第3話



 あの日から、少し私は変わったと思う。


 私を抱きしめ、子供のようにワンワンと大声を上げて、泣き叫ぶ母の姿を目の当たりにした瞬間、当然釣られて私も泣いていたが、何かが自身の中で目覚めたのだ。


 ――あぁ、自分がこの人をこんなに悲しい目に合わせてしまったのか。


 自宅に戻ってからも母は私を見える範囲に常に置き、外に出る際は必ず場所がわかるようにと、念を押されるようになったのには少し参ったが。

 そして、哀しかったのはそれだけで収まらなかった。後日、警察署に保護者同伴で集められ、取り調べとまでは言わないが、何故あの様な事をしたのかと個別に聞かれた。……今考えれば、そんな程度で済んで本当に良かったと思える。何しろ、電車が走る線路を幼稚園児数人がその軌道内に無断で侵入し、ましてや歩いて居たのだ。もしもそんな事を現代で行えば、SNSで拡散されまくった挙げ句、即保護された上に、テレビのニュースでバンバン取り上げられていただろう。そうして私達はすぐに特定され、家族や何もかもが晒されて……。と、背筋がゾクゾクして来たのでこの辺にしておこう。


 当時は、鉄道会社の人間と、警察署員に怒られて、全員で「ごめんなさい」と言う言葉だけで、その場は済ませてくれたのだから。


 ――ただ、当時の私はその事が発端で辛い目に遭う結果になったが……。


 警察や、俗に言う正義の味方というのは、とかく犯罪に対して容赦はしない。確かにそれも正解だろう。当然だが犯罪は犯してはいけない事だ。「罪を憎んで人を憎まず」とはよく聞く決めゼリフだが、ただ今回のは私にとって初めての『心のきず』となってしまった。事情を聞くために、まだ5~6歳である私達を個別にして話をさせた事。彼らは今回の件の原因を探るため、一人ひとりに「誰が」「何を」「どう言って」「こうしよう」と言う事になったのかを細かく聞いてきた。小さい子供が知らない大人や両親に囲まれて、そんな事を聞かれるとどうなるか。児童虐待防止法などは当然無い時代だ、公権力に威圧とまでは行かなくても、正視され、味方であるはずの両親からも「ちゃんとはっきり答えなさい」等と言われて、子供が自分から「ボクが」「遊園地に」「行きたい」など言えるはずもなく。


 結果、私が「電車の道を行けば行ける」と言ったと、全員から聞き取れた事実。


 そんな話が後になって、保護者同士で共有されるとどうなるだろう。


 その日以降、友人と呼んでいた彼らと卒園するその瞬間ときまで、遊ぶことは無くなってしまった。


 そんな日々が続き、私は家で絵本を読んだり、妹の世話を手伝うことが増え、少し、引っ込み思案になっていく。


*****************


 幼稚園を卒園するその日、それまで疎遠だった祖母が式に付いて来てくれたのをよく覚えている。まだ妹が乳飲み子だった為、母が無理を承知で実家へ電話して頼んでくれたらしい。父は当然だが仕事へ行ってしまった。あの日を境に笑顔の少なくなった写真の中で、唯一満面の笑みで祖母と手を繋いで、卒園式と書かれた看板の前で写っている私を見ると、今でも少し、キリと胃が痛む。幼稚園からゆっくり商店街を抜け、祖母と歩いた道行みちゆきはとても楽しそうに、たくさん話していたと母が教えてくれた。そんな影を落とし始めた私の人生に急展開が訪れる。なんと引っ越しをすると言うのだ。本当は何度も抽選には参加していたらしいのだが、やはり倍率が高いということも有り、中々それが出来なかったのだが、両親は妹が妊娠したことを知ってから、毎回参加していたらしい。公営住宅の抽選会。所謂、当時流行していたとも言える『団地』の入居権の抽選会。


 どんなタイミングの良さであろう。私が卒園する直前に、友と呼べる人が居なくなってしまった私に、どこかで誰かが見ていたのだろうか。昭和50年代初期、それは沢山建てられたが、今は老朽化が進み、解体して建て替えが進んでいる中層団地へと引っ越す事になったのである。


 1970年代、所謂『集団住宅』団地は低層、もしくは中層が主流であり、それ以上の高層団地は私の記憶では分からない。エレベーター等は勿論なく、対になった部屋同士で階段を共有し、間取りも2DKが多かったと思う。玄関扉は鉄製で、のぞき窓は結構大きく、今では考えられないがただの蓋とガラスが嵌っているだけだった。風呂場は在っても、湯船や釜は自前で設置しなければいけなかったが、自宅に風呂が出来たと母はかなり喜んでいた。トイレも和式ではなく洋式になり、父の後に慌てて入って、便座が上がっているのに気づかず、嵌って水浸しになったのは今では笑えてしまう想い出だ。


 ……そう言えば、当時の引っ越しとはどんなものだったか、ご存知だろうか。

 今の引っ越しと言えば、すぐに引っ越し専門の「◯✕引越センター」等というものが頭に浮かぶと思う。しかし歴史を紐解いてみると「引っ越し専門」の業界自体の歴史は浅いのだ。詳しくはウィキ先生にお願いするが、抜粋するとそう言った組合ができたのはオイルショックを発端としている。そう、まさに1970年代になってそう言う専門の業者が誕生しているのである。


 ではそれまではどうしていたか? 他の地域でも似たようなものだったとは思うのだが、引っ越しをする場合、知人友人を頼むか、所謂「人夫」を雇い、トラックを借りて皆個々人で行うのが当然だった。ご多分に漏れず、我が家も父が友人たちに声を掛け、食事と酒を振る舞うという、なんとも安上がりな方法で人夫を何人か確保し、会社のトラックをで使い、当時、中層団地の最上階である、5階までの引っ越しを敢行したのである。母の嫁入り道具であった、洋服箪笥と和箪笥はあの狭い階段を皆ヒイヒイ言いながら登っていたと母が笑っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る