命そのもの

増田朋美

命そのもの

その日は、比較的すずしく、秋らしい日だなと思われる穏やかな日であった。最近は、すすきが色付き始めてきて、もう秋本番だなと思われる日であった。

その日、杉ちゃんと蘭は、かつて背中を預かった事がある若い女性が赤ちゃんを出産したというので、出産祝いを届けにタクシーにのっていた。蘭は、お祝いごとに黒大島はまずいのではないかと杉ちゃんに言ったのであるが、杉ちゃんは、どこ吹く風であった。

タクシーは、松尾と書かれている家の前で止まった。二人は急いでおろしてもらい、帰りも乗せてくださいとお願いして、松尾と書かれたいえのインターフォンを押した。

「はい、どちらさまでしょうか?」

お手伝いさんと思われる中年女性の声がした。

「刺青師の伊能蘭と申します。あの、奥さまの松尾ゆりさんにお目にかかりたいのですが。お願いできませんか?」

と蘭は言った。

「少しお待ち下さい。」

とお手伝いさんはいって、数分たつと、

「どうぞお入りください。」

と、蘭と杉ちゃんを中へ入れさせた。お手伝いさんに案内されて居間に入ると、

「先生いらしてくれたんですね。本当にありがとうございます。」

と、松尾ゆりさんが現れた。

「いや、退院したと聞きましたから、一度お顔を拝見したいと思いましてね。これは、僕と杉ちゃんからの、出産祝いです。」

蘭はそういって、おくるみの入った箱を渡した。

「あ、ありがとうございます。」

ゆりさんはそれだけ言った。

「なんだ、あんまり嬉しそうじゃないな。」

と、杉ちゃんがいった。

「それに、赤ちゃんの姿もなきごえも聞こえないし。」

確かにそうなのであった。赤ちゃんがいればベビーベッドが置かれていたりするはずだと思うけど、そのようなものがなにもないのはちょっと異常である。

「はい、実は、まだ病院から出られないのです。とても小さく生まれてしまったので、出るには半年近くかかると言われました。それはみんな私が悪いんです。私がもっと気をつけていれば。」

ゆりさんは、申し訳ないように言った。

「もっと気をつけていれば良かったって、なにかあったんですか?」

蘭が、そう言うと

「ええ、中毒症がひどくて、赤ちゃんを取り出さなければならなかったから、緊急帝王切開するしかなかったんです。あれよあれよとすすんでしまって、あたしはどうしようもなかったんですよ。なんて悪いことをしたんだろうと思うけど、主人は受け入れるしかないっていうし。」

と、松尾ゆりさんがいった。

「まあ結論からしてみればそうするしかないんだが。」

杉ちゃんがでかい声でいった。

「それにしても大変だったのではないですか?いろんなことがありすぎて疲れてしまったこともあるでしょう。お体の異常などはないのですか?」

蘭は心配そうにいった。

「ええ、うつがひどいので精神科にも通おうかと思っています。」

松尾ゆりさんはそういった。

「本当は赤ちゃん育てるためには、そうしてはいけないんだろうけどさ。それにしても、大変だったね。」

杉ちゃんはゆりさんにいった。

「そう言っていただけますか?」

ゆりさんが意外な顔をして、杉ちゃんに言った。

「うん、だってしょうがないことはしょうがないかもしれないけど、でも、それがなかなかその通りにできるかって言うとそうでもないのが、人間だからねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、うちに刺青をお願いする女性は、みんなそういう人ばっかりですよ。」

蘭もそれに同調した。

「だいたいの人は、しょうがないとか、諦めるしかないとか、そういう結論を出すしかない状況にある方が多いのですが、でもそれがなかなかできないから、神様の像とか、自分の好きな花などを背中に彫るんですよ。それは別に悪いことじゃありません。みんな、いかにもできそうな顔して、できなくちゃ行けないみたいな事を押し付けるんですけどね、書籍や映像なんかは特にそうでしょう。だから、それに追い詰められて、命を絶ってしまう人だって、少なくないのです。そこらへんを、テレビや書籍はもうちょっと考え直してもらいたいなと思うんですけどね。まあ、それができないからと言って、自分を責める必要はありません。僕は、声を大にしていいたいなと思います。」

「そうですか。彫たつ先生はやはり優しいですね。あたしは、そんな事考えられなかった。みんなから、もうやったことは仕方ないとか、そういう事を言われて、死ぬしかないと思ってた。ごめんなさいあたし、馬鹿ですよね。」

ゆりさんは蘭にそう言われて、嬉しそうに言った。

「いやあ、馬鹿だとか、そういう事は考えなくてもいいんだよ。それより大事なことは、事実に対してどう動くかを考えることでしょ。そして、自分でどうしても思いつかなかったら、誰かに聞くしかないでしょう。」

杉ちゃんに言われて、ゆりさんは覚悟を決めたようで、こう切り出した。

「実は、前々から悩んでいることがありまして、他のお母さんに相談したりもしたんですが、全然良くならなくて。病院でマッサージをしてもらっても全然だめなんですよ。男性の方に相談するのもどうかと思ったんですが、そういう答えを出してくれたんだから。」

「はあ。それはどういうことかな?なにかあったのか?」

と杉ちゃんが言うと、

「はい。お乳が出ないんです。」

とゆりさんは言った。

「お乳が出ない?」

蘭がそう繰り返すと、

「そうなんです。それではいけないといろんな人から散々言われましたが、どうしてもだめです。未熟児には母乳が一番良いと、本やテレビでも言っていましたので、私は、そうしなければだめだと思ったのですが、それで病院でマッサージしてもらっても出なくて。それでは母親失格だって言われてしまって。」

ゆりさんは、申し訳無さそうに言った。

「まあ、そういうやつはそういうやつだよな。出ないもんは出ないと切り替えて、ミルクを使うとか、そういうふうにすればいいでしょうが。とにかくな、何をしてもだめなら、出ないもんは出ないってもう開き直っちまえ。」

ゆりさんの話に杉ちゃんはでかい声で言った。

「でも男の僕たちにはできないことでもあり、それができない喪失感は確かにあると思いますよ。」

蘭が杉ちゃんの話にそう言うと、

「まあ、まあそりゃそうだけどさあ。でもねえ、出ないもんは出ないと割り切ることも大事なんじゃないかなあ?それに母乳で育てないから悪いやつになるとか、そういう事は聞いたことないし。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「ありがとうございます。出ないもんは出ないと言ってくれて、なんかスッキリしました。杉ちゃんありがとう。本当に助かりました。あたし、まだまだお母さんとして、全然だめな女性ですけど、でも頑張らなければ行けないんだと思いましたよ。」

ゆりさんはにこやかに笑ってそういった。

「じゃあこの出産祝いは受け取ってもらえるかい?」

杉ちゃんに言われて、ゆりさんは、はいとにこやかに言った。

「じゃあ、これ、赤ちゃんがこっちへ戻ってきたら、使ってやってね。」

杉ちゃんに言われて、ゆりさんは苦笑いしながら、

「はい、わかりました。大事に使わせてもらいますね。」

と言って、杉ちゃんたちの出産祝いを受け取った。

松尾ゆりさんの出産祝いを届けに行った数日後。蘭のいえの前にパトカーが一台止まった。何だと思ったら、富士警察署警視の華岡保夫が現れた。

「おーい蘭!風呂貸してくれ。事件がちっとも解決しないので、お前のところに風呂を借りにきた。俺の風呂は、はいった気がしないから、お前の手すり付きの檜風呂を貸してもらいたい!」

華岡は、強引に蘭の家にやってきた。

「ああ良いよ。ちゃんと風呂が沸いているから、ゆっくり入りな。」

蘭がそう言うと、

「言われなくてもそうするよ。」

華岡はそう言って、お風呂場に向かっていった。やがてお風呂場から、鼻歌を歌っている声が聞こえてくる。その間に、杉ちゃんはニンジンやじゃがいもを切って、カレーを作っていた。華岡が風呂に入ると、軽々40分はかかる。杉ちゃんがカレーを作り終えたのと同時に華岡は風呂から出てきた。

「ああ良かった。いい湯だったぜ、あとは美味いカレーが楽しみだなあ。」

「ああ出来てるよ。食べな。」

杉ちゃんに言われて、華岡はテーブルの上にあったカレーにかぶりついた。

「うまい、うまい、うまいなあ。杉ちゃんのカレーは栄養満点でうまいよ。事件の被害者も、こんな美味いカレーを食べることなくなくなったんだなあ。」

「事件の被害者って、なにか事件を調べてるのか?と言っても、お前の仕事はそういう仕事か。と言っても毎日いろんな事件がアチラコチラで起きているか。」

うまそうにカレーを食べる華岡に、蘭はそういったのであるが、

「おう。事件があったんだよ。なんでも若いお母さんが、赤ちゃんが泣き止まないので、野球のバットで殴り殺したという事件を俺達調べているんだけどね。まあ、もうちょっと、親になる自覚っていうか、そういうものがあって欲しいよね。だってさ、赤ちゃんが泣くのは当然のことじゃないか。それを泣き止まないからと言って、バットで殴り殺したというのは、本当に困るよねえ。」

と、華岡は言った。

「はあ、その若いお母さんは、何をやってたんだ?女郎さんでもしてたのか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いやあ、女郎さんということはないと思うんだけどね。なんでも学歴は藤高校で、超優秀なんだ。それだからさあ、ちゃんと教育されていると思うのに、それなのに、赤ちゃんが泣き止まないので野球のバットで殴り殺すとは、、、。」

華岡は考え込む顔をする。

「それで、取り調べの方はちゃんと進んでいるのか?」

蘭がそうきくと、

「いや、黙りこくってしまって何も話してはくれないよ。少なくとも凶器になったバットからは、赤ちゃんの血痕が付着していたし、母親の指紋も出た。だから、間違いなく彼女の犯行であることは確かなのだが、俺達を信用してくれないのか、何も話してくれない。まあねえ、俺達を信用してくれるまでにはかなりの時間がかかると思うんだけどねえ。」

と、華岡は言った。

「確かに警察は男ばかりだもんね。それに近づけることはなかなかないか。」

杉ちゃんがそう言うと、華岡は大きなため息を付いて、カレーを口にした。

「あーあ、俺達はいくら話しても、彼女の供述を得られないんだよなあ。なんとかして、彼女から犯行の供述を得られないと、俺達は、困ってしまう。」

それと同じに華岡のスマートフォンがなった。

「はいもしもし。ああ、華岡だ。何?捜査会議が始まるって?え?もうそんな時間?わかった!すぐ帰るから待っててくれ!」

と言いながら、慌てた顔で急いで帰っていく華岡は、やっぱり忙しいんだろうなという感じの顔をしていた。蘭は自分のスマートフォンを取って、先程の事件の話を調べてみたところ、たしかに多くのニュースサイトで取り上げている。そのサイトには、有名な偉い人たちが、加害者である吉井趣里さんという女性に付いて言及しているのであるが、受験騒動で子供まつわる教育が受けられなかったとか、小さい時から優等生扱いされすぎていたせいで、子供のことを可愛いと思えなかったとか、そういう事が書かれていた。それを書く偉い人たちはそれで良いのかもしれないが、それだけでは何も解決はしないのではないかと杉ちゃんたちは思った。中には、彼女、つまり吉井趣里さんに、子供を預ける施設などが育児サークルに参加させるなど仲間を作らせる事はしなかったのかなどと、発言している偉い人も居る。確かに、赤ちゃんであったとしても、預けられる保育園もあるようであるが、何故か吉井趣里さんは、保育園に入れるきはなかったらしいということも書かれていた。特に保育園に行くことは、強制ではないけれど、こういうところに活かせることでお母さんも学べることがあるということを、知るべきである。

それから何日か経って、蘭は華岡に呼び出された。一体何のことだろうかと思ったら、やはり取り調べの大変下手くそな華岡であり、吉井趣里さんのことであった。華岡は、いつまでも黙りこくってしまっている彼女に、なんとかして息子の真也くんを殺害したことを認めようとさせているらしいのであるが、彼女は黙ってしまっているままであるらしいのだ。確かに、自分たち男だけでは取り調べはできないだろう。かといって今の刑事課では女性を一人も置いていない、どうしようと悩む華岡に、蘭は女性を一人つけさせようかといった。華岡が誰かふさわしいやつはいるかと聞くと、蘭は、松尾ゆりさんと言う女性を連れてくればいいと言った。蘭は、松尾ゆりさんが、未熟児を産んでしまって、とても後悔していることを話し、杉ちゃんにお乳が出ないもんは出ないんだと言われても、頑張ってやろうとしている事を話した。そのあたりを、吉井趣里さんの前で語ってもらえば、もしかたら供述を得られるかもしれないと提案した。華岡も、喜んでそれを受け取った。なのでその翌日、華岡のパトカーで蘭は松尾ゆりさんを迎えに行き、三人で富士警察署へ向かった。

ゆりさんは、華岡に事件の概要を聞かされて、とても悲しい事件ですねといった。私だったら、金属バットで赤ちゃんを殴り殺してしまうことはしないと彼女は言った。

「だって赤ちゃんは命そのものですもの。それを金属バットで殴り殺すなんて、そのようなことはしません。あたしだったら。」

「そうですか。それをちゃんと語ってきかせてやってくださいませ。吉井趣里さんに。そして、彼女に、赤ちゃんの大事なことを、話してやってください。」

と華岡はそういった。数分後にパトカーは、富士警察署に到着した。三人は、第一取調室と呼ばれる部屋にはいった。そこに部下の刑事に監視されながら、吉井趣里さんが座っていた。一瞬、蘭は何だと思う。だって目の前にいる人は、普通の人じゃないか。どこにでもいそうな普通の人。それではどうして、赤ちゃんをバットで殴り殺したりしたのだろう。それに、藤高校を卒業しているほどの高学歴でもあるのだし、なんで?と思わず言いかけてしまう。しかし、松尾ゆりさんには、別のものが見えたらしい。趣里さんに向かってこう話しかけた。

「あなたも、もしかしたら、お乳が出なかったんですか?」

ゆりさんがそう話しかけると、趣里さんはえっという顔をした。

「どうして、そういうことがわかるんです?」

「ええ、あたしも、似たようなことで悩んでいました。でも、最近は出ないもんは出ないと言われて、それで開き直ることにしたんです。今私は、未熟児生まれた息子を育てていますけど、その時は、毎日、人工乳を病院に運んでいます。本来の人であれば、お乳を絞ってどうのってなるんでしょうけどね。それができないから私はお乳を絞れない代わりに、人工乳を作ることでおんなじことしてるんだって思ってます。出ないもんは出ないんだって、割り切ることは大事ですよね。」

ゆりさんはにこやかに笑った。蘭は高学歴な女性ではないのに、こういう事を切り替えられるのは、やはり学歴などは関係ないのだなと思った。

「どうして、真也くんを殴り殺したんですか?単に泣き止まなかっただけじゃないでしょう?」

と、蘭が言うと、

「確かに、泣き止まないでうるさくて、カッとなってしまったかもしれません。あのときは、真也が夜通し泣き続けていて、ミルクを上げても泣き止まないし、おしめを変えても泣き止まないから、もう頭にきてしまって、どうしようもなかったんです。」

と趣里さんは答えた。

「そうですねえ。赤ちゃんは、単にミルクがほしいとか、おむつを変えてとか、そういう単純な事ばかりではないのかもしれません。僕は子供がいないので経験がありませんが、単に抱っこしてほしいということだけでも泣くのだそうです。一晩中泣いていたということであれば、そういうことだったのかもしれないでしょうね。」

蘭がそう言うと、

「そうなんですね。私何も知らなかった。本にはそういう事は全く書かれていませんでしたから。どうしてそういう事は、書かれていないのでしょう。私は、知りませんでした。」

趣里さんは涙をこぼして泣き始めるのである。

「本に書いてあることだけが、全てだと思っていたのですか?それは全くあてずっぽうです。子供が10人いれば、その育て方も10通りなんですよ。絶対マニュアル通りには行きません。」

蘭が急いでそう言うと、

「すみません。勉強であれば、教科書とか、参考書とかに答えが必ず載っていたから、私はそれで良いのかと思って、、、。それに、真也があまりにも騒ぐから、、、。」

趣里さんはそういうのであった。

「やっぱり、母乳で育児をするほうが、親になるっていう自覚ができるのかなあ?」

と、華岡がボソリとそうつぶやくと、

「私も、そういう事言われたことあります。だからいつも赤ちゃん育てるときに劣等感とか持っているんです。でも、出ないもんは出ないんだって、はっきり言ってもらってからは、割り切って考えようと思うようになりました。それができないんだったら他のことで補えば良いんだとか、そういう事考えたりしています。だって赤ちゃんは命そのものです。私達はそれを育てるのですもの。頑張らなくちゃ。」

松尾ゆりさんが、にこやかに笑った。

「だから、一生懸命罪を償って、健康を取り戻してくださいね。あたしも一歩間違えばあなたみたいになってたかもしれない。お気持ちすごくわかるから、それはぜひお伝えしておきたいです。これから大変な事あると思うけど、真也くんの事を思って、一生懸命生きてください。」

「ゆりさんすごいですね。一度割り切ってしまうというか吹っ切れてしまうと、人はこんなにも変われるのでしょうか。」

蘭がゆりさんにそうきくと、

「いえ、私の力ではありません。出ないもんは出ないんだって言ってくれたからです。だから私も、その事をお伝えしたいんです。」

とゆりさんは、にこやかに言った。それと同時に華岡が、趣里さんの供述調書を書いている音が聞こえてきた。それがなんとなく趣里さんの孤独を表現しているような音だった。





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命そのもの 増田朋美 @masubuchi4996

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