私が働く高級アパレルショップは、いつも多くの顧客で賑わっている。実店舗が一時期より活気を取り戻したのは牛蒡のおかげ。東京全域が牛蒡の下敷きになった結果、しばらくインターネットが機能しなかったからだ。

 それに、人々が実店舗を求めるのにはもう一つ切実な理由がある。

「何年も牛蒡ばっかり食べてるでしょ? すっかり痩せちゃって。このズボン見てよ。ウエストをこんなにベルトで絞っても、ずり落ちて来そうなの」

 どれだけ加工しても牛蒡は牛蒡。食生活の変化は、日本人の体形をゆるやかに変えた。世界の流行がどれだけオーバーサイズに移行しても、日本だけは細身のシルエットが流行り続ける。小柄で痩せた私たちに、大きなシルエットの洋服は似合わない。



 ある日、私は新作コレクションの発表会へ出かけた。勤務先と同じ経営グループに属するブランドのコレクションで、テーマは当日まで非公開らしい。ランウェイはごく限られた人しか鑑賞出来ないが、立食パーティーのように人が多い方が見栄えが良い場面には、私のような若手店員が招集される。

 既に大賑わいの会場で、ボーイからシャンパンを受け取り口に運ぶ。舌先で弾けるほのかな牛蒡の気配から、かなり上等な酒を用意したことが窺い知れた。安いシャンパンの場合、牛蒡の風味は消えてしまう。

 会場の壁沿いには、新作コレクションを纏ったマネキンたちが並んでいる。その様子を眺めながら、私は妙な違和感を覚えた。どの洋服もやけにサイズが大きく、マネキンが倒れてしまいそうなほど布が贅沢に使われている。そう言えば、今回のテーマは何だったのだろう。会場の正面を見上げると、そこにはこんな言葉が掲げられていた。


『飽食と暴飲』


 言われてみれば確かに、生地の柄には肉や魚の絵が使われており、野菜や果物を形どったアクセサリーも多い。一度身に纏えば、食材を乗せた皿の気分が味わえそうだ。そしてこの様子では、これらの洋服は着た人をかなりの巨漢に見せるだろう。

 するとその時、後ろから声がした。

「久しぶり! 元気にしてた?」

「今晩は。一年ぶりですね」

 声をかけてきたのは、本社のマーケティング部長。私を覚えているのは、去年私が店長代理で本社会議に出席したからだろう。真っ黒なセットアップのパンツスーツに身を包む彼女は、会場の中でもトップクラスに洗練されていた。新作コレクションとは真逆だが、近年の流行としてはこちらが王道だ。

「今回は、随分思い切ったんですね」

「そうなの。最後までオーケー出すか悩んだけれど、国内でこの方向性って久しく出てないし、先駆けようってことで」

 彼女は頭上の『飽食と暴飲』を見上げた。荒々しい筆文字に見えるが、目を凝らすとその文字が野菜や肉製品で形作られていることがわかる。

「ランウェイも大変だったらしいよ。モデル選びに難航したって」

「そうなんですか?」

「普段使ってるモデルじゃ痩せすぎてて、洋服に負けちゃうの。このマネキンだって、実は昔使われてたのを引っ張り出して来たんだから」

 そう言われても、服のラインがあまりにぶよぶよと大きくなりすぎて、マネキンの体形が変わっていることには気づきにくい。彼女は苦笑いを浮かべた後で、シャンパンを飲み干した。

「そういうテーマだから、ビュッフェも今回は特別に本物の食材を使ってるブースがあるの。牛蒡はいくらでもあるけど、本物の食材はなくなったらおしまいだからさ。あるうちに食べてみて」

 彼女はそう言い残してから、立ち去る前にちらとマネキンの方へ目を向けた。このテーマを許可したことを、後悔しているのだろうか。経営的観点による結果はまだわからないが、少なくとも彼女の好悪だけで言えば。あまり気が進まなかったであろうことは、おおよそ察しがついた。


 さて、私と本物の食材との対面は約十年ぶりとなる。流石に牛蒡料理とは一線を画すようで、シェフが目の前で調理する提供方法になっていた。目の前には、どっしり構える赤い肉の塊や立体的な造形の青々とした野菜、色とりどりの果物がやかましいほど置かれている。何をどう頼むのだろうと立ち尽くしていれば、シェフがにこやかに声をかけてきた。

「お悩みであれば、おすすめの一皿をご用意いたしますよ」

「あ……。じゃあ、それでお願いします」

 シェフは品のいい会釈をしてから、おもむろに手元へ肉の塊を置いてナイフを入れた。思わず目を逸らす。自分の腕が切られたような気分だ。人参や青菜と一緒に、立派な肉片は鉄板の上で焼かれていく。ジュージューと悲鳴のような焼き音が聞こえて、やがてそれはだんまりを決め込んだ。

「お待たせいたしました。サーロインステーキ野菜のソテー添え、赤ワインソースで仕上げました。小麦パンにソースや肉汁をつけて召し上がるのがおすすめです」

 流れ作業のように、皿の端に丸くて茶色いパンが乗せられる。私は呆気に取られたまま皿を受け取り、逃げるようにその場を後にした。


 会場の隅まで移動して、マネキンのそばで息を潜め手元の皿に視線を落とした。店への報告用に、会場の景色が見える角度で料理の写真を撮影してからフォークを握る。

 まずは野菜のソテーから。火が通るまではばさばさしていた立体的な青菜も、今ではしょんぼりと平たく皿の上に横たわる。人参と一緒に頬張れば、妙な青臭さがあるものの味は悪くない。「ソテーのもと」なる粉があれば、自分でも作ってみたい味だ。

 次に小麦パン。表面は茶色くて、濃い茶色の粒がわずかに混じっている。見た目は牛蒡パンそっくりだが、いざ口に含むと何の味もしない。急いで赤ワインのソースをつけてようやく、そこにパンがあることを思い出す。牛蒡の味がしないパンを食べていると、ふかふかの空気を口に含んでいるような心地がした。


 そしていよいよ、目の前のステーキに取り掛かる。どう見たって気色が悪い。牛蒡のハンバーグとは大違いだ。表面に凹凸があって断面は赤く、フォークの端で押すとジワリと赤い脂が滲み出る。なんてグロテスクなんだろう。人の臓器を取り出して、皿の上に乗せているみたいだ。もし、天から牛蒡が降って来なかったら。私は昔の人のように、この塊に舌なめずりしていたという訳か。

「……お父さん、お母さん。頂きます」

 ふと、そんな言葉が口をついた。牛蒡に押し潰されて、遺体さえ目に出来ないまま死別した両親を思い出す。両親を殺した天の牛蒡は、三本のうちどれだろう。それを食べながら、今の私は生きている。もしかしたらこれは、目の前の肉と同じくらいグロテスクなことなのかもしれない。そんな皮肉が脳裏を過ぎり、埋め尽くされる前に私は肉を口の中へ放り込んだ。

 舌を麻痺させるような脂の泉。欲望の塊。沸き上がる命の悲鳴。妙に鉄臭いのは血の香りか。口から溢れそうなステーキは、私の味覚を、嗅覚を、触覚を埋め尽くしてしまう。どんな高級な香水も、この香りほど人を狂わせはしないだろう。どれだけ手間をかけて作ったベルベットより、肉の舌触りは官能的だ。目の前が急に色鮮やかに、そして同時に色あせて見える。


 美味しい。これが、美味しいという味か。私はその場に立ち尽くし、眩暈のように脳を覆う美味しさをやり過ごす。もう一口、もう一口だけ食べてみたい。だけど恐ろしい。あんな命の塊を、もう一度口に含むなど。

「チャンスは残り三回です」

 あの声が聞こえた気がした。牛蒡削り器の声。嘘だ。それは私の声だった。

 何かの光が差した気がして、私はふと顔を上げた。何の光もない代わりに、やけに大きなドレスに身を包んだマネキンが、じっとこちらを見つめていた。


『飽食と暴飲』


 頭上では、食材で形作られた文字が躍る。妙に立体的な影が浮かんで、まるで私を見据えるかのように。マネキンは何も言わない。しかし私の皿に残った赤い肉汁を、ソースの痕を、野菜の屑を。じっと物欲しそうな目で見つめているのだけはわかった。ぶよぶよと、不健康に肥え太ったシルエット。マネキンが纏うのは、洋服ではなく欲深さだ。

 私は大急ぎで会場を飛び出した。ハイヒールを脱ぎ捨て地べたを走り、走り、走り。天の牛蒡が見える私の家まで、一度も立ち止まらずに逃げ帰った。

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