第6話



さてさて、小学生の頃のお話。低学年時代を図書室や教室の隅で過ごしたガリのチビっ子は、高学年になる頃にはもう存在しなかった。妹が入学したという事で、見栄も少しはあったのかもしれない。兎に角、少しは……いや、かなりはっちゃけ、暴れん坊を再発した私はそこから急速に発言権を持ち、なぜだか友人が一気にクラスを超えるほど出来てしまった。


 小学生の頃、友人の大半はクラス内の小さな数人のグループだと思う。いや、確かに小さい頃からの友人や、幼馴染などは別だろうが。それでも友人と呼べる者は数人が普通だろう。だが私の場合は違った。確かに喧嘩をしたのはクラスの一人だった。だがその一人がではなかったのだ。


 ――いわゆる、ガキ大将。


 彼はその暴虐ぶりが半端ではなかった。地声は大きく、態度もでかい。気が短くて腹が立てば、相手が年上だろうと関係なくすぐ手を出してしまう。……団地内ではある意味有名なきかん坊。イジメなどという陰湿なことはしなかったのが唯一の救いではあったが。


 そんな彼をぶん殴り、引きずり倒して「ごめんなさい!」と言うまで馬乗りになってしまった私である。当然、職員室できつい説教を受け、その所業が校内を一気に駆け巡ってしまった結果、次の日には見知らぬ友人がクラス以外にも出来てしまったのだった。


 それからというもの、休み時間になると校庭に行けばドッジボールに誘われ、教室にいるとスーパーカー消しゴムレースに呼ばれ……。もう毎日がそれこそ休む間もないほどに走り回って遊んでいた。そう言えば当時、我が小学校の校庭の隅には様々な遊具が設置されており、何故か体操競技で使う「吊り輪」を模した遊具が存在した。ぶら下がって懸垂する子もいれば、足を浮かせて前後にブランコのように揺らす子等も居て、各々が好き勝手に利用していたのだが、ある時、誰が始めたのかは知らないが「勇気試し」と呼ばれる変わった遊び方が流行し始めた。それは、吊り輪を二本使い、各々の手で持ち、足を浮かせて前後にブランコの要領で漕ぐ。助走をつけるために偶に足をつけてより大きく前後に揺らし、その頂点で両手を離す。すると当然だが身体はその慣性によって前方へ投げ出され、重力によって地面に落下する。……鉄棒でやった事は無いだろうか「飛行機飛び」と言えば良いのか? 「グライダー」だったか。あれは鉄棒が得意なものにしか出来なかったが、吊り輪なら、掴むことさえ出来れば誰にでも出来る。何時しかそれは大いに流行り、皆がこぞって飛距離を競うようになっていった。


 ――浮遊感。


 小学校にブランコはなかった。だからだろう、あのなんとも言えぬふんわりとした感覚。風が頬を撫でていく感触。かくいう私も逆上がりが補助台がないと出来ない小学生。団地の公園にすべり台はあってもブランコはなかった。故にあのなんとも言えない感覚はまさに媚薬であり、一度体感すれば辞められぬものになってしまった。古タイヤの埋まった場所を跳ねるより、雲梯を掴むより、登り棒を登るより……簡単で何より気持ちいい!教師も初めはその様子を微笑ましく見て笑って見ていたし、誰もまさかそんな事が起きるだなんて想像もしていなかった。


 ――その日は突然やって来る。


「吊り輪の遊具は撤去します」


 それは緊急全校集会での教師の発言。理由は数日前まで遡る。その日も吊り輪は盛況で、行列が出来る程に子どもたちが集まっていた。休憩時間は十分じゅっぷんもない、教室までの移動があるし、何よりここは校舎から最も離れた場所。それでも皆「飛び」たくて、鉄棒に流れて行く者もチラホラ。


「……よっしゃ! 記録更新!」


 傍から見ればそれは微々たるものだ。吊り輪を離し、ふわっと浮いて即着地。せいぜい一メートル程と言ったところだろうか。ほんの瞬きの間にそれは終わってしまう。だが跳んだ本人にとってはそれは夢のような時間で、まさに至福の瞬間でも在る。そうして彼は満足げにその場を移動しようとして、ポケットから何かを落とした事に気がついた。一瞬の困惑の後、着地点にそれを見つけた彼は、全く意識をせずにそこへ立ち戻ってしまう。次の子供が宙に浮いている事に気づかずに。



 ぶつかられた彼はその場で転倒し、脳震盪。そして不幸にもぶつかった私の友人は右上腕部骨折となってしまった……。不幸中の幸いか、二人共命の危険はなかった。


 当然だが皆の暗黙の了解で、吊り輪前にはダレも寄せ付けないように皆で注意しあって居た。次に飛ぶ子供も、前の子供が完全にその場を離れてから吊り輪を掴むようにしていたのだが、長蛇の列でやっと順番が回ってきた喜びでまさか、彼が立ち戻ってくるなどとは思っていなかったのだろう。


 ……だが結果として彼は立ち戻り、確認を疎かにした彼は既に「飛んで」しまっていた。数人がすぐに教師を呼びに行き、救急車が呼ばれた事で大事にまでは至らなかったが、その日の夜には緊急保護者説明と、吊り輪遊具の遊び方自体の議論が行われ、最終的に「危険遊具」として撤去される事が決定してしまう。


 昭和五十年代、様々な遊具が学校には存在し、今も現存しているだろう。だが当時、そんな遊具を果たして私達は正規の使い方をして遊んだだろうか? 大体、好き勝手に想像し、正規とは違う遊びを見つけて熱中しては居なかっただろうか? 昔の遊具には「これどうやって使うの?」って物も山程あった様に思う。


 現代のようにデジタル機器など全く無く、どころか、家で遊ぶ等と言った発想も、当時のガキンチョだった私にはなかった。お小遣いは五十円程度を毎日貰い、駄菓子屋で五円や十円程度の駄菓子を吟味して買っていた貧乏人。学校から帰ると家にランドセルを放り投げ、母に小遣いをせびって暗くなるまで飛び出していく。そんな小学四年生時代。


……それにしても「勇気試し」って誰が命名したんだろう?

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