真昼の小夜曲

かめだかめ

第1話

 私の名前を呼ぶ声がする。

 何も見えないけれど、相手がどこにいるかわかる。そう遠くではない。近く。とっても近く。

 頬に虫が這ったような感触。ただ真に虫ではないことは察したので、シカトを決め込む。声はまだする。

 ……それにしてもずいぶん大きい声だ。腹の中で響く。いくらなんでもはた迷惑だ。

「――ちょっと、早苗。静かにしてよ」

「静かだよお。目つぶってるから大きく聞こえるんでしょう?」

 野中早苗は口をとんがらせる。

 クラス、いや学校きっての童顔である。二重の大きな瞳は庇護欲をそそられるが、高校二年生にもなってさすがに童顔にもほどがある気がする。ただでさえ幼い顔をしているのにそこにふんわりしたボブカットとやんちゃなアホ毛がプラスされるから余計際立つのだ。そして行動も子どもっぽいから始末に負えない。このアホ毛で人の頬をくすぐり攻撃してくるのだ。

 小学生に間違われた経験は幾度もあるらしいし、私もその場面に遭遇したことがある。ただ海やプールにいるときは別。小学生にしては発育しすぎているからだ。着痩せするタイプなのである。

「結衣ちゃん、ここどこだかわかる?」

「バスでしょ」

「よかったあ。なんだかうなされてたからさあ、遅刻する夢でも見てたのかと思ったよ」

 心底嬉しそうに胸を撫で下ろしている。私はそんな彼女をおぼこい一人娘のように見つめた。

 たしかに遅刻の夢はたまに見るけれど、今日この日までうなされていたらたまったものじゃない。もったいないし、何より縁起が悪すぎるからだ。今日は私にとって一世一代の勝負日なのだ。

 私は右斜め前の席を見た。彼はくうくう気持ちよさそうな寝息を立てている。眠っていてもヘッドホンは相変わらずだ。騒音防止効果もあるのかもしれない。

 そして彼の隣――のことを思い浮かべて私は深くため息をついてしまい、また早苗に心配されてしまった。私が悪夢を見るならば間違いなくあいつのせいだろう。

 せっかくの眼福タイムだったのに嫌な気持ちになってしまった。切り替えて早苗としゃべっていると、先生が呼びかけた。

「みんなー、高原に入ったぞー」

 私たちは窓の外に釘付けになって、わあと歓声をあげた。

 これまでずっと、右も木、左も木、ルームランナーを走っているような虚無感に襲われていたバスの前に開けた、あふれんばかりの緑色。芝の色と草の色、山の色、すべて違う緑を持っている。そしてその中にぽつりぽつりと見える茶色。馬だ。白と黒。牛だ。頭上には金ピカに燃える太陽と、吸い込まれそうな青空だ。

「すごいねー……」

 早苗があらためてつぶやく。

「こんなところがあるんだねー」

 早苗が世間知らずなのではない。都会っ子の私たちには緑に包まれること自体が新鮮な体験なのだ。

 バスはゴトゴト進み、大きな木造の建物の駐車場に停まった。『久実乃ふれあい館』と銘打たれた、雨ざらしでくすんだ看板が立っていて、その下に油性ペンで『南高校二年生御一行様』と達者な文字で書かれている。

 私たちのバスがすっからかんになった途端、急に青空に灰色の雲が覆いかぶさって、ザーザー降りになった。皆あわててふれあい館の屋根の下へ。本来だったらこのあとB組、C組、D組のバスも到着して、建物の前に整列し点呼後入る予定だったのだが、下車したものからぞろぞろ建物に入り、屋根の下のスペースを空けて、少しずつ入館することになった。

「さっきまでお天気だったのに、山の天気は変わりやすいってほんとだね」

 早苗は感慨深そうに言った。ざわざわする生徒たちを担任の先生が手を二度叩いて静かにさせる。

「A組、全員いますね。では班長はメンバーを整列させてください。揃ったところから座りなさい」

「ほら、班長」

 と早苗が小突いてくる。おもしろがっているみたい。私は立ち上がって、「五班、ここです」と手を振った。

 すぐに気づいた桜井透くんが寄ってきた。私は胸が高鳴る。彼と同じ班であるという事実があらためてこみ上げてきたのだ。早苗はにこにこと、

「透くん、びしょ濡れじゃない」

「ははは……荷物がなかなか見つからなくてね」

 桜井くんはふにゃりと笑って頭をかく。私は胸が歪に鳴るが、そんな場合ではないのに気づく。

「あれ、幸田は?」

 言われて二人はキョロキョロする。

「おや、さっきまでいたんだけどな」

「どっか行ったのかなあ」

 まったく、初っ端から世話の焼ける。私は先生に声をかけた。

「先生、幸田くんがいません」

「またですか。仕方ないですね。とりあえず君たちは座っておきなさい」

 先生が他の教師たちに報告すると、みんなあきれながらも方々に散っていく。まったくこっちが恥ずかしい、と頭を振っていると四班の班長の女子が声をかけてきた。

「どうかしたの?」

「いつものことよ。幸田がいないんだって」

「またあ?」

 彼女は素っ頓狂な声をあげる。これでおわかりだろう。あいつが人に迷惑をかけるのは周知の事実なのだ。

「こんなときにまで? まったく、顔はいいのに」

「うん。見てない?」

「あっ、あたし見たよ」

 と手を挙げた女子がいた。

「バス降りてすぐお土産屋さんに行ってたよ」

「土産?」

「うん」

「トイレかな?」

「そうかも」

 いくら幸田でも雨の中、人の輪を離れて土産を買いに行くとは突飛である。私たちはそう思い込み、いちおうのところトイレ説に納得したのだが。

「幸田くん、せめてあとにしなさい」

 先生に連れられて戻ってきた幸田に私たちは仰天した。

 あいつは売店で手に入れたのか、カップ焼きそばをすすりながら、何事もなかったように五班の列に座ったのである。

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