隠者の誓約〈2〉

 石を削り出した階段は、細長く地下へと伸びていた。

 苔生した地面に足が着くと、ぽっかりと闇が広がった。マーニャはエマヌエラを背に庇い、灯火を掲げて歩きだした。

「すごい。地下にこんな空間が……」

「洞窟……なのか?」

 階段と同じ象牙色の岩肌が上下左右に続いている。正面に壁が現れ、マーニャはぎくりと足を止めた。

聖像画イコン、か?」エマヌエラが呟いた。

 壁いちめんに描かれているのは、群衆から剣や槍を突きつけられ、血を流している傷だらけの男だった。古代の甲冑に身を包み、懺悔するかのように天を仰いで涙を流している。

 男の頭上には十字の光条を放つ星が輝き、下方を指す光の切っ先が鏃のごとく彼を射抜かんとしていた。

「『いざ見よ、今こそ断罪の矢は放たれん。星の火によって背信は雪がれ、憐れなる咎人の魂は今いちど天に召されいとし子の御許へ馳せることを赦されるだろう』」

「え?」

「背信者ユスカの断罪の場面よ。史上最初の背教者、裏切りの使徒。御使いが人間としての生を終えるきっかけを作った、罪深き聖者……」

 ラキア教において、父なる神の愛児であり救世の御使いである聖ラキエルを我欲のために裏切り、死の受難へと追い立てたユスカは忌み嫌われている。しかし、聖典においてすでに彼の罪は赦されたとして、罪人――特に死刑囚――の守護者として密やかな信仰は今でも各地で息づいていた。

 揺らめく灯が跪く騎士の足元を掠める。口を開いた、いっそう深い闇があった。

「ね、ねぇ。ここって、本当にただの教会なのか?」

「わからないわ。……もしかしたら、聖ユスカに祈りを捧げる秘密の場所だったのかもしれない。うんと昔はもっと教義が厳しくて、聖ユスカの信者は火あぶりにされた記録があるぐらいだもの」

 暗がりでもわかるほどエマヌエラの顔は青ざめていた。

 だが、不思議とマーニャの心は凪いでいた。濃密な闇に残る匂いは、一年暮らした修道院と同じ、厳格で一途な信仰心を感じさせたからだ。

「下りてみましょう」

「えっ!?」

「たぶん、下の階にこの聖堂の本来の意味があるのよ。ニコル。あなたは、あなたの街の『真実』を確かめにきたんでしょう? なら、この下で眠っているものを見届けるのは、あなたにしかできないことじゃないの?」

 マーニャの指摘にエマヌエラは立ち尽くした。紫色の瞳が不安定に揺れている。

「どうするの? 行くの、行かないの」

「行くよ! 行けばいいんだろ!」

 姫君らしからぬ口調で叫び、エマヌエラは入り口に近づいた。

 やはり大人ひとりぶんほどの大きさの穴の奥には階段が続き、より地下へと続いている。ぐずぐず足踏みしているエマヌエラに苦笑し、マーニャは手を差し出した。

「お手をどうぞ、お姫さまプリンセス

「……馬鹿にしているだろ」

「いちどぐらいリデルの真似をしてみたかったのよ。騎士さまサーじゃなくて悪いけど、ひとりよりは心強いでしょ?」

 エマヌエラは眉尻を垂らすと、そろそろとマーニャのてのひらに手を乗せた。

 マーニャよりもやわらかくてすべすべしている、生まれついての貴婦人の手だ。瑕ひとつない肌に妬ましさを覚え、マーニャは自嘲した。

(あたしって、いやな女の子だったんだな)

 ……本当は、彼女のような『お姫さま』がフレデリケと結ばれるはずだったのだ。エマヌエラはマーニャを『未来の伯爵夫人』と言ったけれど、そう呼ばれる日はけして来ない。

(やだなぁ、傷つきたいわけじゃないのに。リデルはきっと、ずっと悲しむんだろうな……)

 階段は、予想外にあっさりと終わった。

 地下二階の空間は天井が低く、その代わり横に広かった。ぼうと灯る、燐光のあかり。

 橙色の火明かりと仄青い光が混じり合い、空間の全貌を滲ませる。

 エマヌエラが短く悲鳴を上げた。

 ――地下墓所カタコンベ

 岩肌をくりぬいた寝床にぎっしりと並べられた無数の骸骨。なかには、ぼろぼろの衣服や甲冑とおぼしきものを身につけている亡骸もある。

 光源にざらざらとぬらめくのは、錆びついた剣や槍、あるいは弓矢のひと揃い。

 彼らは兵士だった。戦士だった。騎士だった。

 いつの時代の戦没者なのだろうか。四方の天井いっぱいの寝床では足りず、床や壁の足元にも白骨化したもののふが横たわっている。

 手前の亡骸が抱えている軍旗が目に留まり、ゴクリと喉が鳴った。

荒れ野の花ヒースの紋章――)

 二十年前の内乱で謀反人として討ち取られたヴェレネルフ伯爵の旗印だ。

「この方たちは、大公家にとってのユスカなんだわ……」

「――ええ、そのとおりですよ。シスター、いえレディとお呼びするべきですかな?」

 突然響いた三人目の声に、少女たちは飛び上がった。

 振り返ると、いつの間にか老神父が燐光の波間に佇んでいた。

「神父さま?」

「まさか、ここへグリーンヒルの花嫁とファルスの姫が逃げこんでくるとは思いもしませんでしたよ。ここは〈首斬り公〉の死出の供回りを果たすために出陣した、忠義の徒の霊廟。地上では今なお逆賊と蔑まれる、無名の騎士サー・ジョン・ドゥたちの棺」

 丸眼鏡のレンズの表面を蒼い火が滑る。冷ややかに朗らかに、どこか寂しげに笑う薄緑の瞳に、あなたは、とマーニャは問うた。

 老神父は見事な所作で騎士の礼を取った。

「申し遅れました。私はこの聖リオーネ教会の司祭を務めております……そして今は亡き北部諸侯筆頭・ヴェレネルフ伯爵閣下のもとで騎士団を率いておりました、昔の名をハミル・ジュード・エドマンと申します」

 マーニャはエマヌエラの前に進み出た。

「……ごろつきどもは、どうしたんですか?」

「なぁに、少々灸を据えてやっただけですよ。今ごろ神の御許でありがたい説教を受けていることでしょう。老いぼれとはいえ、まだまだ尻の青い小僧っ子どもに負けるほど耄碌はしておりませんので」

 黒い詰襟の法衣は、微塵も汚れても崩れてもいない。ぞっとするような悪寒に、マーニャははじめてこの場で恐怖を感じた。

(このひとは――グリーンヒル伯爵家の、敵だったんだわ)

 今や、マーニャは目の前の老騎士の仇敵に類する娘だ。伯爵家の嗣子の婚約者、いずれ次代となる男児を産む女――

 憎しみを忘れられないと嘆く女性の声が耳鳴りのようにこだました。注がれる視線には、確かに彼女と同じ哀切がたゆたっていた。

 音を立てて手燭が落ちて、青い闇が地下墓所を包みこむ。

 細い手がマーニャの肩を引いた。

「ニコル?」

 マーニャの体を背に押しやり、もつれた黒髪を靡かせて公女が立つ。

「エドマン卿と、申したか」

 ぴんと張り詰めた声に、マーニャは息を呑んだ。

 少女の背中は震えながらも折れずに伸びている。

 さざめく燐光を吸いこんで、夏の星空のように清澄で、冬の星空のように荒涼とした瞳があおあおと燃えていた。

「――貴様は、ファルスが憎いか」

 老騎士の顔が曇る。

「……何がお聞きになりたいというのか。今更、何を」

「問うているのは、わたくしだ。ファルスの長子、栄えある獅子の子。ファルスのシュトラールが娘、エマヌエラ・ニコーレである!」

 しゃん、と拍車を鳴らす音がした。

 燐光が息を吹きこまれるように明滅し、煙のごとく広がって立ち上る。

「答えよ、エドマンのハミル! 貴様が今なお獅子の牙たる公国の騎士の端くれと申すのならば、答えてみせよ!」

 老騎士は苦笑に失敗したように表情を崩した。自然な動きで片膝をつき、恭しく頭を垂らす。

「おそれながら、獅子の姫御前に申し上げます」

 ――光が波打つ。

 ――炎が躍る。

「私は……貴きファルスの血を、御身に連なるすべてを、お恨みしております」

 静かな、あまりに静かな告解だった。

 いつしかマーニャの目から涙がこぼれ落ちた。

「ここに眠る者たちは、この老いぼれよりも年若く、有望な、才気溢れる騎士たちでありました。しかし! しかし騎士たればこそ、彼らは死ななければならなかった! 愚かな主君のために! 無慈悲な勝者のために!」

 稲妻が閃いたかのように空気が震えた。

「国を憂え、国を想い、国を愛する志は同じであったのに! その高潔な魂を罪人と貶められ、弔うことも許されず……死してなお闇に葬られる屈辱を強いられているッ!」

 老騎士は吠えた。憤怒と、憎悪と、それを上回る慟哭を。

「あなた方は彼らを忘れた! 彼らの無念、彼らの悲嘆を、たった二十年であっけなく! どうして恨まずにいられよう、憎まずにいられよう! もはやこの老いぼれしかファルスのユスティアーノの騎士はなく、ヴェレネルフの猟犬はいないのだから!」

 刃金を鳴らす音がする。

 具足の軋み、軍靴が床を打ち据える響き。青白い人影がずらりと左右を取り囲み、乱れなく整列し、剣を捧げ持つ。

 ――彼らは兵士だった。戦士だった。騎士だった。

 小さな小さな、凛と立つディッセルヘルムの公女の尊顔を拝することを許された、名誉ある大公家の騎士たちだった。

「そうか」

 エマヌエラはひそりと呟いた。大公家の血統らしい色彩を宿した瞳が騎士の面々を見渡し、伏せられる。

 それは彼らへの哀悼であり、賛美であり、赦しだった。

「大義である」

 たったひと言。

 墓を立てることも禁じられた騎士たちへ贈られる、二十年越しの勲章。

「伯父上に代わって、わたくしが礼を言おう。――死後に渡る不屈の忠誠、天晴れなり。これぞまさしくファルスの騎士の鑑、白獅子の牙たる武者の勲と心した」

 アァ、とだれかが感嘆を洩らした。

 ゆらり、騎士たちの姿がほどけていく。ぼやけた面差しは、どれも晴れやかに笑っていた。微笑みながら、ひとりまたひとりと消えていく。

「だれぞ、剣を持て」

『――ここに』

 おもむろに命じたエマヌエラの傍らへ、ひとりの若者が膝をついた姿で現れた。

 青白い亡霊の手には、錆びついた長剣があった。

 ずっしりとした武器は少女の片手には余りすぎて、エマヌエラはふらりとよろめいた。慌ててマーニャが両手を支え、なんとかふたりで長剣を持ち上げる。

「重いんだな、剣って」

「われらの魂、われらの正義、われらの誇りそのものなればこそ」

 素直な口調に戻ったエマヌエラに、老騎士は笑った。消えゆく騎士たちは、静かに姫君とかつての騎士団長のやりとりを見守っている。

「うろ覚えなんだけど――」

 剣先が老騎士の右肩をそっと叩く。その重みを噛みしめるように、彼は目を閉じた。

なれはわが剣。汝はわが盾。正しきを尊び、清きを言祝ぎ、強きを学び、弱きを知れ。誠実と友愛の真心を忘れず、故国の土と還る日まで誓いを全うせよ。汝こそファルスの牙、ディッセルヘルムの守護者なり」

 歌うような祝福に光の粒子が舞い上がった。

「新たに宣誓せよと?」

 うなだれたまま問う老騎士に、エマヌエラは首を横に振った。

「いいや、エドマン卿。これは貴殿の誓いではなく、ファルスの誓いだ」

 公女の手が朽ちかけた剣の柄を固く握る。

「もう二度と、われらの騎士を裏切り者と貶めるような過ちを犯さぬように。ファルスもまた、国を、民を、臣を守る善き騎士であらねばなるまい。わが父祖と偉大なる幼き女帝アウグスティーナの誉れにかけて」

 老騎士は面を上げ、まぶしげにエマヌエラを見つめた。

 ――にゃおん、と場違いな猫の鳴き声が響いた。

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