第50話 女将の体力
「ほらもっと下げるんだよ」
「ぬぅ、ううう……」
「ここまで。膝を曲げるんだよ」
「がぁ、うぐぅぅ……」
「そうその調子だ」
信じがたい。
器具を使ったスクワットは負荷が大きく、常人では一苦労するトレーニングだ。しかも器具には追加で鉄球が吊るされ、不安定さをましていた。秀の太腿や脇腹には電極パッドが貼り付けられ、リアルタイムでトレーニング負荷や筋肉の刺激度合いが計測される。気を抜こうものなら、一瞬で露見してしまうのだ。
臨時行動隊に入隊してから一年弱が経過した今も、秀はこのトレーニングが苦手である。いや、好きになる事なんかあるのだろうか。
彼は己に手本を示す野村真智子整備班長の、見事なまでのスクワットを、妖怪を見る目つきで目に焼き付けていた。
「ほらほらどうしたどうした」
「ひぃ、ひぃ」
「情けないよ。アタシがこうやってるんだ、若いアンタが何を泣いてるんだい」
重りの合計が三桁を越すスクワットは、本当に苦しいのだ。肺から酸素が抜け、全身にのしかかる重量は己を殺すつもりかと問いたくなる。
しかし真智子は秀よりも多い重りを担いで、手本を示すのだ。
「どぅ、ふぅぅ!」
「おいさ、まぁいいね。スクワットはこれで仕舞いだ」
「はぁ、ハァ……」
「10分後にレッグエクステンションいくよ」
「はぁ、ひぃ……」
「他の連中と少しでも差を埋めるんだ。ガタガタ抜かす暇ないよアンタに」
フリーウェイトのエリアで、整備班員男女五名ほどが、虚脱状態で座り込んでいる。全員と差など無いのではないか、と秀含め全員が思ったが、口にはしなかった。
「走れぇぇ!」
脚トレの仕上げとして、長距離走が待っている。最後尾で膝が笑っていた秀は、笛を口に咥えて一輪車に乗る真智子に、奇怪なものを目にする視線を送った。
(お、おかしい。おかしいだろ、あの人……)
かれこれ一時間は、一輪車に乗っている筈である。訓練している隊員全員が疲労困憊の極地に至り、腐鬼の形相になっているにも関わらず、彼女は平然としていた。
(バケモノだ、バケモノだ)
屈強な肉体を誇るラーマとジュニアとて、一切余裕のない表情で歯を食いしばっている。
(警官が顔青くするんだものなぁ‥…)
中学の頃から自動車整備の道を歩み、GDM最初期の整備を知る大物である真智子は、敬意と畏怖を込めて「女将」と呼ばれていた。
秀は先日来訪した機動警備隊の隊長が真智子を見た瞬間に顔が青ざめた理由を、日々実感している。
「情けないよ。年寄りが元気あるのに何やってんだい!」
(アンタがおかしいんだよ)
「八代ォォォ!!!アタシゃ普通なんだよ!!!気ぃ抜くとただじゃおかねぇ!!!」
「うっそだろおい……」
一輪車から飛び降りた真智子が、工具箱を担いだまま秀を追ってきた。秀達は気狂いの領域にある真智子から逃れんとして、必死になって脚を前に出す。
「だ、やだぁ!」
「八代っ、お前この」
「知るかぁ!」
「逃げるな卑怯」
「走れぇぇぇ!!」
「「「ひぃいぃ!!!」」」
整備班員の間をすり抜けてでも、秀は真智子の魔の手を避けたかった。笛の規則的な音色が迫るにつれ、彼の限界値は常時更新される。
入れ替わる最後尾では、真智子の怒火をまともに受けた。殴打の錯覚が見える気迫に、泡を吹く隊員が続出する。
「ホラホラホラホラ!!!アタシに肩ぁ叩かれた奴は追加で十周!!!」
加速する女将の猛進が、それぞれの走りを臨界点突破させた。全員が考える思考はただ一つのみだ。
「「「「死にたくない!!!!!」」」」
「なっさけないねぇ。若いのにそんなに食が細くちゃどうしようもない」
食堂でゲンナリする秀は、向かいに座る真智子に、隠してきた感情を剥き出しにする。
「化け物見る目するんじゃないよ」
「いやだって」
カツ丼と醤油ラーメンの大盛りを平らげ、食後のプリン・ア・ラ・モードとチーズケーキを代わる代わる口にする彼女は、大ジョッキを満たす麦茶を一気飲みした。
「こんなもの造作も無いね。しかし衰えた」
「おとろえた」
「昔はここにカレーもつけたんだがねぇ」
「へへへ……へぇ〜……」
「父ちゃんの実家近くに、古い食堂があったのさ。黄色い肉無しのカレーが、あん時で確か250円だったものさ。いまの2割弱か」
「あっ、そうっ、ですか……」
「八代。アンタは食べなきゃダメだ。年齢は38かい?まだまだ若いんだい、身体をもっとしっかりしなきゃ、ならないんだからね」
「えへ、へへへ……」
「四十になっても身体は変わる。任しときな、前の職場どころか、同年代の警官よりも鍛え抜いてみせる」
秀はささみとオクラの梅和え素麺に箸を伸ばす。酸味と粘り気に助けを借りて、何とか栄養素を補給しなくてはならなかった。
「食事も訓練。さぁ他の連中も食べた食べた!」
かき揚げ蕎麦をすするラーマとミートスパゲッティを口に頬張るジュニアは、バナナの皮を剥き始めた真智子を呆れた顔で見送っている。つまりは、彼等とて真智子には全くついて行けてはいないのだ。
秀は着実についていく体力を心の支えとして、彼女の鍛錬を耐え凌ぐしかない。
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GDMーPOLICE 永野邦男 @kirarohan
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