隠者の誓約〈3〉

 足元にすり寄るやわらかな感触に、マーニャはぽかんとした。「サー・ウェリーズ?」

 真っ白な毛並みに、後ろ足だけ長靴を履いているように黒い牡猫。月長石めいた蒼い眼を細め、ちらりとエマヌエラを一瞥する。

「なっ、なんでここにいるんだ!?」

 慌てふためく口ぶりはサー・ウェリーズを知ってる様子だ。

 マーニャが確かめるよりも先に予想外の声が答えた。

「彼ほど優秀な隠密はいないからですよ、公女殿下」

 円舞のステップを踏むように軽やかな靴音。

 薄荷色に艶めく金髪が豪奢に広がる。彼が背負う権威の光輝そのものだと、マーニャは見惚れた。

 しなやかな細身を包む、装飾の少ない襟の詰まった黒のドレス。墨色のベール越しにも、白皙の美貌と、挑戦的に微笑む金無垢の瞳は隠しようもないほど鮮やかだ。

「リ、リデルにいさま」

「お迎えに上がりましたよ、おてんば姫」

 未亡人めいた出で立ちの次期グリーンヒル伯爵は、優雅に騎士の礼を取った。

 苦しいほど胸が詰まり、マーニャはくちびるを震わせることしかできなかった。フレデリケの視線が婚約者を映し、一瞬の安堵と歓喜をこぼす。

 しかし、少年騎士は表情を崩すことなく老騎士と対峙した。

「私の姪と許嫁がお世話になりました、エドマンのハミル殿。ああ、表で伸びていたならず者どもは適当に片づけておきましたので。聖堂の修繕費については、どうぞわが家から出させてください」

「……お申し出、ありがたくお受けいたしょう。グリーンヒルのフレデリケ殿」

 老騎士は小さく笑いながら立ち上がった。

「お噂はかねがね耳にしておりましたよ、『レディ』。まさか、公国じゅうの若者ががれてやまない黄薔薇の君が大公家の間諜とは」

「まだまだ駆け出しの身ですけどね」

 フレデリケはいたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

「あなたのご高名も、よく耳にしておりますよ。〈荒野の灰色狼〉と畏怖された北部随一の剣士。同門であった先々代のエンデル伯爵からの嘆願によって助命が叶ったものの、戦後は再び仕官することなく出家された――」

 彼の言葉に、老騎士は重たく頭を振った。

「おめおめと生き恥を晒しながら主君を挿げ替えるなど、どうしてできましょう。しかし息を潜めて恩讐の牙を研ぎ澄ませるほどの若さは、もはや私にはありませんでした」

 月日のぶんだけ磨耗した眸が墓所を見回す。

 ヴェレネルフ伯爵家の旗印を抱えた亡骸に目を留めると、彼は拳を作った。

「この二十年、私がいかに過ごしてきたか、監視の目を絶やすことなかった大公殿下はよくご存じでしょう」

「ええ。聖職者として、かつての騎士団長として、人望篤い御仁であると。私の暗殺未遂事件の際、あなたは接触してきた前大公派を退け、一切の沈黙を貫いた。……言葉なき死者のように」

 フレデリケの声が冷ややかに尖る。

(リデルの暗殺計画を知っていて、大公家やグリーンヒル伯爵家には伝えなかったっていうこと?)

 じわりと滲む悪意に、マーニャは胸元を握りしめた。

「では、私を罰しますか。前大公派の残党として引き立て、絞首台へ送りますか」

 どこか投げやりな口調で老騎士は嗤った。

「だめだ!」

 エマヌエラが叫んだ。パッと叔父に飛びつき、必死に訴える。

「そんなの駄目だ、にいさま! このひとは、わたくしとマーニャを助けてくれたんだ。本当に前大公派だったら、今ごろわたくしたちは殺されている!」

「落ち着いて、ニコル」

 透かし編みの手袋を纏った指先が少女の鼻をつつく。泣きそうな様子で口を引き結んだ姪に、フレデリケの眉尻が下がった。

「僕が大公殿下から頼まれたのはね、きみとマーニャを迎えにいくことと、エドマン卿に『招待状』を渡してほしいっていうことなんだ」

「招待状?」マーニャが首をひねると、フレデリケはいたずらっぽく笑んだ。

 馬鹿な、と老騎士が呻いた。

「いったい大公殿下は何をお考えなのか」

「さあ? あのお方の頭の中なんて、とうてい理解しきれませんよ。ただ確実なのは、わが君の『敵』は国の内側ではなく――外側にいることだけ」

 マーニャは、フレデリケから聞かされた諜報機関設立の理由を思い出した。

(前大公派との争いが長引くほど国の結束は弱まって、外国につけ入る隙を与えてしまう。……ううん。隙間を探すどころか、もうひび割れから堂々と蟻が侵入していきているのかもしれない)

 老騎士も仄暗い脅威を察したのか、顔つきを険しく一変させた。

「……この老いぼれに、今いちど剣を取れと?」

「誇り高き狼の剣と知、志を後進に伝授してほしいとの仰せでした。恥ずかしながら、私はまともな剣技を得ておりません。私だけでなく、大公殿下が広く集められた人材は優秀なれど生まれも育ちも幅広すぎて、ナイフとフォークの持ち方もわからぬ無作法者さえいる有り様です」

 フレデリケは嘆かわしいとばかりに肩を竦めた。不安そうにやりとりを見守る姪をやわらかく一瞥してから、老騎士に微笑みかける。

「大公殿下は、われら騎士団が次代への遺産となることをお望みです。公国の未来を守る盾であれと」

 老騎士のまなざしが苦しげにさざめく。

 淑女のようなてのひらを差しのべ、フレデリケは蜜を滴らせてささやいた。

「われわれ〈黒の間〉は、いつでもあなたをお待ちしていますよ」




 聖堂の外には、略式の黒い騎士服を纏った青年が待ちかまえていた。

「グリフィスさま!」

「お久しぶりです、シスター・マーニャ。ご無事で何よりです」

 近衛騎士にしてフレデリケと同じ影の騎士サー・ジョン・スミスは苦笑すると、マーニャの後ろで縮こまっている少女の姿に目を細めた。

「お探しいたしましたよ、姫」

 安堵のこもった声に、エマヌエラはくしゃりと表情を歪めた。

 グリフィスはエマヌエラの前で片膝を折り、エマヌエラの顔を覗きこんだ。

「玉蘭宮に帰りましょう。殿下や妃殿下がお待ちです」

「……父さま、怒っているよね」

 俯いたエマヌエラは、両手で胸元を握りしめた。グリフィスは笑みを深めた。

「心配されていましたよ。ですが、褒めてもいらっしゃいました。『さすがはファルスの子だ』と」

「え……」

「姫、殿下から『鍵』を受け取られましたね?」

 グリフィスの問いに、エマヌエラはこくりと頷いた。シャツの内側から細い銀鎖を引っ張り出す。

 しゃらりと揺れる、古めかしい銀の鍵。

 野菊の花を象った大ぶりの飾り。全体にあしらわれた繊細な彫りこみは年代を経て薄れているが、飾りの中央部に嵌めこまれた紫水晶は瑕ひとつなく夜明けの空のごとくきらめいている。

 マーニャは知らず息を呑んだ。きらりと瞬く宝玉は、妖しく微笑む貴婦人の瞳のよう――

「あんまり見つめちゃいけないよ」

 そっと視界を塞がれた。「あれは古い魔法を宿した遺物なんだ。この教会の地下も似たような場所だけど、特別な人間だけが扱える、厄介な代物だよ」

 肩を抱き寄せられ、普段より低い声が耳元でささやく。頬に触れる巻き毛のやわらかさに、マーニャはフレデリケの腕にしがみついた。

「ねえリデル。あの地下墓所は……」

 今更のように体が震える。騎士の亡霊を思い出すと、血の気が下がる感覚に襲われた。

 フレデリケの腕に力がこもる。

「いいかい、マーニャ。きみは何も見ていないんだ」

「――」

「僕のところに来れば、同じことは何度だってある。でも、きみは何も知らない・・・・・・。必要でないことは、知らなくていいんだよ」

 両目を塞がれたまま、マーニャは公女と近衛騎士のやりとりを聞いた。

「それは〈皇女の鍵〉と申します。殿下は、『今後はもっとよく考えて使うように』との仰せでした」

「……わたくしが持っていて、いいの?」

「代々、大公家の長子に受け継がれる重宝だそうです。……殿下の兄君が大公位に就いた折、次の持ち主が現れるまで預かっていてほしいと承ったと。ご幼少のころは、宮殿じゅうの抜け道を知り尽くした兄君に連れられて冒険にくり出したものだと懐かしそうに笑っておいででした」

 エマヌエラは黙りこんでいる。かすかに鎖がこすれ合う音は、彼女が鍵を握りこんだのだろうか。

(あたし、どうしてここにいるんだろう)

 これは、自分が聞いていい会話ではないはずだ。それなのにフレデリケは視覚を閉ざしただけで、グリフィスもかまわず話を続けている。

 ――求められているのだ、理解と覚悟を。

 国の深淵のほとりに立ちながら見て見ぬふりをして、ときには身を挺してでも秘密を守り抜かねばならない人生を。フレデリケ・エリアス・グリーンヒルに添うて生きる、その重みを。

 馬鹿にするなと、猛烈に腹が立った。

(呑みこんでやるわ。このひとの嘘も、悲しい真実も。ぜんぶ呑み干して、同じお墓に笑って入ってやるんだから!)

 マーニャはきつく目を瞑った。目元を覆う手がぴくりと震える。

「教えてほしいなんて、もう言わないから」

「――うん」頷く声は子どもっぽい少年のものだった。

 フレデリケはひっそりと、「ありがとう」と呟いた。

「次は、失敗しない……ように、気をつける」

 エマヌエラの台詞に、グリフィスは笑ったようだった。

 もういいよとばかりにフレデリケのてのひらが離れていく。そろりと薄目を開くと、エマヌエラはすでに鍵を懐へしまいこんでた。

 紫色の瞳が物言いたげに揺れている。立ち上がったグリフィスが背中を押すと、エマヌエラは一歩マーニャに近づいた。

「あの……叩いたりして、ごめんなさい」

 フレデリケが眉をひそめる。マーニャは首を横に振った。

「あたしも意地悪しちゃったから、おあいこよ」

 なんと呼びかければ正解か迷い、結局、最初に教えてられた名前を口にした。

「ニコル。助けてくれて、ありがとう」

「……え」

「神父さま――サー・エドマンの正体がわかったとき、あたしを庇ってくれたでしょう?」

 両手を取ると、エマヌエラはくちびるを震わせた。

 マーニャは自然と跪き、華奢な指を押し戴いた。「おやさしく勇敢なる公女さまに、心より感謝と敬意を」

 微笑んで見上げると、エマヌエラが首にかじりついてきた。

 ぐすぐすと泣き出してしまった少女の背中をあやすように撫でてやっていると、なぜかフレデリケが半眼で睨んでくる。

「……きみって浮気性だよね」

「はっ!?」

「これだから目が離せないんだ。ああッ、まったく、ちんたら還俗が済むのを待ってたら夏になっちゃうよ!」

 口汚く地団駄を踏むフレデリケの隣で、グリフィスが呆れまじりに笑っている。

「シスター・マーニャは、実に修道女シスターらしいということですよ」

「はぁ……」

 何が何やらさっぱりだ。首を傾げていると、つんとベールの裾を引っ張られた。

 両目を赤くしたエマヌエラが洟をすすりながらこちらを見ていた。ごしごしと涙を拭い、少女ははにかんでみせた。

「マーニャ。また、会える?」

「ど、どうかしら」

 いくら婚約者の姪とはいえ、エマヌエラは雲の上に住まう姫君だ。マーニャの身分では、玉蘭宮へ気軽に遊びに行けるわけでもない。

 ちらりとフレデリケを見遣ると、彼は言わんこっちゃないとばかりにため息をついた。

「……サー・ウェリーズに頼めば、文通ぐらいならどうにかなるんじゃない? とにかく、まずは殿下のお許しをいただかなくちゃ」

 件の猫の騎士は、いつの間にか姿を消していた。それこそ魔法使いのように神出鬼没だ。

「ただし、僕は口添えしないからね。ニコルが自分でお願いするんだよ」

「わかった!」

 エマヌエラは元気に声を上げた。そのままマーニャの両手を握り、ぴょんぴょん飛び跳ねる。

「父さまにお許しを貰ったら、すぐに手紙を書くから!」

 きらきらと光を振りこぼすような笑顔に、ふとマーニャの肩から力が抜けた。

(そういえば、故郷のみんなへ手紙なんて一枚も書いたことがないままだったわ)

 弟妹たちは元気だろうか。こみ上げてきた切なさや寂しさを素直に受け容れて、マーニャは目の前の少女の手を握り返した。

 ――前に進もう。過去を想いながら、新しく出会うすべてにまっすぐ向き合っていこう。

(修道女でなくなっても、神さまはきっと見ていてくださるわ。くじけても、迷っても、傷だらけになっても、あたしはあたしが正しいと思うことをしていこう。今は難しくても、いつかリデルの隣にふさわしい一人前レディになれるように――勉強していこう)

 まずは、懐かしい家族に報告しよう。とびっきり美しくて素敵な婚約者と、かわいくて気高い友人ができたことについて。


 にゃおん、と愉快そうに笑う猫の声が聞こえた。

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シスター! 冬野 暉 @mizuiromokuba

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