第2話
ここ久実乃の大山への林間学校は南高校二年生、秋の恒例行事だ。T県なので私たちが住むO県生天目市からはバスで三時間超と身が削れる距離だが、T県有数の観光名所なので修学旅行に並ぶ一大行事として君臨している。この高原は標高五〇〇メートルの場所に位置し、残暑残る九月でも肌寒いが、そのぶん空気が澄んでいて気持ちがいい。ただ高地だから気まぐれに天気が変わるのが難しいところで、本来の旅のしおりどおり物事が進むが、それは神様の気分次第というところだった。
先ほどまではご機嫌斜めだったらしいけど、お菓子でももらったのか、百円拾ったのか、もうおひさまが勢いを盛り返している。おかげで一日目の目玉、オリエンテーリングは無事おこなわれた。
「早苗、そっちどう?」
「うーん、ないなあ。ほんとにここで合ってんの」
早苗は舞うほこりに顔をしかめながらぼやく。
「たぬきの暗号なんて初歩の初歩でしょ。間違ってるわけがないわ」
「ほんとのほんと?」
早苗は少し苛立っている様子だった。
今回のオリエンテーリングはスタンプラリー方式で、暗号を解き答えの場所に行くと印鑑ケースが置いてあり、中に百均のかわいいスタンプが入ってある。規定の数を集めたらクリアだが、チームごとに暗号も隠し場所もスタンプの種類も別々という気合いの入れようで、貸し借りは不可能だ。
「絶対ここなのよ……」
私たち五班は最初の関門で苦戦していた。ふれあい館の講堂の倉庫だからやたらめったらものが多い。施設の備品だけでなく、南高校が今回の行事のために持ち込んだアイテムが事前に搬入されて保管してあるのだ。ドレスに譜面台に楽器ケースに……何に使うかというのは追い追い。
「あっ」
早苗が声をあげたので私と桜井くんは揃ってそちらを向く。
「見つかった?」
「ほら、これ!」
早苗はアコーディオンのように並んだファイルの束の中から一冊の分厚いファイルを掲げる。
「モーツァルトの『四手のためのピアノソナタ』! これ明日弾くやつだあ」
「んもう、そんなん見つけてる場合じゃないでしょ!」
私はつい声を荒らげてしまった。早苗は小さくなってごめんとつぶやく。この子は子どもっぽいのが長所なのだが美点はときに裏目に出る。空気が読めないところがある。
かといって子どもっぽいという点において、私も人のことを言える立場ではない。今回の大声にはスタンプを見つけなければならないのに楽譜にかまけている場合ではない、というだけではなかった自覚がある。
「まあまあ二人とも……」
見かねた桜井くんがなだめに入る。
「喧嘩しないで……ほら、灯台下暗しというだろ。ゆっくり、落ち着いて探せばどこかに必ずあるさ。早苗ちゃんも、楽譜置いて」
「はーい」
早苗は私の顔色をうかがいながら楽譜を直した。一度怒られたら気を使える子。
逆に私は今度は桜井くんのほうに腹を立ててしまう。そりゃ何も伝えていないこっちが悪いのはわかっているのだが。
早苗ちゃん、って呼んでるんだな。
「結衣ちゃん……」
見ると早苗が目をうるませていた。無意識のうちに怖い顔をしてしまっていたらしい。私は首をほこりが飛ぶほどぶんぶん振った。
「いや、なんでも。それよりスタンプ……そうね」
私は楽譜の蛇腹を見つめた。
「そういえば、ここはまだ探してないわね」
私は楽譜ファイルをひとつひとつ持ち上げて、脇によけていく。ソナタとやらだけではない。モーツァルトやらバッハやらシューベルトやら私でも聞いたことがある名前と、聞けばわかるだろうけど題名だけじゃわからない曲名がずらり打たれている。絶対明日の持ち時間の間には消化できないと思うけど。
私は調べていき……やがて、ファイルがもっこりしているのに気づいた。急いで開くと中には印鑑ケースがはさんであった。
「あっ、あった!」
歓喜の声に二人も寄ってくる。開けるとハワイアンなウミガメの百均のスタンプ。その小さな入れ物を、私たちは宝物のように目を輝かせて眺めていた。はさんであったファイルは、
「『南高校校歌』……あんたこれも弾くの」
「決まってんでしょ」
早苗は小さく見える胸を張る。
「ちなみに明日の朝はあたし、最終日は透くん。帰宅部なのにねー」
「はは、今さらだけどね」
桜井くんは頭をかく。
合唱部で伴奏担当の早苗はまだしも、桜井くんも幼い頃からピアノ経験があるからと今回の朝集会での校歌の伴奏とピアノコンサートに選ばれている。早苗のピアノもなかなかのものだが桜井くんにいたってはもはや世界レベルである。今やワールドワイドに名を馳せるのはピアノコンクールだけではない。男子たちが動画投稿サイトに桜井くんのピアノ動画を載せたところ、バズりにバズったらしいのだ。
コンサートというのはさっき追い追いといったあれで、林間学校の目玉のひとつである。演劇部のミニ芝居、吹奏楽部の演奏、軽音部のライブ、合唱部の歌、そして早苗と桜井くんのピアノ演奏会。この四つが林間学校最終日に組み込まれているのだ。演者からしたらたまったもんじゃないだろうと外部の私は思うが、いやその実学生コンクール並みに大事なイベントらしい。なんでも今回の出来が来年度の予算に関わるんだとか。だとしたら帰宅部の桜井くんはどういうモチベーションなんだろうか。
――やっぱりあれかな。
一人でしんみりしていてもしょうがない。私たちは見つけたスタンプを大事に押した。早苗はラジオ体操皆勤賞を目指す小学生の瞳でうっとりカードを眺めていたが、ふと倉庫の出口のほうを見た。
「ねえ。幸田くんにも渡したほうがいいんじゃない」
「なんであんなやつ」
私は露骨に顔をしかめる。
「どこにいるかもわかんないのよ」
「でも、メンバー全員コンプリートしないとたとえ一番乗りでも失格って先生言ってたよ」
折れるしかなかった。
仕方ない。呼びに行くという桜井くんを制して私は倉庫を出た。桜井くんは優しいからやんわり注意するだけに違いない。しかし私は腸が煮えくり返っているのだ。あの男、人に探しものを丸投げして自分はサボるとはなんという狼藉か。
すっかり上機嫌のおひさまは光に慣れない顔にまばゆく突き刺さり、思わず顔を下にした。目をしばたたかせながら頑張って周囲を確認すると……いた。講堂の外壁にもたれかかって、また派手な箸で焼きそばをすすっている。私はムカムカが増幅して、わざとらしくどしんどしんと歩み寄っていった。地面が土だから音なんて鳴らないのだけど。
「ちょっと、幸田」
幸田は口いっぱいに焼きそばを頬張ったまま、こちらを見た。いや、見ていたのか見ていないのか、私に気づいているのかいないのか、不明瞭なぐらいとろんとした顔だった。
セットしていないのかそういうヘアスタイルなのか、猫のような癖っ毛。鋭いんだか丸いんだかな瞳。どっちつかずな男だが桜井くんに引けを取らない容姿の良さと顔面力を打ち消す行動の奇怪さだけは誰もが認めるところである。
やつは私の方向に虚ろな瞳を向けたままびくともしない。無性に腹が立って、
「幸田! あんたがサボってる間にスタンプ見つかったわ」
「……」
「ほこりまみれになりながら探したのよ」
「……」
「……」
「……誰だっけ」
これは唖然とするしかなかった。
しかしここで折れると私の負けだ。
「岡崎結衣よ。南高校二年A組出席番号二十二番の岡崎結衣よ」
「南高校二年A組出席番号四番の幸田伊織だ」
「……なんの時間なのよ!」
折れてしまった。
この世にこれほどまでに不毛な会話が繰り広げられたことが果たしてあっただろうか。二人の間に恨めしいほど爽やかな秋の風がぴゅうと吹き抜けた。
「で、何が言いたいんだ」
「なんでそっちが話を進める側なのよ。あんたのほうが変なんだから話の主導権は私であるべきでしょ」
「そんなことどうでもいいだろ」
たしかにそうだ。これ以上無駄な会話を重ねるべきではない。幸田に正論を言われるとは。私は立ちに立ちまくった青筋を、顔をパンパン叩いて鎮める。
「スタンプが見つかったから押してほしいのよ。全員押印してないとクリアしたことにならないの。持ってきたから、カード出して」
私は亀のスタンプを印籠のように掲げた。幸田は首をひねりながら頭をかきむしり、ため息をついた。
「そんなことか」
「大事なことよ」
「まあ、それぐらいなら協力するさ」
幸田は焼きそばを地面に置いた。意外なほど素直にスタンプを受け取って、ポケットからよれよれしわしわのカードを取り出した。押しやすいように引き伸ばすちょっとの手間も惜しみ、押印が終わるとまたよれしわのまましまう。
用事は終わった。
「貸しができたな」
「借りてないわ」
「今度返せよ」
意味がわからない。
「あのね、他の女子があんたのことどう思ってるか知らないけど、私はあんたとの関係なんかリーダーと班員以上に広げたくないんだけど」
「そうかな」
とやたら緊迫感のあふれた低い声でつぶやいたかと思えば、幸田は――一歩歩み寄り、私との距離が一センチ以下。ギクッとして、後ずさる間もない。首を上げればやつの顔が、端正に整った顔が手を伸ばせば届くほど近い。
「俺はそうとは思わない」
返せなかった。
体が動かない。
「じゃあ、スタンプ集め、頑張れよ」
やつが踵を返し、地面に置きっぱなしの焼きそばを拾い上げて立ち去り、見えなくなるまで、動いたのは風に吹かれる髪と、バクバク打ちつける心臓だけ。血流も脳の回転もすべて止まり、やっと動けるようになったときには私はへなへなと崩れ落ちていた。
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