第一章 盗賊と幽霊 其ノ三

 人の体とは強欲ごうよくでできている。翌日、小鉄を苦しめたのは、渇きと飢えの両方だった。

 今日は水筒もなく、粥を口にしたせいで胃袋はもっと食わせろと訴える。

 しかし、その日の小鉄の頭には、

 ――夜になったらあの幽霊のような餓鬼がきが何か持ってくる。

 という期待があった。

 昨日、一昨日と姿を現したのだからこの一行に混じっているのは間違いない。恐らく牛車に乗っているのだろう。

 よく見ると牛車は新しく、豪華な造りである。裕に三人でも乗れる大きさ、黒塗りの袖格子そでごうしあでやか、御簾みすは新しくに焼けていない。描かれた睡蓮の花は赤と金で彩られ、車輪の外側だけが、この車が長い旅路をてきたと伝えていた。

 この時になってようやく、小鉄の心に「この牛車に乗っているのは誰か、どこに行くのか」という疑問が湧いた。その答えは「なぜ自分を買ったのか」という疑問の答えにもつながっているように思える。

 昼過ぎ、一行が足を止めて一息入れている最中、小鉄は一人の兵に声をかけた。

 一行をひきいている自分を買いに来た兵はもっとも若く、一番よい身なりをしており、一番無表情である。これに不満を持っていそうな、年かさで、徒歩であり、腰の刀は安物、誰よりも覇気はきがなくうんざりした顔つきの者を選んだ。

「この暑い中、御苦労なことですねえ」

「……話しかけるな。お前には、食い物も水もやるなと言われているのだ」

 話しかけるなと言いつつもあっさりと返事以上の返事をしたのは、小鉄が「返事をしやすい人物」を演じているからである。

 盗賊は毎夜盗みに入っているのではない。行商人や職人として暮らしながら、盗みに入る先についての下調べをする日の方が多い。

 小鉄は盗賊一味の中でも、様々な職に化けるのが実に上手かった。上流階級の言葉遣いだけは確かでないが、しゃべらずに素振そぶりだけであれば何とかなる。若いながらも、相手によって話し方、態度、話題を変え、盗みに必要な情報を聴きだすのにもけていた。

 町人や百姓が兵士に近隣の戦況を尋ねるかのように、びはせずともうやまいを視線ににじませ、つい何かを教えてやりたくなるような純朴じゅんぼくさをまとい、小鉄は兵との距離を縮める。

「いいえ、そんな、兵士様の物を頂こうなんて滅相めっそうもございません。ただ、俺は一体どこへ引かれていくのだろうってね。だって、死にそうに暑いじゃありませんか、行き先も知らないまま歩いていたら、気が狂っちまいそうです。兵士様もお辛いでしょう、どこまで行けばこんな辛いおつとめが終わるので?」

「お前、知らないで引っ張られていたのか。我々は都へ行くのだ」

「へえ、俺もですかい?」

「当たり前じゃないか、お前は姫様が買ったのだ」

 兵は顎で牛車を指す。

「立派な車だなあ。いったいどこの姫様なんです?」

 兵は少し、声を落として言った。

「これはな、領から国王陛下への『年貢姫』だ」

 胡領は、ここより遥か北の領地である。その昔、戦の折りに他国からさらったり献上させたりした姫ばかりを住まわせた、王族のためだけの「花街」であった。今はやせた土地で姫たちの末裔が芋や豆などを作って生活する、貧しい農村があるだけだ。

 ただひとつ、当時を忍ばせる風習が残っている。この領地は時折、領内の娘を「年貢」として王家に差し出す。美女が多い胡領に限られた貢納こうのうである。

 年貢として納められた後、娘たちは運が良ければ王の側室妃となるが、ほとんどは王家から貴族や他領、他国に売られていく。

「年貢姫」であれば豪華な牛車が一台きりで、兵に護衛されて都に向かうのも不思議ではない。 

 ――宮に入る姫がなぜ俺を買ったのだ。あの幽霊の餓鬼は姫の何なのだ。

 兵からもう少し話を聞きだそうとした時、急にぐいと縄を引かれて小鉄は地面に転がった。

「出発する」

 縄を手に、小鉄を見下ろして立っている若い兵の無表情にはやはり、不機嫌さがにじみ出ていた。

 非情な扱われ方も、飢えもかわきも灼熱しゃくねつの辛さも、夜には何かを口にできるという期待を心の支えにして耐えた。


 だがその夜、待てど暮らせど、幽霊はやってこなかった。

 翌日もである。

 極刑による死の覚悟から引き戻され、植えつけられて芽生えた欲望は、未だかつてなく強かった。再びの猛烈な灼熱地獄に苦しめられ、体の内側までも乾ききり、牛ののろさには何度もひざを突き、夜には干物ひものくずのように地面に転がるしかない。

 ようやく幽霊が姿を現したのはさらにその翌日の夜であった。

 しかし小鉄の傍に来て水や粥を与えてくれるのではなく、やや離れた場所で水桶を手に立ち、真っ白な寝衣をずるりと緩く腰ひもで留め、ただ、小鉄を見ている。

「……み、ず、をくれ、水…………」

 かすれた息を辛うじて言葉にする。だが小鉄の祈りを踏みにじるように、夜空を背にした少年は言った。

「お前にやる水はない」

 桶から柄杓ひしゃくで水を汲み、つながれた小鉄が届かない地面にばちゃりといた。

「この世界のどこにも、お前のための水はない」

 再び水をばちゃりと、遠くに投げるように撒く。小鉄にとってその存在は慈悲そのもの、この世界で唯一すがりつきたい相手だったのが、今宵はまるで獄卒鬼ごくそつきである。

 地面に撒かれた水に体を向かわせようとしても、届くはずもなく、荒縄が体に食い込む。

「水が飲みたいか」

 柄杓から目を離せずに、かくかくと痙攣けいれんするように小鉄はうなずいた。

「お前のための水はないけれど、お前に水を与えてくれる人間がこの世界にたった一人だけいる。誰だか知りたいか」

 再び、かくかくと小鉄はうなずく。

 少年は座り込んで、ささやいた。

「この俺だ。俺だけが、お前に水を与えられる。お前に地獄の苦しみを与えるか、生かすのか殺すのか、決めるのは俺だ」

 言葉の横暴おうぼうさとは裏腹に、少年の声は震えていた。ふわりとした夜風が少年の髪を揺らし、わずかな月明かりが少年のやせた頬と額を青く、照らす。

「水が、飲みたいか」

 小鉄は初めて、少年の顔を真っ直ぐに見た。

 淡い輪郭りんかくの中で瞳だけが、深く、黒く、揺らぎながら燃えている。

「お前の命は俺のものだ。お前の体も、声も、意思も、俺のものだ。俺が死ねと命じて命尽きるまで俺に従え。いいな」

 小鉄がはっきりとうなずくと、水を満たした冷たい柄杓が唇に当てられた。

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