第二章 お宮入り道中 其ノ一

 水の入った木桶を抱えた小鉄がふと我に返ると、少年はいなくなっており、代わりに例の若い兵が小鉄の前に憮然ぶぜんとして立っていた。

 土間へ連れて行かれ、粥を与えられ、風呂に入れと命じられ、垢と泥と、傷に気をつけながら髪にこびりついた血を落とし、こざっぱりとした木綿着を与えられ、屋敷の奥の間へと連れて行かれた。

「失礼いたします」

 兵がするりとふすまを開く。

 部屋の片隅には、小さな行灯あんどんが一つきり。照らされているのは、脇息きょうそくにもたれる先ほどの少年である。

 火の光は、月明かりと違い、影を克明こくめいに映し出す。

 身のほとんどが影におかされつつも、揺れる光に照らされた顔の側面は、この世のものとは思えない壮絶なまでの美しさだった。青白く痩せた頬に、長く濃いまつげが影を生む。一度いちどまたたくのを見てしまえば、目をそらすのは難しい。鼻梁びりょうはまっすぐで高すぎず低すぎず、いかつくはないが女性的でもない。その下のみずみずしい唇は、どこか物憂ものうげに、緩く閉じられている。

 まとった寝衣しんいは片方の肩からずるりと落ちていて、すそからは膝から下のすじった足が投げ出されていた。

「また、そのようなお姿で――」

 兵が慌てたように少年に歩み寄り、寝衣を調え、床に落ちていた着物を羽織らせる。

 わずらわしそうな顔をする少年に兵がたずねた。

「九条殿がお着きになりました。この者は、いかがしますか」

 少年が兵のからだしに小鉄に向かって顔をのぞかせた。

「そこに座っていろ」

 わずかに眉をひそめた兵に、少年が言う。

「いいでしょう、春海のあにさま。外で飼うけれど、出入りもさせるから九条に見せる」

 春海と呼ばれた兵は、小鉄に部屋の隅にいるようにとあごで示した。

「飼うのが外では、逃げやしませんか」

「逃げたなら、あにさまが斬り捨ててくれるだろ」

「それはもちろんですが……」

 答えながらも、春海の無表情には再び不機嫌さが加わる。

「――失礼します……」

 柔らかく、しわがれた声がして、襖が開いた。

 細身の小さな老婆がすっと入ってくる。小さな道具入れと、盆に載った茶器をひとそろえ持っていた。

音由おとよし様、お久しゅうございます」

 老婆が深々と頭を下げた後、わずかに、不自然な沈黙があった。返事をするべき音由と呼ばれた少年を盗み見ると瞳に、不穏ふおんな色が宿やどっている。小鉄には憎悪の色に見えた。

 しかし音由は、目の色とは裏腹に無垢むく声色こわいろで答える。

「……九条、よく来た。くるしゅうない――で、合っている?」

 沈黙は一瞬にして、言葉を探していたつたなさに変わる。

「ええ、ええ、上手にお返事されました。ですが、そのお姿はいけません」

 上半身は先程より整っているものの、片方の膝を立て、その上に顎を乗せているので、挨拶の言葉と姿がまるで一致していない。

「九条の他には春海のあにさまと小鉄しかいないんだから、いいだろ」

 九条が首を振る。

「いないのだからよいでしょう」

「……いないのだから、よいでしょう」

 そっくり真似をして返した音由に、九条は再び首を振る。

「いけません。だらしのないお姿の時に、陛下がお渡りくださったらいかがします」

「……どうせ全てお脱ぎになるのだから、陛下も今宵は早く……お……おくつろぎになりませんか、と聞いてみる」

「おうかがいしてみる」

「……おうかがいしてみる」

碧亥あおい陛下は、ねやで全て脱いでしまわれないそうです。ことの最中も必ず一枚、おそでを通されたままだとか」

 九条は春海が気持ちだけ整えた着物をしっかりと着せてゆく。音由は不満そうに小さく息をつきながらも、されるがままになっていた。

「今夜ここに王が来て同衾どうきんする訳じゃないだろ」

「今宵が初夜でもよいようにそなえ、一晩毎に練習を重ねておくのです」

「練習って言ったって、一人で寝るだけじゃないか」

「では春海殿か、買ったというその者に、練習のお相手をさせますか?」

「いやだ」

「では、お一人で寝る際も身なりを整えて下さいませ」

 粥だけではまだ空腹でめまいがしそうだが、小鉄はようやく、少年が何者なのか気付いた。

 ――こいつは、男姫おとこひめか……。

 須原国ではごくまれに、男子が側室として奥の宮に入ることがある。男でありながら豪華な女服で着飾られた男姫となり、王宮の妃たちの住まう奥の宮へ入り、男妃となる。

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