母と妹が居なくなってから少しすると、Kはひどい無気力に襲われた。


 学校に行くことを拒むようになり、あれほど可愛がっていたつがいの小鳥も餌をやり忘れて餓死させてしまった。登校も拒否するようになり、友人とも疎遠になって、とにかく誰かに助けを求めたかったが頼れるものはおらず、より孤独になった。


 母が出て行ったことに対するバツの悪さからか、父はしばらくKに対して優しい態度をとったけれど、Kの孤独が埋まることはなかった。


 静かに積もったストレスはときにKを破壊的な衝動に駆り立てた。Kはある日、母からもらった大事なゲームボーイを理由もなく庭の岩にたたきつけて壊すという信じられないことをした。


 思えばこれが歪んだ認知とひずんだ魂に起因する異常行動の始まりであり、この時からKは、激しい怒りや激しい不満を抱えると後先考えずに物に当たり破壊するようになる。


 だがKは神経質ではあったが基本的には内向的な性格であり、耐えられない問題に対しては暴力で抵抗するよりは逃避することを選ぶのが常だった。


 素面の父から至極まっとうな理由で叱られたときも、Kはその場から逃げ出したい一心で家を飛び出し、野山をぶらぶらして父を心配させた。また教師の注意や指導に対しても同様で、言われたことを真摯に受け止めて反省するということをしなかった。


 悪いことをすれば叱られるし約束を守らなければ罰せられるという世の中の原則を、Kは理解はしていたが軽視していた。これは環境によるものもあるだろうが、もともとKに生まれつき備わっていたものではないかと思う。いうなれば父から『悪の遺伝子』を部分的に引き継いでいたのだ。


 Kは思春期あたりから反社会的な行為をしても良心の呵責に苛まれないという自己中心的かつ短絡的な人間になるが、すでに小学生のころからその片鱗はあった。


 Kは小学生2年のころ怪我をして入院したことがあるのだが、その時のことである。


 病室にはKより少し年上の男の子がいて、彼はプラモデルがとても好きだった。ある日、彼は興味深そうにしていたKにプラモデルをひとつプレゼントした。初めての入院で親元を離れて不安になっているKを励まそうとしたのかもしれないし、もしかしたらKと仲良くなりたかったのかもしれない。なんにせよ、それは純粋な善意と好意から生じる行動だった。


 にもかかわらず、Kはそれを裏切るような行動に出た。Kはもらったプラモデルより、彼が持っている他のプラモデルのほうを欲しがったのだ。普通の子であったなら、我慢するか、あるいは素直に「そっちがいい」というところであるが、Kはそうせずにそのほしかったプラモデルを盗んだ。


 そして何の考えもなしにそのプラモデルを自分の好きなところに飾ったのだから、すぐに悪事は露見し、母にこっぴどく叱られることになる。


 ……善悪のあいまいな子供のころなら誰しもが多かれ少なかれあるエピソードだと思う者もいるかもしれないが、これがKの内にあった悪が初めて発露した瞬間であった。


 さて、Kの悪事については青年期になってから嫌と言うほど語ることになるので話を戻そう。


 Kの行動は大いに父や教師を困らせたが、父の対応もまた歪なものだった。絶対に自分が悪者になることを認めない父だったから、教師に家庭環境のことを素直に説明したりはしなかった。担任の教師も、Kの家庭に起きていることを薄々感づいてはいただろうけれど、そこまで踏み込むようなことはなかった。


 手を焼いた父はある日、Kを児童相談所に連れて行って専門家に相談することにした。他人に助けを求めるという行為は、本質的には人を信用せず、頼る人もいない父にしてはまっとうな判断であったが、やはり父はまともではなかった。


 出て行った母のことや自分の暴力のことは一切言わずに、ただ「この子はおかしい、どうしたらいいのか」と表面だけ相談したのだから、まったくもって無意味だったと言わざるをえない。


 なおこのころから父の暴力はさらに苛烈かつ理不尽さを増していて、素面の時ですら怪しくなり始めていた。


 母が居なくなって1年が経つ頃、父はとある女性と交流を持っていた。どんないきさつで出会ったのかは定かではないが、新幹線で会いに行かなければならないような遠方に住んでいる、バツイチの美しい女性だった。


 父はすでに40歳の半ばであったが、他人から見れば自信満々でカリスマと魅力がある人物だったし、目的のためなら嘘をつくこともためらわない人物だったから、異性に困ることはなかったようだ。


 わざわざKを連れていって女性に会わせるくらいだから、父はその女性との再婚を考えていたのかもしれないが、その女性とはうまくいかなかった。


 なぜならKが、父の暴力のことや酒癖の悪さ、それから出て行った母のことをすべて話してしまったからだ。Kはただその女性と仲良くしたかったから、聞かれたことを話しただけであったし、父のほかにまともに話せる人はいなかったから、突然現れた優しくしてくれる女性にすべてを話したくなったのかもしれない。


 おそらくKが初めて顔を合わせたその日、父とその女性は破局したのだと思う。帰りの新幹線の中で、父はひどく落ち込んだ様子で無口であった。


 それだけならまともなのだが、父は家に着くなり豹変した。酒を浴びるように飲み、Kをベルトで柱にくくりつけると鼻血が出るまでKを叩いた。


 そんなことをした理由は一つしかない。だがその原因は父本人の行いに原因があるものだから、何も言うことができずただ暴力を振るうしかなかったのだろう。要するに父はKのせいにしたかったのだ。お前が余計なことを言ったせいで、ということなのだろう。


 こうしてKはますます歪んでいくことになるのだが、そこに僅かながらに希望が差し込む。祖母が家に来たのだ。


 おそらくKの面倒を見ることや家事に疲れた父が、助けをもとめて呼んだのだろう。ある意味、K以上に孤独だった父にとって唯一頼れる人間は祖母しかいなかったのだが、父は実の母である祖母にも容赦なかった。


 酒を飲むとかなり高い頻度で祖母を殴った。正確なところはわからないが、断片的な情報を集めて整理して浮かびあがるのは、父は祖母のことを愛し、そしてそれと同じくらい憎んでいるのだろうということだ。


 ――このあたりで、Kの父がどのような人生を送ってきたのかについて話しておこう。


 父はとある片田舎の、いわゆる被差別地域で生まれた。


 祖父はそのような環境にありながら一代で敷物を製造する会社を立ち上げて資産を築いた傑物であったが、それは父にとってある意味で不運なことだったのかもしれない。


 多くの企業がそうであるように、2代目である父に商才はなく――というより、父に責任のある仕事は向いていなかった。聞いたところによると、2代目2代目と周りに持ち上げられていいように操られてしまったようだ。


 ちょうど運悪くその時期に祖父が亡くなったこともあり、父を正しい方向に導くものは誰もいなかった。祖父の財産や会社の権利をめぐって親族や関係者が押し寄せ、父は祖父の遺産の多くをその者たちに支払ってしまった。


 しかしそれでも父の手元にはまとまった金が残ったはずなのだが、その金も父の散財によって数年と持たず消えることになる。


 その後の父の人生はまさに転げおちるようなものであった。


 そのときにはすでに父には妻がいた。祖父の勧めにより見合い結婚した、由緒ただしい人物だったのだが、金の切れ目が縁の切れ目……という以上に、上記のような父であったから、長くは続かなかったようだ。


 なお、このとき父は妻との間に長女をもうけているはずだが、Kは会ったことも名前も知らない。


 離婚し、金もなくなった父は、その数年後、警察のお世話になることになる。定かではないがおそらく詐欺罪で実刑判決を受けて、2年ほど服役したようだ。


 出所後、父はまともな仕事に就いたが長くは続かず、故郷の地からそう遠くない都市を転々としたようだ。Kの実母と出会ったのはちょうどそのころだったようである。


 以上がKが生まれてくるまでの父の経緯である。しかしながらKの父は、欠点の多すぎる人物ではあったものの、頭が良く、時として愛嬌があり、Kと同じで他人を信用しないくせに一人では生きていけない実に人間的な人物だった。


 Kが父のことをどうしても完全には嫌いになれなかったのは、唯一の家族にして保護者に依存せざるを得なかっただけではない。ときおり見せる穏やかさや、知性や、どきりとするような行動力など、見るべきところがあったからだ。


 ――もちろん、だからといって良い父では決してなかったが。


 父はプライドばかり高い人間だったから、手遅れなほどに自分の人生が失敗してしまったことを自己責任とすることができなかったのだろう。誰かのせいにしなければ、実績の伴わないプライドばかりの矮小な自己を保てなかったのだと思われる。


 祖母を憎んでいたのはそのためだろう。自分の失敗を思い出すとき、もしあのとき母が正しい道を教えてくれていたら。……いや、母がそうしなかったから、私は失敗したのだ。と、このような責任転嫁があって、その結果、お門違いの憎しみを抱くようになったようだった。


 祖母はお嬢さまであったから常識に疎いところはあったものの、至極まっとうな人物であった。だから良いとは言えない家庭環境にいるKのことには心を痛めていたし、Kには優しく接した。


 けれど祖母は父に対してはびっくりするくらい無力でなすすべがなかった。父は仕事がうまくいかなかったりしてストレスがたまるとすぐに酒に逃げるようになっていて、酔うとそのたびに祖母を殴り続けた。


 祖母をたよることはできないとKが諦めたころ、この生活に少しばかり良い転機が訪れる。父の叔父にあたる人物が亡くなったのだが子供がおらず、遺産が父に入り込んだのだった。

 



 

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                   ただの石ころ770 @emanon195

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