第3話

 南高校二年A組出席番号四番、幸田伊織。

 二年に上がった春に遠くの学校から転入してきて、私たちのクラスの一員となった。

 女子も男子も、全員が抱いた最初のイメージは「オオカミのような人」だったと思う。

 かっこいいけれど近寄りがたい。よくよく見れば優しい目をしているのに、妙につり上がっているから鋭く思える。また性格もオオカミ気質で、誰ともつるまない、しゃべらない。授業をサボる、そしてお昼はいつもカップ焼きそばだ。焼きそばへのこだわりは尋常ではないようで、変なマイ箸を携帯している。

 常軌を逸した行為の数々から、ゴールデンウィークを迎える頃には腫れ物扱いを受けはじめ、「イケメンだがなるたけ関わりたくない」という宙ぶらりんなポジションに落ち着いた。五班に加入したのも余りものだったからだ。

 残りものには福があるとはいうけれど、この残りものは手に余る。

「でも悪くないんじゃない?」

 綺麗な黒髪をシャコシャコ洗いながら早苗は言う。

「透くんと幸田くんなんて両手に花でしょ」

「他人事みたいにさあ……あんたも同じ班なら私の気持ちわかるでしょ」

「あたしはべつにいいけどねえ。それより告白はいつすんの?」

 唐突な質問に手元が揺らぎ、シャワーの水が喉まで一気に入ってきて、むせ返ってしまう。早苗は意に介さず泡を流しながら、

「なんのために透くんを連れてきたと思ってんのさ」

 たしかに、今回桜井くんと同じ班になったのは早苗の手引きなのだ。想像してもらえるかと思うが、桜井くんなんぞ誰がどう考えたって班のメンバーに入ってほしいではないか。各班の間で熾烈な桜井透獲得合戦が繰り広げられるはずだったのだが……早苗が出し抜いた。ピアノの練習の際、メンバー入りを頼んだのだ。しかも彼女いわく、目を見張るほど首尾よく、自然な感じで。

 桜井くんも否はなかった。

「頑張ってもらわないとあたしの手腕が生かされた意味がなくなっちゃうからねえ。チャンスはいくらでもあるよ」

「いくらでもはないでしょ」

「そう?」

 早苗はシャワーを止めると、広々とした浴槽に浸かった。私もその隣に座る。

「今日のオリエンテーリングだって最後のスタンプを探す間、あたしがトイレで抜けたでしょ」

 あれ、気をきかせたつもりだったのか。私はあきれる。少女漫画やドラマの知識だが、告白というものはムードが必要不可欠である。学校の屋上とか、クリスマスのイルミネーションとか、今回のイベントでいうならば最終日のミニ花火大会なんてうってつけだ。そう考えたらオリエンテーリングの最後の関門、雑木林なんて最悪ではないか。

「あんなところで告白したら成功するもんもしないでしょ」

「そうかなあ?」

 早苗はかわいらしく首をかしげる。この子も告白を受ける経験はそれなりに、少なくとも私よりは多いはずなのだが、興味がなさすぎてそこらへんの恋に恋する少女よりウブなのだ。

 それに私はどういうわけだか、ああいう雑木林とか林道とか、木に囲まれた、今にも鹿とか猪とか、野生動物が飛び出してきそうな場所だと、萎縮してしまい、体の動きがぎこちなくなってしまうという変な性質を持っている。自然が嫌いなわけではないし、林間学校もとても楽しみにしていたのだが、それはメインの場所がだだっ広い高原であることと、友人たちが一緒であるから中和されているだけなのである。一歩奥に入り込むともういけない。瞬間的なものだから生活に支障はきたさないけれど、告白みたいなデリケートなものなどおこなえる精神状態ではなかったのだ。

 私たちは浴場を出た。

 部屋に戻る道中にロビーを通りがかった。早苗は自販機に寄ると駆けていった。私は喉がかわいていなかったので大窓から外の芝生を眺めながら待っていたが、窓に中の様子が映って、思わず振り返った。

 気づかなかったが、ロビーのソファに桜井くんがいたのだ。

 浴衣姿の彼は新鮮だった。そこにヘッドホンをつけ、指を動かしているのはいつもどおり。彼は動画投稿サイト『ワクチューブ』でピアノ動画を見ながらエアで弾くのが癖なのだ。風呂上がりの若干はだけた胸元が、いつもならなんてことない指の動きとマッチして、名状しがたい色気を醸し出している。私はなんとなく見とれてしまっていたが、次の瞬間には目を逸らしてしまった。

 早苗だ。

 後ろから抜き足差し足で近づいていって、ヘッドホンを外してしまう。桜井くんはびっくりしたように肩を強張らせたが、振り返って正体を知ると照れくさそうに微笑んで、動画を見せた。早苗もそれを見て、楽しげにしゃべっている。

 たぶん早苗からすれば、ただの友達としての戯れで、ピアノ演奏者同士でのプロというほどではないが人前で弾く役を任された同士のやり取りで、深い意味はないのだろう。

 それでも彼女――浴衣姿だから普段隠れているスタイルが浮き彫りで、視線を集めている彼女――と、彼のシーンは絵になって、誰から見ても、単なる友達以上の関係にしか見えないのは事実なのだ。そして桜井くんの頬が上気しているのは、ただ風呂上がりだからというだけではないのは、明らかなのだ。

 早苗は満足げに戻ってきた。

「ほら、結衣ちゃん。喉かわいてないっていうけど、お風呂から出たあとはちゃんと飲まないと脱水症状になっちゃうよ」

 と私の好きなブランドのアップルジュースを差し出す。

「ありがとう」

 私は受け取った。しょうもない嫉妬心はジュースとともに流し込め――と一気に飲み干したが、飲んでしまえば体に残ってしまうという当たり前のことに気づいたのはそれからすぐあとだった。

 部屋に戻って、早苗は自分のジュースの残りをしまおうと冷蔵庫に飛びついたが、あることに気づきベッドに向かって声をかけた。

「ねえ、明日香ちゃん。このオレンジジュース明日香ちゃんの? あたしも一緒のオレンジジュースだから、ごっちゃになっちゃうね」

「ああ……じゃあ名前、書いといたほうがいいね」

「あたし書いとくよ」

 早苗はリュックを開けてペンを取り出した。

 この部屋は三人部屋である。私と早苗、そしてベッドにかけて本を読んでいる三好明日香だ。セミロングの髪と眼鏡が堅実な印象を与える、我がA組の学級委員長である。

「明日香、それ『ヴィアベル』?」

 あたしが聞くと彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「うん。夏コミで買って、まだ読み終わってなかったから。買いすぎると幸せだけど苦労するよね」

 彼女は委員長という肩書きと真面目然とした見た目を持ちながら、朝の読書の時間に同人誌を読むような、親しみやすい少女なのだ。私は明日香のベッドに近寄り、本を覗き込んだ。

「それ、やっぱりマチガル?」

「もちろん。結局王道にハマっちゃうのが自分らしいって感じがするよ。まあ、リバもありだけど。あっ、例のマチベル本、見た?」

「あったりまえよ! おつかいありがとう、もらったその日に読んだわ。結局マチベルしか勝たないのよねー」

「結衣ちゃんらしいねえ。あっ、今度のクレセントランドのコラボ、チケット重複してるの、どうする?」

「二人分が二回でしょ? 明日香は一回しか無理なんでしょ」

「用事があるからねえ」

「一回分もったいないわねえ」

「言っとくけどあたしは興味ないからね!」

 早苗は私の圧を敏感に感じ取ったらしい。『ヴィアベル』をまったく一度も読んだことがない日本人は今や珍しいレベルなのだが、早苗らしいといえばらしい。

 私と明日香はしばし漫画談義に花を咲かせ、早苗はベッドに寝転んで早々にすうすう寝息を立てる。私も十一時を回る頃には布団にもぐったが、明日香はもう少し起きておくと言って、ベッドライトを小さくつけていた。

 しかし――

 どうも、眠れない。

 枕が変わったぐらいで眠れなくなるほど繊細ではないはずだ。私は布団をかぶったまま怠惰なイモムシのように左を向き、右を向き、上を向き、を繰り返して、やがて疲れて、左向きの体勢に体を落ち着かせた。それでも眠れない。

 理由はなんとなくわかっている。目をつぶると浮かんでくるのは、今朝の出来事。桜井くんの居眠りではなく、オリエンテーリングではなく、早苗が余計なおせっかいをかけた雑木林でもなく、第一の関門のとき。倉庫の外、太陽が輝く下、焼きそばのにおいが鼻孔をくすぐる中、近づいたあいつの顔。

 男子にちょっと顔を近づけられただけで、何を眠れなくなっているのかと自分でも悲しくなるが、あのときあいつの視線に存在したのは、男と女のナントカとか、そんなわかりやすいものではなかった気がしてならないのだ。その正体がいかなるものか、気になってしまっているだけなのだ。そう、そうに違いない――

 現金なものでごろごろ寝返りを打った疲れが効いてきて、私はいつの間にやら眠りの世界に旅立っていた。夢の内容は、見たのだと思うけどあんまり覚えていない。しかしうっすらとは記憶にあるから、きっと深い眠りではなかったのだろう。

 それを証拠に私は朝日が差し込む前に起き上がった。時計を見ると五時前だった。自宅ならば意地でも二度寝してやる時間だし、頭もまだぼうっとしていて、眠り足りていないことは私が一番よくわかっていた。

 それでも眠る気になれなかったのは、私の左隣のベッドに、同じく起き上がっている人を見つけたからだ。こちらに背中を向けている。

「明日香」

 私は芸術的な寝相の早苗を起こさぬよう、小声で投げかけた。明日香はゆっくりと振り返った。手には同人誌、目にはくっきりとしたクマ。

「まさか、寝てないの?」

「うん……起こしちゃった?」

「そういうわけじゃないけど……」

 秋の夜長というし、私も尊きマチベル本に夢中になって時間を忘れ、気がつけば朝の光とご対面という経験はないわけではない。けれども今日は話が違う。

「今日も動かなきゃいけないんだし……戦利品が気になるのはわかるけど睡眠不足は大敵よ」

「それはわかってるんだけどねえ」

 明日香はしおりもはさまず本を閉じ、疲れた笑顔をこちらに向けた。

「ねえ、結衣ちゃん……よかったら、ちょっと付き合ってくれる?」

 断る理由はなかった。明日香の一言で私たちはそっと部屋を抜けた。誰もいない長い廊下を明日香を先頭に二人、つかず離れずの距離を保って歩く。早朝の客室は宿泊者の邪魔をせぬようにか、従業員も通りがからないため、本当に二人っきりだった。

 中庭に出る。新鮮な芝生に綺麗なベンチが心を軽くさせる。加えて朝山の冷たい空気が全身を包み込んで、私は思わず空を見上げた。今朝の空はまだまだ機嫌がいいらしく、曇る気配は微塵もなかった。重たい頭は楽しげな空に呼応するようにどんどん覚醒していき、今だったら一〇〇〇メートル走だって余裕で走り抜けられそうだった。

 私たちはベンチに並んで座った。

 明日香は自然にカールした美しいまつげを重そうに持ち上げ、虚空を眺めている。空ではない、建物ではない、木ではない、ましてや私の顔ではない。何も見えていないようだった。

 私はここに来てようやく気がついた。彼女は本のために眠る機会を逃したのではなく、意図的に眠らなかった、もしくは眠れなかったのかもしれない、と。

「明日香……」

 私はおずおずと声をかける。

「何かあったの? 誰にも言わないから、私でよかったら遠慮なく話して」

「……ごめん」

 明日香はこちらに顔を向ける。

「べつに、なんでもないの。ちょっと朝の散歩に付き合ってほしかっただけ……ごめん」

 二度も謝られてしまったが、逆にそのことがなんでもないことないという事実をほのめかしている気がした。本当はすぐに放ってしまいたいほど重たいのに、なめられたくないからって無理をする小学生のように。

 しかし言いたくないというならば、無理に聞き出すこともはばかられた。かといって何もしゃべらないのも居心地が悪くて、私は必死に話題を探した。

「……そういえば。この髪飾り、ベルベットの髪飾りと似てると思わない?」

 私は自分の髪飾りを取って、手に乗せた。明日香は目を大きく開いて、

「……本当。なんで今まで気づかなかったんだろ」

「でしょ? 私はしないけどコスプレにも問題なく使えるレベルじゃない?」

「そうだね」

 明日香は手に取って、あらためてよく見つめた。やっぱり結局私たちは『ヴィアベル』でつながっているのだ。このときはじめて、明日香に乗っかった重たい荷物が一時下ろされる音がした。

 私はお風呂を除く四六時中、黄色い星の髪飾りをつけている。大したサイズではないから学校からお咎めを食らうことはないので、堂々とお洒落を楽しめるのがメリットだった。とはいえ私は根がセンスがあるほうではないから、アクセサリーといえばこれぐらいなのだけれど。

 ちなみにベルベットというのは『ヴィアベル』のヒロインである。そもそも私はヒロイン以前に『ヴィアベル』という作品自体の説明を省いていたが、あまりにメジャーな漫画だから説明不要感があったのは否めない。とはいえ早苗のように興味がない人も一定数いるだろうから、いちおう簡単な概要を載せておく。

 舞台は海の国。地上世界の生活を子どもたちに教えている教師の青年マーチアと、おっちょこちょいでかわいらしい一国の王女ベルベットがひょんなことから出会い、「ヴィアベル」と呼ばれる願いが叶う渦を探す旅に出る海洋冒険系ラブコメ作品である。主要人物はマーチアとベルベット、そしてベルベットのメイドで一番の親友のリサ、王家の剣士のガルディア。二次創作も活発で、私はマチベル派だが明日香らそっち系の人の間ではマチガルが覇権を握っている模様。――いやいや。悪い癖が出た。

 話を戻そう。

「結衣ちゃん、これどこで手に入れたの? もらったの?」

「たぶん……不思議なもので、あんまり覚えてないのよね。お母さんだったかもしれないし、いとこのお姉ちゃんかもしれないし、友達かもしれないし、人にもらったことだけは事実なんだけど……まあ、昔から身につけてるから、忘れちゃってるだけよ」

「へえ……」

 明日香は名残惜しそうに私に返した。私は髪につけ直すと、スマホで時間を確認した。五時半だった。

「……そろそろ戻らなきゃいけないかも」

「あっ、そうだね。ありがとう、結衣ちゃん。おかげで目が覚めた」

 明日香はまだ荷物を下ろしきれていない様子ではあるが、あくまでも話す気はなさそうだった。しかし私は追求せず、うなずくだけにする。

 そろそろ涼しいを通り越して寒さを覚えてくる。立ち上がり、建物内へ戻ろうと一歩踏み出した――ところで、私は何気なしに周囲を眺めた。朝日を真横に見るような、高山である。せっかくなら目に焼きつけたかったのだが、当然ながら中庭だから周囲を建物の壁に阻まれて、拝むことは叶わなかった。ところが見渡している途中、視界の隅におかしなものが入ってきて、ふとそちらを見上げた。

「……明日香」

「何?」

「あれ、幸田じゃない?」

 私は上のほうを指さした。明日香も指の方向に視線を向けていき、問題のものが目にとまったところであっと声を漏らした。

 屋上である。宿泊者は立ち入り禁止の屋上である。見たところ転落防止のためか柵が張り巡らされているようなのだが、幸田は当たり前のように柵から出て、猫一匹ぐらいしか通れなさそうなギリギリのスペースにいる。東の空に顔を向けている。

「……あいつ、何やってるのかしら」

「結衣ちゃん、よく幸田くんだってわかるね……」

 明日香は目を丸くさせるが、なに、そう特別なことではない。私は特別視力が優れているわけではないが、ふれあい館は三階建てで、とりたてて低層ではないがすこぶる高いわけではない。よくよく目を凝らしたら見えなくもないのである。

「馬鹿と煙は高いところが好きっていうでしょ。あんな馬鹿、一人しかいないわ」

「そ、そうかな……?」

 あそこからならばなるほどたしかに朝日は独り占めだが、だからって規則を破って、なおかつ命の危機を冒してまで太陽を拝みたいとまでは到底思えなかった。やはりあの男は理解不能だ。

 しかし性懲りもなくよみがえってくる昨日の記憶。

 私は赤らむ顔を明日香に見られないようぶんぶん振って、少し大股で建物の中に戻っていった。

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