言わないよな。すぐに助けてやるから心配するな」

「はい。愛しい人」


 あんなの真剣な声が返って来る。


「それから日向、手を出すな。これは俺の死合いだ」

「で、でも、国士──」

「──頼む。あいつだけは、俺が倒したいんだ」


 そうして、俺はポケットからナイフを取り出して、思い切り、背後の床に突き立てる。


「それは、何をしているのかな?」

「俺は、このナイフからは一歩も下がらない。下がったら、その時は自ら死を選ぶ。良いハンデだろ? お前は、俺を下がらせるだけで勝てるんだ」

「その侮辱は看過できないね。僕が悪魔だってことを、忘れているようだ」


 俺と悪魔は言い合って、互いに踏み込んだ。

 死が、風切り音と共に耳元を掠める。鋭い回し蹴りが振り抜かれ、俺は攻撃を潜る。

 正中線に三連打、渾身の突き叩き込む。が、悪魔はそれをものともせず、反撃の拳を振り抜いた。唸る連撃から、鋭い横蹴りが襲いかかる。それをギリギリ、体捌きで回避する。


「くっそ。どれだけ頑丈なんだ」


 攻撃をかわす度に、俺はカウンターの拳を打ち込んでやった。が、どれも決定打にはならない。手応えはあるのに。悪魔は人間の肉体に憑依しているのだから、物理的に無敵、というわけではないだろう。だが、あまりにも打たれ強過ぎる。やはり絶掌ぜっしょう級の攻撃、つまり、引導返しでなければ仕留めることは出来ないだろう。

 俺は腹を括り、腕を十字に交差した構えを作る。

 左腕を捨てる。

 攻撃を受ければ腕の骨は粉々に砕けるだろう。本来ならば、引導返しは受けた腕で発動するのだが、骨が砕けたら反撃は出来ない。だから折れた左腕を擦り、発射台にして右の正拳突きで仕留める。それが、俺の狙いだった。


「来いよ」


 俺は不敵に攻撃を誘う。悪魔は不気味な微笑を浮かべ、ゆるりと踏み込んだ。大ぶりな、でも鋭い回し蹴りが放たれる。俺も踏み込んで攻撃を受けた。

 どっと、意識が飛びそうな衝撃が突き抜ける。左腕の骨が砕ける感触と、強い痛みの予感。折れた左腕には、右腕を添えていた。左腕を擦るようにして、俺は全霊の引導返しを放つ。


「まげ、るがぁっ!」


 限界を超えて蓄勁された拳を叩き込む。攻撃は綺麗に悪魔の胸を捉えた。

 ゴリ、と、胸骨の砕ける感触が伝わった。悪魔は衝撃でよろめきながら下がり、床に膝を衝く。

 カッと、悪魔イスライシュが血煙を吐き出した。攻撃が効いたらしい。だがやがて、ゆっくりと、悪魔が顔を上げる。そこには強い怒りがあった。


「驚いたよ。人間である君が、これ程の力を発揮するとは、ね」


 悪魔が、ゆるりと立ち上がる。

 倒せなかった。全霊の切り札でさえも。

 絶望が足元から這い上がり、全身に纏わりつく。もう、俺には打つ手が残されていない。それを自覚するとともに、骨折の痛みが押し寄せる。吐き気と倦怠感が湧き上がり、眩暈めまいがして足がふらつく。

 それがどうした。

 俺は歯を食いしばり、再び踏み込んだ。

 悪魔は再び猛攻を仕掛けてきた。それを、ふらつきながら足捌きで回避する。何度攻撃を回避したのかも、もう分からなかった。俺の肉体は深い感応状態に入り、自動的に機能し続けていた。が、流石に限界だった。

 チッ。と、悪魔の攻撃が肩を掠める。俺はそれだけで吹き飛ばされて、きりもみしながら壁に叩きつけられた。

 全身に、ウンザリする痛みが広がった。咳が止まらない。息も出来ない。意識が朦朧として、上下が分からない。強い吐き気も襲ってきた。ショック状態である。体中が痺れて、まるで動く気がしない。左肩からはかなり出血していた。攻撃が掠った時に、多少肉を持っていかれたようだ。


「こ、んどは……私が相手だあ!」


 日向が、震えながら踏み出した。


「日向あああ! 下がってろ。俺を信じられないのかあ!」


 俺は怒気を露に叫ぶ。


「でも、でも、国士が死んじゃうよ。お願い。もう立たないで」

「下がってろって言ってるん、だ……いうことを聞いてくれたら、後でご褒美に抱いてやる、から……」

「馬鹿。そんなこと……今言わないでよ」


 俺は、よろめきながら、なんとか立ち上がる。まだ、平衡感覚が戻りきっていない。体に力が入らない。


「よう。悪魔。戦いはまだ、終わってない、ぞ」


 俺はフラフラ悪魔に歩み寄り、正拳突きを放つ。それが届く前に、鋭い裏拳が振り抜かれ、俺の肩口を掠める。

 今度は、反対側の壁に叩きつけられていた。骨が軋む。肋骨が何本折れただろう? 右の踵にも違和感がある。意識が朦朧としている。視界は白っぽく霞んでいた。強い吐き気に耐えきれず、床に嘔吐する。

 それでも俺は、再び立ち上がる。

 老人のような足取りで悪魔に歩み寄り、渾身の拳を放つ。

 ポスリ、と、悪魔の胸に命中した。拳には、まるで力が入っていなかった。俺はそれでも、攻撃を続けた。

 殴って、殴って、殴って……。

 どの攻撃も力が入らず、ふにゃふにゃの役立たずだった。悪魔はもう、攻撃を避けようともしなかった。

 悪魔は止めとばかり拳を振り上げて、でも、何かを思いついたような微笑を浮かべ、手を下ろす。


「理解に苦しむね。君は、どうしてそんなに馬鹿なのかな?」

「男は女を守るもの、なのだぞ。そんなことも、知らないのか?」

「それは命を捨てる程の信念ではないよ。でも不思議だね。遠い遠い昔、君とは何処かで出逢った気がするんだ。その魂の強さ、気高さ、濃い闇の匂い。滲み出す憎しみの思念。本当に、殺すには惜しい子だ。だから君にチャンスをあげる」


 と、悪魔は俺の頬を、そっと両手で包む。奴は俺の耳元に唇を寄せ、尚も囁く。


「君はもう、気がついているんだろう? 榎木あんなを高千穂神社に送り届けることは、君とあんなとの永遠の別れを意味している。榎木あんなは太陽に送り返されて、二度と戻ってはこない。それでも良いのかい?」


 その囁きに、俺はピタリと動きを止める。

 あんながいなくなる。考えないようにしていた。でも、きっと事実なのだろう。それを突きつけられて、ポタリと、眼から雫が落ちる。

 悪魔は寂しげに微笑みながら、指先で俺の涙を拭う。


「悲しまないで。こっちにおいでよ。君も、あんなを連れてこっちへ来ればいい。そうすれば、ずっとあんなと一緒にいられるよ。世界をごらん。誰も変わろうとせず、救うに値しない卑怯者ばかり。こんな汚れた世界なんて、僕と壊してしまおう。君が望むなら、そこの大きな女の子も連れてくればいい。ね。僕と来て。何もかも壊してしまおう。全部、君の思い通りになるよ」


 悪魔は真剣な眼差しで、俺の瞳を覗き込む。そこには嘘やまやかしの気配はなかった。きっとこいつはこいつの物差しに従って、真剣に、俺を救おうとしているのだろう。確かに、悪魔を受け入れれば、これまで俺が望んだ全てが叶う。なにも迷うことなんてない。本来、俺がこの悪魔と戦う理由なんてなかったのだ。

 視線をあんなに移す。

 あんなは、今にも泣き出しそうな顔で、じっと俺を見つめていた。


「なあ、あんな」

「はい。愛しい人」

「愛ってなんだ?」


 俺の問いに、あんなは微笑を浮かべる。笑顔なのに、寧ろ淋し気に見えた。


「大切な人が大切にしてることを大切にする。たぶん、そういうことだと思うんだけど」

 

 いかにも、あんならしい答えだと思えた。

 視線を悪魔に戻す。そこにも、泣き出しそうな瞳があった。悪魔は、まるで縋るような声で、「来て」と囁いた。

 すっと手が伸びて、俺に握手を求める。この握手はきっと、悪魔との契約を意味しているのだろう。俺も手を伸ばし、悪魔と握手を交わす──、寸前で、悪魔の手を振り払った。

 顔を上げ、再び拳を握り締める。


「何故だい? 国士君」

「悪魔なんかに、解らないだろうな。だって仕方ないだろう。あんなは、まだこんな世界を大切にしてるんだ。それに日向も、あんなも……特別なんだよ。あいつらは真っすぐで正直で、優しい。クズな俺でも見捨てずに大切にしてくれた。誠実な女は、人懐っこい猫よりも稀なのだぞ。それがどれだけ可愛いか分からないだろう? そんな女が生きてるだけで……この世界には守る価値があるんだあああ!」


 言い放ち、俺は渾身の頭突きを繰り出した。悪魔は『やれやれ』と言わんばかり、対抗して掌底を放つ。

 頭の中で火花が散った。

 俺は身体ごと吹き飛ばされて、ナイフを突き立てた地点の向こうへと落下──しなかった。

 どしり、と背に掌の感触を感じ、俺は何者かに受け止められる。床のナイフを超える寸前で、動きを止めたのだ。

 霞んだ視界に映ったのは、ちょっぴり不健康そうな優男の顔だった。


「ボクサツ、君……」

「頑張ったね。君はまだ、負けていない」


 ボクサツ君が囁いた。


「ああ。でも悪い。もう、身体がいうことを効かない。勝算が、ないんだ」

「あるさ。僕が来たからね」


 と、ボクサツ君は、俺をそっと床に横たえて、悪魔へと踏み出した。


「気に入ったよ国士君。僕は君に味方する」


 ボクサツ君が肩越しに言う。穏やかで、でも何処か力強い声だった。



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