第5話
外は曇り空。こんなとき晴れていても空気が読めていないし、雨だからってブルーな気持ちが加速するだけだ。こんな馬鹿みたいな一日にはうってつけの天気ともいえるだろう。しかし幸田からすればそうではないらしく、
「ああ……やつ、機嫌損ねるだろうな」
「……やつ?」
「行けばわかる」
本人は言うが、そもそも私たちはどこへ向かって走っているのか。ふれあい館の敷地を飛び出し、売店を横切り、バスが通った道とは真逆の方向へ。早苗がいらぬ気を働かせた林の道を通り、どんどん変な場所へ向かっている気がする。ショック療法というか、あんな状況を体験した私に、林なるそのへんにゴロゴロある木の密集地帯に怯える暇は失せていた。
「ねえ、どこ行くの!」
もう十分は走っているはずだ。生まれつき身体能力に乏しい私は足を絡ませながら必死についていく。対して幸田はしっかりした足取りで、息を乱すことなく返答した。
「崖だ。こっちに行くと崖に出る。そこが一番おあつらえ向きなんだ」
何がおあつらえ向きなのやらそれ以上は聞けなかった。呼吸がめちゃくちゃで声を出せる体ではなかったからである。
無我夢中で走り抜け、ようやく視界が開けた。たしかに林を抜けると、崖に出た。断崖絶壁というわけではなく、多少ゆるやかなカーブはできているけれど、もちろん落ちたらひとたまりもない。『早まるな』という文字と相談センターへの電話番号が書かれた看板が恐怖心をふくらませてくれる。胸ほどの丈の柵もあった。
「……おまえ、体力ないな」
「う……」
うるさい、と言い返せるほど呼吸は回復していなかった。というかこいつはなんでこんなにピンピンしているのだろう? 男女の違いと思っていたけれど、普通の男子の何倍もスタミナがあるのではないか。
「ちょ、ちょっと休憩……」
「ぐずぐずしている暇はないだろ。おまえもあいつらを助けたいんだろ」
そう言われると返しようがなかった。私は秋の山風をふんだんに吸い込み、大きく吐き出した。これで少しはよくなるだろう。あいつもさすがにスタミナ無限ではないらしく同じく空気を吸い――
ここからが私と違った。目を数秒つぶり、かっと見開き、空を見上げてこう告げた。
「幸左衛門、急急如律令」
私の耳にはたしかに、そう聞こえたのである。
空気が一変する。
東の空から昇った太陽は、今は雲々に覆われてまったく見えない。にも関わらず、空の向こうに光が見える。神様が天空から羽根をまいたような、神々しい光が空の向こうに現れる。私は疲れも忘れて、その光景に見入ってしまった。幸田はというと感慨深さもゼロで、
「遅いな……早くしろ」
「誰が、遅い、だ。誰が。精いっぱい駆けているだろう」
腹に直接語りかけてくる、地響きのような声に、私は夢を破られた。その声は、私に語りかけてきた虫の知らせとは一味違う。しかし訴えかけてくる魔の魅力は同じに感じたから不思議である。
相手は虫ではない。カラスだ。しかも、とびっきり大きい。
天から舞い降りたありえない光の正体は、真っ黒なカラスだった。
「なんということだ」
カラスは私たちの前に降り立ち、左の羽根で顔を覆うようにして、ハトのように首を振る。柵の上に立っているのにいっさい壊れる気配がない。
「朝早くから呼び出すとは偉くなったものだな。さぶ郎のやつはまだ机の下で眠っておったわい」
大ガラスは機嫌が悪い模様。幸田は黒い体をなだめるようになでた。
「何が朝早く、だ。おまえは式だからいいが、俺たちは朝から祈りを捧げていたから、もっと早起きだった。特に今日のような日は念入りにしなくてはならない……おまえも、わかっているだろ」
「ああ……無論、忘れようがない。異常事態だからな……ああ、でも別の町のおなごを眺められたのはなかなかよい体験だった。そこにも、よきおなごがいるではないか」
大ガラスはギョロッと目を下ろし、私に向けた。昔、動物園でダチョウを見て以来、こんな大きな鳥と目が合うのは久々だった。目を逸らすこともできず、私はしばし大ガラスと意図せずにらみ合いを続けた。すると折れたのはあちらのほうで、
「ふむ……おなご、よい目をしている。伊織、お主は昔からおなごを見る目だけはあるな」
「ほっとけ」
幸田はやれやれとばかりに顔を振った。
「それよりも、急がなければ。幸左衛門、ひとつふもと町まで乗せていってくれ。あとは俺たちでやる。というのも道はだな……」
「ああ、見ていた」
大ガラスは忌々しげに舌打ちをした。
「驚きだ。車が通るような道はすべて破壊されている。あれは獣の仕業ではないぞ。これでは助けも来られない」
私はその言葉に希望を失った。ならば早苗たちは陸の孤島に閉じ込められたも同然ではないか。何よりも恐ろしいのはそれは、化け物たちが道を通って私たちを襲いに来た証拠ではないか。
「ねえ、それじゃ、町の人たちもヤバいんじゃないの? もし全国でこういうことが起こってたとしたら……」
「どうだろうか。その割には、建物の外はなんともなかったが」
こうなるといよいよ、大ガラスとだべっている場合ではない。私たちは大ガラスの幸左衛門の背中に乗り、飛び立った。鳥の背中で空を飛ぶ――小さい頃からの夢が叶った瞬間にしては、そう感動は働かなかった。
乗り心地は案外、快適だった。
空の旅を楽しむ間もなく、幸田は自らの正体を明かした。
姓は幸田、名は伊織――南高校二年A組出席番号四番兼、祓い屋の息子である。
祓い屋とは妖怪や悪霊を退治する専門家であり、本家は平安時代から京都に構える「十文字家」。明治維新以後は外国人に紛れて海外の物の怪の往来も増え、多様化し、十文字ひとつでは抑えきれなくなったため、各地に分家を置くようになり、今では日本各地に庶民の皮をかぶった祓い屋一家がいる。元は官僚としての陰陽師であるが、呪術は時を経るにつれて変貌し、今では使われなくなった術も多数存在するという。
「本件の占い結果は『二〇XX年○月○日、T県加賀美市田上町久実乃の大山にて魑魅魍魎あり』だ。重要な文言だ。漏らすなよ」
「言うわけないわ」
私は断言した。そちらこそ、私に明かして大丈夫なのかと言いたいが。
「分家は基本的に土地ごとに存在し、それぞれ己の町を人ならざるものから守っている。いうなれば警視庁と地方警察のような関係だな。俺たち幸田家の管轄は生天目市なんだが……父の命令で加賀美市に出張しなければならなくなった。目的地が加賀美市だからしょうがないんだが、まったく、迷惑な話だよ。俺のようなひよっこに」
幸田は大きくかぶりを振っている。私は正直言って、まったく意味がわからなかったし、ついていけなかったのだが。
「じゃああんた……あの化け物たちが、妖怪とか悪霊とかのたぐいだっていうの?」
「そうとしか思えないだろう。UMAや宇宙人ならば俺たちには回ってこないしな」
未確認生物を取り締まるのがどこの組織なのかはわからないけど。
「そもそも陰陽師は暦を作って吉凶を占ったり、土地の良し悪しを調べる陰陽寮の官僚でな。十文字の元祖は密かに、占いをもってやつらの出現を予測していたようで、それを発展させ、よその手をわずらわせず自分たちの手で退魔できるよう昇華させたのが今の十文字の収入源である、祓い屋業だ。今回のやつらもいちおう、本家からうちに託された仕事ではある。まったく、加賀美のものに頼めばよかろうに。うちのような落ちぶれた家より、いくらか腕が立つはずだ」
幸田はよほど出張が納得いってないらしく、ぶつぶつ文句を言っている。
私は黒くあたたかい床を眺めながら考える。幸田が人ならざるものと戦う宿命を背負った人間であることは受け入れなければならない。でなければなぜ私は鳥の枠を超えた生き物に乗っているのかわからなくなるからだ。でも、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』とはなんなんだろう。そしてなぜ私は連れてこられたんだろう。そしておぞましいほどに不思議なのは……尋ねようとしたけれど、勇気が出なかった。
「このあたりでいいか」
幸左衛門が着地の姿勢を整えはじめたのは好都合だった。
真昼の小夜曲 かめだかめ @yossi0102
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