第5話:家族
私には、絶対に手に入れる事の出来ない、普通の世界というものがあった。貴女は特別という言葉で、痛みを覆い隠していたけれど、ありきたりな幸せに触れた時、乾き切らない傷が疼き始めた。
幸せな家族をありがとう。
春。とうとう、私と奏真さんの写真が週刊誌に掲載された。双方の事務所は、あっさり交際の事実を認め、半年のお付き合いの後、婚約に至った事を発表した。
私のファンは比較的静かで、祝福のメッセージを送ってくれたが、奏真さんのファンからは呪いの手紙が沢山届いた。仕方ない。彼はベテラン俳優だし。まあ、剃刀が入った手紙なんて、慣れていたのでなんとも思わなかった。
そもそも私の本職は声優なので、手指に多少の怪我を負っても問題ないのだが、心配した理事長がマネージャーを増やして手紙の開封をした。余計な仕事を増やしてしまって、申し訳ないと思った。
一方、心の奥底で、知らない感情がさざめいていた。緊張の様な、興奮の様な⋯⋯。
私は奏真さんのご両親と顔合わせする事になった。お母様はとても温厚で、お父様は寡黙。だけど二人とも、私を心から歓迎してくれた。
都内マンションの高層階で、私たちはテーブルを囲んでいた。
「理沙子さん。奏真の何処を気に入ってくださったのかしら?」
お義母さんは、穏やかな口調で訊ねて来たが、目は笑っていなかった。私は知っている。祖母と同じだ。人を品定めする目。
「気取らない性格です」
私は正直に答えた。
「私は役者としてまだ未熟で、駆け出しですが、困っていた時にベテランの奏真さんの方から話し掛けてくださいました。とても気さくで、私には全て話してくださいます。信頼しています」
「まあまあ⋯⋯」
お義母さんは、態度を軟化させたが、お義父さんは、かえって表情を険しくした。
「貴女の作品を幾つか観たよ。とても無邪気で、可愛い声をしていると思った」
「ありがとうございます! 声は、私の宝物なんです」
人に期待される笑みを浮かべると、お義父さんは奏真さんを睨んだ。
「お前、こんなに若くて綺麗な子を騙したんじゃないだろうな?」
「な──」
「騙されていません」
私は奏真さんの反論を遮る様に断言した。
「騙されていませんよ、お義父さん。全部聞いています。私は奏真さんが好きで、奏真さんも役者としての私を好きでいてくれます。だから、一緒に生きられると思いました」
「理沙子さん⋯⋯」
奏真は眉間に皺を寄せて、今にも泣きそうな顔をしていた。彼が泣きそうだったから、私は笑った。
「奏真さんは、私の悩みに対して、具体的な解決策を提示してくれた、唯一の人です。普通の愛しているとは違うかもしれませんが、私たちは、役者としてお互いを必要としています。それでは駄目でしょうか?」
「でも⋯⋯あのね」
お義母さんは、とても言い難そうに口を開いた。
「貴女は若いし、気が変わるかも知れない。子供が欲しくなったらどうするの?」
「体外受精という選択があります。毎晩別の部屋で寝ていても、何も問題ありません。タイミングを選べる分、私たちの様な仕事をしている人間にとっては、都合が良いんです」
この事について、私は随分考えた。もし、万が一奏真さんを好きになってしまった時、離婚を約束する代わりに、子供だけは欲しい、と。
養育費を請求するつもりはなかった。充分な貯蓄があったし、数年先の事になるだろう。
「理沙子さん。奏真は昔から異常なんだ」
お義父さんの言葉には侮蔑が篭っていた。
「普通の男と違って、同性と一緒に遊んでいたとしても、安心出来ないんじゃないか?」
私は、感情的にならない様、努力する必要があった。こうやって人間性を否定されながら育ったせいで、奏真さんは自分を偽る様になったのだろう。
私の家族と違って水口家は、決定的に仲が拗れているわけではない。両親共に、奏真さんの事を憎んだり、搾取の対象としているわけではない。理解は示せなくとも、こうして話し合いの場は設けてくれる。
だからこそ、奏真さんは辛いのだろう。いっそのこと、完全に突き放されれば、心穏やかに憎む事も出来ただろうに。
「もし、私よりも良い出会いがあったとしたら、とても幸せな事だと思います」
奏真さんには、彼を本当に理解して、寄り添ってくれる人が必要だ。それはきっと、私じゃない。だけど、今、彼に理解を示し、結婚の条件を呑めるのは、私だけだ。お義父さんの物差しで計るなら、私も十分異常者だ。それで良い。
「奏真。お前は何を考えているんだ?」
お義父さんは、家庭の不和と、他人の私が傷付く事を憂慮していた。
「なんで何も言わないんだ? 一体どういうつもりで──」
「どうすれば、お父さんは納得するの?」
奏真さんは、堰を切った様に話し始めた。
「ずっと私の価値観を否定して、まともに生きろと言ったくせに、普通に結婚すると言ったら顔を顰める! 理沙子さん以外に、理解して、秘密を守ってくれる人なんかいない! 一生隠し通せと言うなら、一人くらい理解してくれる人を作る事を認めてよ!」
悲痛な叫びを聞き、私はふと疑問を抱いた。自分自身は一度も考えた事のない問題だ。
「あの。何故隠して生きなければならないんでしょうか?」
「気持ち悪いじゃない」
お義母さんが答えた。何も言わない辺り、お義父さんも同じ意見なのだろう。
「貴女はそう思った事が無いの? テレビの芸能人⋯⋯男か女か分からない様な人達が今流行っているけれど」
「あの人たちは、奏真さんとは違うんです。心が女性で、恋愛対象が男性なんです。だから、ああいう振る舞いが自然なんですよ。でも、奏真さんは、心も身体も男性です。恋愛対象が男性というだけ。それ以外は、お二人の認識している普通の人と、何も変わらないんです」
「奏真の事だけ考えるなら、賛成よ。こんなに良い人は他に見つからないでしょうし。でも、理沙子さんが幸せになれるか──」
「奏真さんの幸せを願ってください。私は、誰かに願って貰わなくても、自分で自分を幸せに出来ます」
これまでも、そうやって生きて来た。これからも、きっと上手く行くはず。奏真さんは、私の肩に手を置いた。
「理沙子さんを幸せにしたいという気持ちは、嘘じゃない。話したはずだけれど、彼女には家族がいないんだ。お父さんとお母さんの存在が、理沙子さんの幸せに繋がるんだ」
ご両親は、顔を見合わせ、数秒置いてから小さく頷いた。
「今日はもう、帰りなさい」
お義父さんはそう言って席を立った。私は奏真さんの様子を窺い、仕方なく頭を下げてから椅子を引いた。きっとご両親の理解は得られない。この短時間で、二人の価値観が変わるくらいなら、奏真さんは三十年以上苦しむことは無かった。
「理沙子さん」
お義母さんの遠慮がちな声が響いた。
「私たち、普通の仕事をしているから、お芝居の話は出来ないかもしれないけれど、また遊びにいらしてね」
「はい」
今日はこれで充分だ。最初から上手く行った事なんて、これまでの人生で何一つない。何度も挑戦して、ようやく成功を手に入れる。その瞬間が、堪らなく嬉しいのだ。
私は、自分の異常さも語るべきだったろうか? そうすれば、少しは奏真さんの心を守れたかも知れない。だけど、私は見付けてしまったのだ。絶対に手放したくないと思う物を。
毒の言葉 花淵菫 @sumire_hanabuti
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