第5話

 今日から本格的に高校生活がはじまり、そして今やっと1時間目の授業を終えたわけなのだが……。


「れーくん、どうだった? 高校のお勉強は」

「俺は大学受験を諦めようと思う」

「早っ」


 俺は撃沈していた。

 教科書をパラパラめくるだけでめまいがした。数学の公式にsinとかlogとか英語の文字列が出てくるとかどうかしている。お前はすっこんでろよ。

 そう呪いながら、数学の教科書を机の中、奥底に封印した。


「なあ朝日あさひ。2時間目ってなんだっけ?」

「男子は教室で保健の授業じゃなかった?」

「そうか。計算しないだけまだマシだな」

「ね。じゃあボクは着替えあるから、また」


 そう言って、朝日はブレザーを椅子にかける。


「え? 俺体操服持ってきてないけど」

「女子は体育だよ。男子は教室だから体操服いらないよ」

「それならお前も着替えなくていいじゃん」

「またそういうこと言う!」


 朝日は頬を膨らませる。


「だって事実だし」

「どうしたらわかってくれるのかなあ……あっ、そうだ」


 と、朝日は胸ポケットから黒いヘアゴムを取り出した。


「髪、しばってよ」

「髪?」

「うん。体育のとき邪魔だし」


 ヘアゴムを俺に手渡すと、朝日は椅子に座ったままくるんと振り返る。俺の目の前には朝日のツヤツヤとした後ろ髪が広がる。


「縛るっていうのは……ポニーテールってことか?」

「そうそう」

「わかった。やってみる」


 俺は姉や妹もいないから、人間の髪を縛るのはこれが人生で初めてだ。とりあえずやってみるか。


 俺はヘアゴムを朝日の肩あたりで開き、髪の先端を輪っかの中へ入れていく。そのままゴムを引き上げるが……髪がバサついてうまく縛れない。


「ふふ。れーくんはやっぱり男の子だね」

「それはお前もだろ」

「違うんだなあ、それが。ポニーの結い方わかんないよねえ、男の子は。ま、ボクは女の子だから当然わかるけど」

「はあ?」

「貸してみ」


 そう言われ、俺はゴムを朝日に返す。

 朝日はゴムを後頭部で開くと、毛束を根元からまとめるようにしてピッチリと縛る。たしかにこのやり方ならうまくできるな。すごく単純だがパッと思いつかなかった。


「ね?」


 朝日は得意げに俺を見る。


「いや……アレだろ? るろうにに憧れた……的な……」


 適当な理由をつける。が、そのとき脳みそのキャパのほとんどは朝日のうなじという視覚情報に支配されていた。


「何? どこ見てるの。あ……もしかして、うなじ? れーくんのえっち」

「いいいや!? まさか! ムダ毛が気になったんだよ!!」

「ムダ……!? ひどい……」

「あっ、スマン! ムダっていうか、そういうアレじゃなくて……」

「なになに、焦ってるの? ごめんね、女の子に耐性ないれーくんには刺激強すぎたかな?」


 朝日は急に煽るような顔になって俺を見る。

 ダメだ、考えろ。こんなところで俺の役得ライフを終わらせるわけにはいかない……!


「いや、焦るわけないだろ! 相手は男だぞ! 違う。俺はアレだ! 潔癖症だから予期せぬところに生えた毛が怖いんだよ!」


 だいぶ苦しい言い訳だが……。


「あ……そっか。それならしかたないね。うん、そういうこともある」


 朝日は驚くほどすんなり納得した。


「うん。そういうこともあるんだよ」

「でもボクは女の子だからね!」

「そういうことはないがな」


 なんだか朝日の素直さを利用してしまって申し訳ない気持ちもなくはないが、ひとまずやり過ごせてよかった。


「てか、時間大丈夫なのか?」

「全然大丈夫じゃないかも。急がないと」


 朝日はカバンの中からスポーツブランドのマークがついた紺色のナップザックを取り出して、肩にかけた。小学校の家庭科で作るやつだ。


 ただ、そのナップザックは、女子力高めな今の朝日が背負うには少しボーイッシュすぎた。


 家庭科であれを作るのはたしか小6だ。つまりその頃はまだ垢抜けていなかったということだろう。

 となると、朝日が今みたいな見た目になったのは中学時代とか、その頃になるのか。


 いったい何がきっかけで……。


「なあ朝日」

「ん?」


 朝日が俺の方を振り返る。


「……あのさ」

「どうかしたの? 急いでるからもったいぶらずに言ってよ」

「……いや、ごめん。やっぱなんでもないわ」

「そっか。ならいいけど。じゃあまたね!」


 なんとなく、今それを聞くのは違う気がした。時間がないのと、なにより、人の容姿をガラリと変えてしまうような出来事を聞くのが、なんだか怖かったからだ。

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