第4話

 時間を潰そうとベッドに寝転がり、この期に及んでうとうとしはじめたところで最新型目覚まし時計サナエに叩き起こされた。一度眠りかけたため頭をもたげるずんとした重みがぶり返している。

「結衣ちゃん、目覚め悪いなあ~? ほら明日香ちゃんも起きた起きた!」

 日曜日の朝、お父さんを叩き起こす息子のごとく。朝から歯を磨き、服を着替えとちょこまか動き回っている。立ったままスカートに足を突っ込んでいるがいっさいよろける気配がない。

「元気だね……」

 明日香は目をこすっている。

「そりゃそうでしょ! あたしは朝から大事な任務があるんだからね。寝ぼけてる間はないの! じゃああたし、先に行っとくから!」

 なるほど、と合点がいく。妙に急いでいると思ったら早苗は今日、朝の集会で校歌を弾く役目を果たさなければならないのだ。

「頑張ってね」

 私はそんな彼女に励ましの声をかける。靴下を履き終えた早苗はにっこり笑顔で、

「うん、絶対成功させてみせるからね!」

 と、言うやいなや廊下へ飛び出していった。まったく嵐のようである。

 残された私たちはゆっくり向かえばいい。のんびり身支度を整え、最後に鏡に向かって髪飾りをつけ直し、がてらテレビをつける。見覚えのない女性アナウンサーの聞き心地のよい声が耳を喜ばせる。

「毎週さまざまなT県ご当地ニュースをクローズアップする、その名も『ズームT!』、今週の特集はかがみの人形祭りです。人形と音楽の町、加賀美。加賀美市出身の人形師、人間国宝の蕪木誠作を称える人形祭りは今年で三十回目の開催で、先週末、大盛況のうちに幕を閉じました。地元の人形屋だけでなく、地元住人や学生たち、蕪木誠作を応援する会からも、自前の日本人形、フランス人形、また自作の編み人形から動物をかたどったフェルト人形まで多彩な人形が持ち寄られ、人々の目を楽しませました。中でも注目を集めたのは地元出身の指揮者、田川正信手作りの、オーケストラ演奏をイメージした人形のジオラマで、これをバックに県立田上高校の吹奏楽部によるコンサートが……」

「ちょっと、明日香!」

 私はテレビを切る。昨夜起きっぱなしだったから仕方のないことだが、着替えを済ませた明日香はベッドに横になると言ったまま夢の世界に誘われてしまったようだ。

「今寝ちゃダメよ! 明日香ってばぁ~!」

 せっかく眠りにつけた友達を無理くり起こすのは気が引けるが、学級委員長が遅刻してはあまりに締まりがないではないか。私は明日香を小突いたり、デコピンしたり、チョップしたり、ありとあらゆる手段を講じてなんとか起き上がらせた。

 さすがに歩くのは自分でおこなってもらわなければしょうがないと思案していたのだが、杞憂に終わった。私も準備を終えて講堂へ向かう頃には明日香もなんとかかんとか自分で歩き回れるまでには覚醒していたようだった。ただ、まだちょっとふらふらはしているから、目が離せないのだが。

 今日は講堂で朝の集会をおこない、締めに校歌を歌ったあと、乳搾りや乗馬体験など、久実乃の動物と触れ合う予定らしい。早苗いわく、班内でペアにならなければならない瞬間があるから、そこで私と桜井くんをくっつける算段があるとのことだが、そううまくいくかどうか……何より気まぐれな神様がまた怒られたのか、百円落としたのか、雲行きが怪しい。これでは牛や馬もやる気を削がれるだろう。

 講堂に着く頃には明日香もしゃんとして、もう安心だった。私は先生と打ち合わせに勤しむ早苗を除く五班メンバーの点呼をおこなう。とはいえ、

「まず、桜井くん」

「はい、ここにいるよ」

「……もう一人は?」

「……さあ」

 これでは点呼にならないではないか。私は頬をふくらませるが、このときばかりは幸田の馬鹿に感謝だった。私は幸田を探してあたりを見渡す桜井くんにおそるおそる声をかける。

「……『四手のためのピアノソナタ』だっけ?」

「えっ……ああ、今度弾く曲? そうだよ」

「モーツァルトよね。どんな曲なの?」

「連弾曲だよ。モーツァルトは生涯ピアノソナタをいくつか作ってるんだけど僕らはニ長調K831と名付けられた曲をやるんだ。モーツァルトがお姉さんと連弾するために作ったらしいんだ。今回は今から彼女が弾くあのピアノを使う予定なんだ……」

 桜井くんは壇上のピアノを指さした。

「連弾曲っていうのは一台のピアノを二人で使う演奏方法なんだ。大変だけどやりがいがあって楽しいよ……」

 桜井くんはピアノに向かって目をキラキラ輝かせながら、熱っぽく語る。

 私はピアノについて門外漢だが、わかることはある。ピアノを弾いているときの彼は、この世でもっとも偉大な表現者なのだ。可憐もあれば、苛烈もある。曲によってさまざまな表情を見せる。楽しみ、おかしみ、苦しみ……悲しい感情もあるけれど、すべては彼が持っている尊い、なくしてはならない感情だ。それらすべてに寄り添っていたかった。

 いつまでも彼の話に耳をかたむけていたいけれど、そうもいかないようだ。先生の指示で私たちは一列に並んだ。列といっても二人いないから、並んでいると呼ぶのもおかしいのだが。

 学年主任の先生が皆の前に出た。

「みなさん、おはようございます。林間学校二日目の朝、わくわくするのはわかりますが、きちんと眠れたでしょうか。今日も誰も怪我をすることなく、元気に楽しい一日を過ごしましょう。えー、では校歌を歌って締めましょうか。今回の伴奏担当はA組の野中早苗さんです。みなさん、壇上に注目」

 教師史上稀に見る簡潔明瞭な挨拶が終わり、先生は元の立ち位置に戻る。私たちはいっせいにステージへ顔を向けた。

 野中早苗が袖から歩みを進める。小さい頃から幾度もコンクールを経験しているはずだが、見知った友達を聴者に据えての演奏は緊張に輪がかかるのか、関節をつながれたようにカチンコチンで、見ているこっちが気の毒になってくる。ちらと桜井くんに振り向くと、彼は娘を見守る親馬鹿なお父さんのごとしで、両手を祈るように組んでいた。私も指を組んで、祈る。こんな気持ちで校歌を歌わなければならないのは生まれてはじめてだった。

 しかし、演奏が始まると、私の祈りなど無用であることに気づかされた。

 校歌のイントロ部分は十秒にも満たない短いものである。ポップスならともかく校歌である。いつもなら気にもとめない十秒間が、この上なく幸せなものに感じられた。

 早苗は、舞台女優だ。たとえるならば、普段は引っ込み思案だが、ステージ上での勘がピカイチで、ひとたび幕が上がると完全にスイッチが切り替わり、役を生きることができる、天性の女優だ。早苗にとって開演ブザーとは己が奏でる最初の一音なのだ。

 私は思わず聞き惚れてしまったが、これは歌わなければ意味がないことを思い出し、皆より半歩遅れて歌いはじめた。早苗の最先端の音楽と自分たちの拙い歌がうまくマッチしているのかはわからないが、一番、二番、三番と歌い終わった頃には、異常な興奮が胸を支配していた。

 椅子を立った早苗は万雷の拍手に包まれながら袖へはけていった。

「えへへ……」

 ステージから下りてきた早苗は私と桜井くんにはにかんだ。いつもの子どもらしい屈託のない笑みだ。今彼女は、引っ込み思案な本来の性格に戻ったのである。

 校歌が終われば今日の予定の説明が軽く入り、学年主任の締めの挨拶で朝の集会は終わる。早苗はさっそく取り囲まれていた。彼女の演奏を聞いたことがない人々は、さっそくサインなんかを迫っていた。

「え~? あたしサインなんて持ってないからさあ、ただ名前書くだけでいい?」

 なんて謙遜しながら結構嬉しそうである。私は早苗の輪から若干離れたところで所在なく立っていた。

 ひとしきり早苗フィーバーが終わると、誰も彼も、ぞろぞろと自分の部屋に戻るのである。そして体操服に着替え、外に集合するのである。体育館の小さな窓だから天気はわからないが、せめて大雨になったとしても通り雨であることを祈ろう。

 そんなことを、考えたり考えなかったりしていた。告白のことも、考えていた。不在の幸田のことも、ほんの米粒程度は考えていたかもしれない。

 とりとめのない考え事の渦は、固まらずに、過ぎ去っていくべきなのだが、そこに小石が投げ込まれた。そいつは渦に飲み込まれずに、逆に渦を支配し、飲み込んでしまった。

 簡単に言うと、私の脳内に電撃が走った。

『――逃げろ! なるべく遠くへ逃げろ!』

 私はこのとき、現実の声だと思い、あたりを見回した。

 でも他に誰も聞いている素振りはなかったし、桜井くんもいつもどおり佇んでいた。早苗もニマニマしながら名前を書いていた。

 けれどもたしかに、聞こえた。

 しかもその声は、空耳にしては、私を動かす、激情のような仕事を担っていた。

 ――逃げなければ。でも遠くといってもいったいどこへ?

 普通遠くといったらこの講堂を飛び出しそうなものだけれど、私はそうはしなかった。ただでさえ急に駆け出すわけだから、あまりおかしい人と思われすぎるのもよくないという理性が働いたのか、それとも外はより危険であるという虫の知らせのせいか。

 目についたのは、たいして遠くもないステージ上である。なんとなく、この場よりは安全だと思えた。

「……桜井くん! 早苗!」

 私はとっさに二人に声を飛ばした。

「ごめん、わけわかんないと思うけど、私についてきて!」

「な、なに? 変なこと言って」

 早苗が不審な目を向ける。

「ほんと、わかんないと思うけど……来て! ほら、桜井くんも!」

 私の表情があまり急迫していたのか、二人とも純粋な性格だからか、すぐにうなずいた。とりあえず二人を上へ逃がし、私も駆け上がる。あと他の生徒たちも……と素早くまわりを見て、一人の少女に目が止まった。

「明日香! あんたも! 早く!」

 いっとう大きな声が講堂にこだまし、皆の注目を浴びる結果となった。

「なに、結衣ちゃん?」

 早苗を囲んでいた女子の一人が、困惑した表情で見上げてくる。

「な、何って……」

 何か説明できないが、とにかく逃げろ。それで理解を得られるほど、甘くない気がした。早苗たちが特別といえばそれまでだけど。

 でも、諦めるわけにはいかない。

「いいから、逃げるの! 外はダメよ! ほら、こっちへ!」

「ど、どうしたんだよ……」

「岡崎、変なもんでも食ったのか?」

 奇異の目が冷たい。

 オオカミ少年は最後、本当にオオカミが来たとき、こんな気持ちだったのだろうか。しかしめげるわけにはいかない。たとえ私に投げかけられた小石がホラ吹きであっても。黙ったまんま食われるよりはマシだ。

「い、いいの! いいから早く……」

 言うことを聞いて、と言い切る前に。

 それは、現れたのだった。

 せめて大雨になったとしても通り雨であることを祈ろう。

 雨を通り越したのだ。大雨も地震も雷も火事も、名前のついた恐怖だから、まだマシかもしれなかった。

 異常災害は意外とお行儀よく、講堂の入り口から入ってきた。

 誰もそれが、何なのかわからなかった。皆が皆、目を白黒させて、それを見守るばかりだった。桜井くんがぼそっとつぶやいたのが、私の耳に入った。

「……フェルト?」

 言葉にされると頭に入ってくる。フェルトでできたぬいぐるみだ。

 二本足の犬、猫、うさぎ、ライオン、カエルなどなど。ちょっと目がずれていたり、耳が曲がっていたり、たてがみが爆発しているのはご愛嬌――ではない。あれらは手のひらレベルの小さいものだから愛くるしいわけで、こんなに大きかったら不気味も不気味である。

 何よりそれがひとりでに歩いているのだから、余計に恐ろしい。

 私の言葉ぶりを見ていただけたらおわかりいただけるだろう。私たちは冷静だった。

 だって、意味がわからなすぎたから。

「……演劇部のゲリラかな?」

 早苗は小声で言った。

 だったらよかったな、と本当に、心から思う。

 フェルト人形は一歩一歩、確実に歩みをこちらへ寄せてくる。徐々に徐々に、生徒たちのたむろする場所へ近づいていき――本性を現した。

 まず聞こえたのは、言葉にしがたいが、ボゴ、というような音だったと思う。あまりに衝撃的すぎて、記憶がむしろ鮮明で、このとき私たちがそちらへ目を向けたときに映された映像は、永遠に忘れられるようなものではない。

 ボゴ、の正体は、象がその長い鼻で、明日香の体をゴルフのように吹き飛ばした音だった。

 彼女は声をあげる暇もなく、無造作に飛ばされて、壁に打ちつけられ、ボールのようにバウンドし、糸が切れたように動かなくなった。

 その刹那、止まっていた時間が動き出した。

「……うわぁ――!」

 誰かの叫び声が引き金だった。空気が弾ける。泣き声、叫び声、わめき声、怒号、それでも足がすくんで一人も動けない。懸命に足を動かし、すっ転ぶものもあった。

「み、みんな!」

 とにかくこっちへ逃げろ、と言いたかったのに、口が針と糸で結ばれたようだった。

 早苗は足腰を崩し、目の焦点が合っていない。

 どうする、どうする……やつらはこちらへ、少しずつ、一歩ずつ向かってくる。このままだと二人目の犠牲者が出てしまう。

 しかしよく見ろ、と、小石が命ずる。

「やつらはまっすぐこちらへ向かうのみだ。無差別な破壊神ではない」

 破壊神では……ない?

「みんな、違うわ!」

 私は声を振り絞った。

「こっちへ上がってきちゃダメよ! あいつらの目的はステージよ! 行く道を開けて!」

「結衣ちゃん……」

「ごめんね、二人とも!」

 結果的に二人を巻き込んでしまう形になってしまったことは、言葉に言い表せないほどつらく、恐ろしいことだった。

 皆、私の言葉どおり道を空けた。私は一度、二人に対して間違いを犯した。それで聞き入れてもらえるか不安だったが、無事皆そうしたし、フェルト人形たちもたしかに誰にも目もくれず、誰も傷つけなかった。

 ただ、目的地を目指す過程での破壊は惜しまなかった。

「……田村、早く!」

「ゆみちゃん、ほらほら!」

 男子も女子も、足腰が立たない人々を必死に救済している。

「い、いぬ、いぬ、いぬ……」

 誰かが犬の足を目前にして、古いラジオのように壊れた。

「いい、二人とも」

 私は言う。

「私は明日香を助けに行く。横から迂回すればやられないわ。二人も行きましょう」

「無茶よ!」

「あいつらはこっちへ向かってるんだから、生き延びるなら下のほうがいいわ」

「でも……」

「ここにいてもやられるだけよ。少しでも道を探さないと」

 目の前の恐怖に身をすくませ、ただただ皆が明日香のようにやられていくのを見ているぐらいなら、怯えてなんかいないで、何にだってすがってやる。よどむ二人に精いっぱいの笑顔を向ける。

「へえ、さすがだな」

 この言葉は、小石ではなかった。

 背後に人がいるとは思わなかったので、私たちはフェルト人形の恐怖を忘れて振り返った。こういうとき、敵から目を離すのは得策ではないのだが。

 幸田が何事もないように、涼しい顔で立っていた。

「あんた、いったいどこに……」

 気色ばむ私を無視して、あいつはピアノの椅子に座った。

「いいから、見ておけ。たぶんいけると思うけれど……得意分野ではないからな」

 あいつは譜面台に、楽譜を置いた。

 そして奏でる音楽は私を突き刺した。

 聞いたことある曲。名前は思い出せない曲。

 明るく楽しい、流れ星のように美しく流れる旋律。この地獄の場にもっともふさわしくない音楽と、生徒たちの断末魔の叫び声の恐ろしいマッチは私を唖然とさせ、混乱へと導いた。

「『アイネ・クライネ・ナハトムジ―ク』……」

 早苗と桜井くんが同時につぶやいた。

「そうだ、モーツァルト……おい、こっちに集中していないで、見てみろ」

 幸田は顎をくいっと地獄へやった。私たちは底知れない恐怖を抱きながらそちらへ顔を向け、同時にあっと声を並べた。

 先ほどまで己が世界の中心ぞと言わんばかりに行進を進めていたフェルトの悪魔が、私たちのステージに行き着く手前で止まっていたのである。それどころではない。犬や猫は丸くなりライオンはたてがみを萎ませ、象は長い鼻を力なくだらんと垂らしている。皆一様に元気を失っていた。

「おい」

 と幸田は演奏をやめずに命令する。

「やらなきゃいけないことがあるんじゃないのか」

 そうだ。私たち三人は互いの顔を見合わせ、決意の表情を固めた。

 そこからが大変な作業だった。早苗と桜井くんが指揮を取り、負傷が少ないものを動かして人々をステージ上や講堂の二階部分のギャラリーへ連れていく。しかし何より優先すべきは、この場でもっとも重たい怪我を負った彼女だった。

 私と保健室の先生は明日香に駆け寄り、そのむごたらしさに顔をゆがめた。壁に思いっきり頭を叩きつけられて気絶し、頭部からは血がダラダラと漏れ、綺麗な顔は赤く膨れ上がっている。骨折も一箇所や二箇所どころではない。担架を探している暇はないので、二人がかりで明日香の肩を組んで引きずるように歩かせる。

 この作業をしている間、講堂の中央では化け物が苦しみにもだえている。地獄の場所の、地獄の仕事。そして何より不気味なのは、その間ずっと流れ続けている幸せな旋律だった。

 音楽に聞き入っている暇はそのときなかったのだが、のちに知ったところによるとこの曲はクラシックとしては短めで五分超しかない。地獄の作業の間、あいつはそれを何度繰り返したかわからない。いわく、十回はくだらないという。一時間いくかいかないかだ。さすがにそんなにかかったとは思えないけれど、そうであってもおかしくないぐらい大変な仕事だった。何より、心をえぐられる。いつ何時化け物たちが音楽から解放されるか知れない中、心を失った友達を救い出す作業は。

 すべての人を避難させたときには、私たちは今まで感じたことのない疲労感に襲われていた。

「これで全部だな」

 幸田は譜面から目を上げない。

「いいか、命が惜しければ俺の言うことを聞け」

 偉そうな言い草だが、誰も歯向かわなかった。

「わかっているだろうが、この現象はまともじゃない。なんらかの理由がある。俺はこれを明らかにするために派遣された」

「派遣って……」

 早苗は唇を震わせながら、

「幸田くんは何者なの?」

「それを話している暇はない――えーっと、チビ助と細男」

 早苗と桜井くんのことだろうか。またまた失礼な物言いであるが、口をはさむものはない。

「おまえらはピアノが得意なんだよな。この曲も弾けるだろう」

 二人は同時にうなずいた。

「今回のコンサートでも弾く予定だもん。そもそもこの楽譜だって、倉庫から持ち出したものでしょ?」

「学校の備品だろ。いいか、おまえたち二人はこの曲を弾き続けるんだ。なるべく止まることなくな」

「えっ?」

 二人は顔を見合わせる。あまりに無茶なお願いに無関係な私が身を乗り出して、

「む、無謀だわ。止まることなくって……二人は機械じゃないのよ」

「大丈夫だよ」

 と私の肩に手を置いたのは、意外にも早苗だった。

「私は中学の夏休み、音楽室を借りてソラブジの練習曲を弾ききった女よ」

 と言われても専門的すぎてナンノコッチャであるが、私は引き下がった。

 いつものぽわぽわした彼女ではない。オペラの主役を任された舞台女優の、幾分前のあの、波のような感動を体験させたあの天才役者の顔になっていたからである。

 ちなみにこれものちに知ったのだがカイホスルー・シャプルジ・ソラブジという妙ちきりんな名前の作曲家は独学で音楽を習い、『超絶技巧百番練習曲』なる五、六時間がかりのエグいピアノ曲を完成させた、ナントカと天才は紙一重を地で行く人らしい。

「ねっ、桜井くんもいけるでしょ?」

 桜井くんも大きくうなずく。幸田も首を縦に振り、

「よし、さっそく取りかかってくれ。あと、チビ」

「野中よ。野中早苗!」

「野中、おまえはこいつと仲がいいんだよな?」

 と顎を向けたのは、私だった。虚を突かれた私は変な声をあげて目を見開いた。早苗も不思議そうに首をひねり、

「う、うん。仲いいけど」

「ものすごく、仲がいいのか? たとえばこいつとラーメンを分け合ったり、すごろくをしたりするのか?」

「うん……?」

 仲良しの基準が独特だが、まあ、早苗とならばべつにパフェを一口もらったり、一緒にスマホゲームで遊んだり、したことはある。

「ならばいいだろう。もうすぐ曲が終わるから、ループのタイミングで変わるぞ。遅れるなよ」

 幸田はラスト一音を丁寧に弾きあげ、早苗は瞬時に場所を変わる。同じピアノだから異常な密着具合だが、舞台女優の顔の早苗は気にする様子もなかった。幸田は椅子を早苗に譲って立ち上がり、腕を回したり首をコキコキ鳴らしたり、手をグーパーしている。

「あ、あの……」

 私はおずおずと手を挙げた。

「これ、生演奏じゃなきゃダメなの? スピーカーとか、ワクチューブの音源とかじゃダメなの?」

「無理だ。俺が派遣元から聞いているのはあいつらを止める手段が『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の生演奏……でなくとも、とにかく音質がよくなければならないことだけだ。音が割れないいいスピーカーは探したけれどどこにも見つからないしな。くそっ、まさか講堂でお披露目とはな」

 説明を施すよりもさっさと調べにかかりたいらしく、幸田はちょっとイライラしているようである。

 さて、早苗たちはピアノに取っかかるとして、私はいったいどうしよう。まわりを見回すとぐったりする悪魔ども、ピアノを奏でる早苗、横たわる生徒たち、うずくまる友達――そして保健室の先生の手当を受けながら、いまだ意識が戻らない明日香。あらためて異常すぎる状況。何かしたい気持ちはあっても、何をどうすればいいのか頭が回らない。さっきはあれだけ勘が働いたのに、あの声はいっさい応えてくれない。

 すると、

「おい。おまえ、一緒に来い」

 幸田の声である。

「…………」

「聞いてるのか。おまえは、俺と一緒に来い」

「なんで」

「いいから来るんだ。ここのことは野中たちに任せろ。さあ、ぐずぐずするな」

 逆らわせる気力は一手に奪われた。昨日の昼頃、倉庫の前で突きつけられたあの言葉を私は耳底に聞いていた。

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