第一章 盗賊と幽霊 其ノ二

 一歩足を進めるごとに頭の左側から全身に向かって痛みが響く。

 血止めにきつく巻かれた包帯は苦しみでしかなかった。歩くのを止めてしまいたいが、縛り上げられた縄は買い取りに来た若い兵が馬上で握っている。足を止めれば容赦なく縄を引かれ、地に転がれば後から歩いてくる兵たちに蹴り飛ばされる。

 兵の数は十二人程である。一行は大きく豪奢ごうしゃな一台の牛車を取り囲み、牛の歩みに合わせてゆっくりと進む。

 日が暮れてしばらくすると小さな町の代官屋敷へと入った。小鉄は裏庭の片隅に犬のようにつながれ、食事も水も与えられずに夜を過ごした。

 翌日は朝から歩き通しであった。灼熱しゃくねつの日差しの中、牛の速さでゆったりのろのろと引かれて歩く。

 この日は痛みよりものどかわきに苦しめられた。水の一滴も与えられず、体中の水分が抜けきっていつしか汗も出なくなり、意識朦朧いしきもうろうとしたまま歩かされること丸一日。ようやく訪れた夜には、やはり宿泊する屋敷の裏庭につながれて放っておかれる。

 蚊がたかり、なけなしの血を吸い上げるが、追い払う力も残っていなかった。

 ――俺の体よ、早く、早く死んでくれ。

 渇きで少しずつ死ぬよりも、首が落とされた方がどれだけ楽だっただろう。頭や兄貴分たちの方が長く多く悪事を働いたのに、なぜ自分だけがこんなにも苦しみながら死ぬのだろう。

 この世の全てに恨み言を言いたいが、一体誰に言えばいいのかわからない。

 見た目だけはしかばねのように地面に突っ伏して倒れこんでいると、不意に、ごろりと体を転がされた。顔が上に向くと、乾いてひび割れた唇に冷たい――水が、注がれた。

 うっすら目を開けると柄杓ひしゃくが顔の前で傾けられており、あごから水が伝い落ちていく。慌てて口を開けると水が流れ込んで、じわりと口腔こうこうにしみ渡った。

 もっとくれと声に出す前にもう一度柄杓が当てられ、今度は水が唇から割り込んで、とっくりと喉に流れ込む。急いで体を起こし、ごくりごくりと夢中で飲み干し、更にもう一度。

 三度繰り返されて、ようやく一体誰が水を与えてくれているのかと柄杓の先にいる者を見て、ぎょっとした。

 ――幽霊、か。

 真っ白な寝衣を着た、少年であった。

 顔はさらりとした黒髪に半分以上隠れ、小柄で痩せており、小鉄よりも二、三歳若いだろうか。寝衣しんいの合わせはゆるく、辛うじて腰ひもで体に結び付けられており、青白い首筋から胸元までと、裸足の爪先から細いももまでがはだけている。伏し目がちで表情は暗い。

 少年はちらりとも小鉄を見ないまま、今度は持っていた竹水筒に水を入れてせんをし、小鉄の腰にくくりつけた。

 そしてもう一度、柄杓に水を汲んで小鉄の唇にあてがう。

 ――飲んでおけ、ということか。すると、水筒は明日の分か。

 柄杓の水をがぶがぶ飲み干すと、少年は黙ったままゆらりと立ち上がり、白い着物にたっぷりと夜風をはらませて歩き去った。

 

 翌日も、牛車の隣を歩いた。昨日と同じく暴力的な晴天だったが、この日小鉄を苦しめたのは喉の渇きではない。空腹であった。

 もう四日、食べ物を口にしていなかった。歩き続ける足に力が入らず、竹水筒の水だけでは腹はふくれない。昼過ぎ、一行は歩みを止め、兵たちはにぎめしを食い始めたが、小鉄には何も与えられなかった。

 夜は小さな村の庄屋しょうや屋敷やしきに泊まり、小鉄はやはり庭につながれる。着いた時、屋敷では飯を炊いており、その後も魚を焼いたり味噌やごま油を熱する匂いが立ち込めて小鉄を苦しめた。

 幼い頃、仲間が飢えて動けなくなり死んでいくのをながめていたことがある。以来、腹が減って足がふらついてもめまいがしても、必死で食べ物を調達し、腹を満たしてきた。

 動けなくなってはもう助からない。動けるうちに体を動かして盗み、食わなくては、人は簡単に死ぬのだ。しかし今は縄に縛られ、たてどいにつながれ、盗むことも逃げることもままならない。

 夜が更け屋敷が寝静まると、夏だというのにどうしようもなく寒くなった。地面に転がって寝るのには慣れているが、今夜はひどく土が冷たく感じる。空腹に命が削られ、体温が下がっているのだと、わかる。子供時分には逃れた死に様が、大人になった今、目の前に迫っている。

 ――何故俺の首は落ちていないのだ。何故、俺を買ったのだ。

 昨晩とは違った腹立たしさがこみ上げてきたが、暴れたり叫んだりする力は残っていない。

 動けずに地面に横たわっていると、顔の前で砂利じゃりを踏む音がした。目を開けると白く細い足首が顔の前にある。

 見上げると、昨晩の少年が立っていた。

 少年は小鉄の前に座り込み、手にしている椀から何かをすくったさじを、小鉄の口に当てる。

 とろりとしたかゆだった。匙をくわえてめ取ると、再び少年は木椀から粥を掬って小鉄に食べさせる。匙を口に含んでは飲み込み、次を待てずに口を開けるが、少年はゆっくりとしか粥を差し出さない。

「おい、もっと、もっとくれ。椀を俺の口につけてくれ」

 苛立ってそう言っても、少年はまたゆっくりと、匙を差し出すだけである。

 じれったさを必死でおさえて粥を舌で潰すと、穀物の甘さと一緒に塩味が柔らかく広がり、口から鼻に抜けて薫った。

 やがて椀の中の粥を残らず食べさせると、待ってくれと叫ぶ小鉄に見向きもせず、少年はまた、無言のまま白い寝衣の裾を翻して夜に消えた。



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