後日談

隠者の誓約〈1〉

 マーニャは走っていた。

 見習い修道女の証である青のベールが脱げかけそうな勢いで走っていた。つねづね口うるさい先輩修道女から鈍臭いといわれっぱなしの少女だが、田舎育ちの村娘らしく都会のお嬢さんよりは丈夫さと身軽さには自信はある。

 何しろ、つい一年前まで狼犬といっしょに山羊の群れを追いかけ回していたのだ。日当たりの悪い路地裏の泥濘に足を取られることなく、巴旦杏色の髪と尼僧服の裾を翻し、全速力で逃げていた。

「待てっつってんだろ!」

「止まんねぇとぶち犯すぞ!」

 物騒な怒号を上げながら追いかけてくるのは、風体と目つきがよろしからぬ少年たち――下町の裏通りを支配する浮浪児だ。市街の治安を守る警邏隊も手を焼く札つきの悪童どもである。

(ああもうっ、どうしてこんな羽目になったの!?)

 マーニャは泣きそうになりながら――ほとんど涙目だったが――必死に考える。

 この西区は追っ手の庭も同然だ。逃げ回っていられるのも今のうち、仲間を呼び寄せて挟み撃ちにでもされたら袋のネズミである。

(どこか、どこか彼らが入ってこられない場所は――)

「ねぇ、どこへ向かっているの!?」

 甲高い問いかけが思考を引きちぎった。

 マーニャの右手を掴んで息を荒げている、小柄な少年だった。目深に被った鳥打帽を押さえながら色白の頬を林檎色に染め上げている。

 彼こそ、おそろしい浮浪児たちから追いかけられる窮地の原因だ。マーニャは「知らないわよっ!」と怒鳴り返した。

 そう、マーニャは公都に来て一年、更には聖ベルティアナ女子修道院の外に出たことなどないに等しい。つまり、逃げ場など思いつきようもない。

(ああ神さま、聖母さま。どうか助けてください……ッ!)

 ――にゃおん、と誘うような猫の鳴き声がした。

 息を呑んだマーニャの眼前に古い聖堂の影が現れた。

 屋根のてっぺんには星十字アルマ・クロアの御しるし。錆びついた鉄門の奥へしっぽ・・・がするりと消えていく。

「こっちよ!」

 猫を追いかけて門をくぐり、聖堂の扉を何度も叩いた。

 ゆっくりと内側から扉を開く。現れた人物は、丸眼鏡の奥の目を瞬せた。

「おやおや……そのように慌てた様子でいかがなされたかな、若き姉妹シスターよ」

 銀色がかった白髪を肩に垂らした老神父がふわりと微笑む。ごく淡い緑のまなざしに縋る思いでマーニャはまくし立てた。

「とっ、突然のご無礼をお許しください。実は、とても怖いひとたちに追いかけられているんです。少しの間でかまいません。どうかあたしたちを匿っていただけませんか!?」

 老神父はマーニャと、彼女に隠れるように息を潜めている少年を見つめ、ふむと頷いた。近づいてくる暴力の気配に眉をひそめると、「お入りなさい」と子どもたちを誘う。

 扉が閉まる。――その先は、聖なる静寂が満ちる神の家だった。

 乳香と没薬の匂いがくゆる薄暗がり、やさしく揺れるきんいろの灯火。くすんだ薔薇窓の光を背に微笑む聖母の彫像。

 マーニャは心からの安堵にへなへなとへたりこんだ。

「だ、大丈夫!?」

 少年が飛びついてくる。マーニャはなんとか頷きながら、聖句を唱えて祈りと感謝を捧げた。

「ありがとうございます、神父さまファーザー

「神の家の門は何人にも等しく開かれるもの。私はその鍵を預かる者として、救いを求める仔羊の声に応じたまでですよ」

 にっこり笑った老神父は、皺深い手を聖壇――その陰にひっそりと隠れた小さな扉に向けた。

「しかし、万が一にもならず者たちに踏みこまれてしまうやもしれません。身を隠すなら、どうぞ奥へ」

 ぎゅうと少年が尼僧服にしがみつく。その仕草が甘えん坊だったすぐ下の妹を思い出させ、マーニャは彼の手を握り直した。

(これからどうすればいいの? 教えて、リデル……)

 つい先日再会を果たしたばかりの美しい婚約者を思い浮かべ、マーニャはくちびるを引き結んだ。




 マーニャがディッセルヘルム公国きっての大貴族・グリーンヒル伯爵家の『四番目の令嬢』の花嫁に選ばれた経緯を語るには、聖典よりも分厚い書物が必要になるだろう。

 フレデリケ・エリアス・グリーンヒル。高嶺に咲き誇る黄薔薇の妖精と謳われる社交界の華にして、大公家直属の諜報員候補生である未来の伯爵閣下。レディと呼ばれる影の騎士サー・ジョン・スミス

 故郷を離れ、身売りのつもりで修道院の門を叩いた十四の春。まさか髪を切ることなく尼僧服を脱ぎ、御伽噺に出てくるような迎えの馬車に乗って好きなひとの許へ嫁ぐなんて――たまに頬をつねってしまう。

 もしかしたら、本当の自分は公都へ向かう馬車の荷台でうたた寝をしているのかもしれない。そんな不安が浮かんでは、しっかり痛む頬がこれは夢ではないよと諭すのだ。

 三日に一度、サー・ウェリーズ長靴卿という名の白猫が物知り顔でフレデリケからの恋文を運んできてくれる。文面から迸るような切々とした情熱に顔も心も真っ赤に焼き焦げるたび、現実を疑うことすら馬鹿らしくなって笑わずにはいられない。

(あたし、幸せなんだわ)

 伯爵家と後見人を引き受けてくれたマザー・アンゼリーネとの間で話し合いがつき次第、マーニャは正式に還俗し、花嫁修業のために貴族の令嬢たちが学ぶ女学校へ入ることになっている。シスターと呼ばれる日々も、あとわずか……

(少しでも恩返しのつもりでおつかいを買ってでたら、こんなことになるなんて)

 思わずため息が洩れると、つないだ手がびくりと強張った。

「あの、さ」

 こわごわと口を開いた少年は、鳥打帽のつばの下で視線をさまよわせている。マーニャは心持ちやさしく「なぁに?」と尋ねた。

「巻きこんで、ごめん」

 少年のもう一方の手は白くなるほどベストを握りこんでいた。

 染みひとつない清潔な木綿のシャツに仕立てのいいベスト、ぴったりしたズボンに半長靴。子どもには大きすぎる鳥打帽だけがやけにくたびれていて、なんともちぐはぐだ。

(いったい、どこの若さまかしら)

 おつかいの帰り道、体格のいい浮浪児たちが小さな少年を取り囲み、路地の暗がりに引きずりこもうとしていたのだ。とっさに抱えていた荷物――中身は袋詰めの塩と胡椒――を投げつけ、少年の手を引っ掴んで逃走した。

 見ないふりをすれば面倒事に巻きこまれずに済んだのは確かだ。だがそんなことをしたら、たとえ還俗を控えた半人前であろうと修道女として神さまに顔向けできなくなってしまう。

 マーニャは力を抜いて笑んだ。「こういうときはね、ありがとうって言ってもらったほうが嬉しいわ」

「え……」

「神父さまも仰っていたでしょう? 困っているひとや、ましてや危ない目に遭いかけていた子がいたら、助けないほうがおかしいわ」

 ぱちぱちと少年が瞬いた。よく見ると、びっくりするほど愛らしく整った顔立ちをしている。

 意外にきりりとした眉やきれいに上を向いた睫毛は黒く、陶磁器に絵筆で描いたようだ。ぽかんとマーニャを見つめる瞳は、サフランの花を連想させる透明な紫色。

(エイリクより子どもっぽいわね……シゼルと同じぐらいかしら)

 すぐ下の弟は十三、妹は十二になっているはずだ。頬に跳ねた泥を手巾で拭ってやると、少年は眉根を寄せた。

「……そんなの、馬鹿みたいなお人好しだ」

「そうかもしれないわね。だけど、どうせなら悪いことよりいいことをして損するほうが、あたしはいいわ」

 くすくす笑う少女に、少年はぐいと鳥打帽を引き下ろした。

「変なシスター」

「マーニャよ。あなたのお名前は?」

 ゆっくり三つ数えられる間を置いて、少年は「ニコル」と答えた。

 マーニャは彼の手を引き、腰を下ろすように促した。

 ふたりが隠れているのは、聖壇の裏に設けられた小部屋だった。

 二十年前の内乱の際、教会に逃げこんできた人びとを匿うために作られた隠し部屋だという。物音が漏れないよう壁が厚く堅牢なので、浮浪児たちが聖堂に押し入ってきても見つかりにくいと老神父は言った。

 埃と黴の臭いがする小部屋は物置として使われているらしく、壊れた燭台や木箱などが適当に放置されていた。老神父から渡された手燭の灯りでじゅうぶんな広さだ。

「ねぇニコル、どうしてあいつらに襲われていたのか教えてくれる?」

 控えめにつばの内側を覗きこむと、ニコルは口元に皺を寄せた。

「……道を歩いていたら、あいつらのひとりがぶつかってきたんだ。わ……ぼくは、ちゃんと謝ったのに、服が汚れたって難癖つけてきて……洗濯代払えって」

「お金は持ってなかったの?」

「全部取られたんだよ! なのにあいつら、まだ足りない、もっとよこせなんて言ってきて……ないっていったら家から持ってこいって……」

 ニコルの顔がだんだん下を向き、細い腕で抱えた膝に落ちた。

「ひどいよ、こんなの。ぼくはただ自分の街を、自分の目で見たかっただけなのに」

「あなたの街?」

 俯いたままニコルは頷いた。くぐもった声が震えながら答える。

「母さまが、ブランシェリウムは、ぼくの街なんだって。今は父さまのものだけど……いつかぼくが、弟といっしょに守っていく街なんだって、仰ったんだ」

「……もしかして、お父さまやお母さまに内緒で来たの?」

 再び鳥打帽を被った頭が縦に揺れる。マーニャは鼻の頭に皺を寄せた。

(ブランシェリウムが自分の街って、まるで大公家の方たちみたいな言い方……)

 はたり、とマーニャはいやな予感を覚えた。

 いやいやまさかと思いつつ、ニコルの面差しに既視感が湧いて仕方がない。マーニャはおそるおそる口を開いた。

「あのね、ニコル。……リデルを、知ってる?」

 かばりとニコルが顔を上げた。

 その拍子に鳥打帽がずり落ちる。あっと思ったときには、豊かな黒髪が波打ちながら広がっていた。

 火明かりが少女・・の美貌を照らす。ぱっちりとした、猫科の獣めいた美しい目元がフレデリケに――たおやかに微笑む大公妃の絵姿そっくりだ。

「エマヌエラ……公女殿下?」

 唖然と呟くマーニャに、デッセルヘルム第一公女エマヌエラ・ニコーレは泣きそうにくちびるを歪めた。

「……もしかして、あなたがリデルにいさまの結婚相手?」

「えっと……たぶん?」

 動揺のあまり首を傾げると、ニコル――エマヌエラはそっぽを向いた。

「こんな貧相な鼻ぺちゃシスターを伯爵夫人にしようだなんて、兄さまもとことん気狂いだな」

「なっ、鼻ぺちゃですって!?」

「そのそばかすも、いかにも田舎臭くてみっともないったらありゃしない。髪なんて麦藁みたいな冴えない色だし、瞳も陰気な灰茶色じゃないか」

 マーニャはわなわなと肩を震わせた。

「……確かにあたしは鼻ぺちゃだし、そばかすがいっぱいあるし、大公妃さまみたいに胸が大きくて腰がきゅっと締まっていてお尻が立派なわけじゃないわ。美人でもないし、頭がいいわけでもないし、何か特別な才能があるわけでもない。だけど、ひとつだけ自慢できることがある」

「な、なんだよ」

「いつでも、どこにいようと、リデルの、いちばんの味方でいることよ」

 エマヌエラが瞠目して振り返る。マーニャはまっすぐ少女を見据えた。

「訂正してちょうだい。あのひとは、あなたの街の、公国のために命懸けで嘘を突き通す人生を選んだ、誇り高い騎士よ。世間知らずのお姫さまの八つ当たりなんかに、あのひとの名前を使わないで」

「……っ、無礼者!」

 ぴしゃりと乾いた音が反響する。打たれた頬の痛みに顔をしかめると、エマヌエラがひくりと喉を震わせた。

 カダンッと扉が揺れた。

 硬直する少女たちの前で扉が不穏な軋みを上げる。マーニャはエマヌエラの手を取り、じりじりと後退した。

「マッ、マーニャ」

「静かに。声を出しちゃだめよ」

 ガツン! と外から何かが扉を殴りつけた。聖壇を照らしていた立派な燭台で若い男が力いっぱい叩きつければ、古びた扉など長く保たないだろう。ああ、せめて心やさしい老神父が怪我をしていないように――

 カタリ。かすかな音が部屋の中から聞こえた。

「……え?」

 埃まみれの床を見る、足元の床板がわずかにずれていた。ハッとして埃を払うと、大人ひとり通り抜けられるほどの大きさに外せるよう細工された痕跡がある。

 マーニャは迷わず床板を剥がしはじめた。小柄な自分とエマヌエラなら、もともとの大きさの半分でじゅうぶんだ。

 ぽっかり口を開けた暗闇を照らすと、石造りの階段が地下へと続いていた。マーニャはエマヌエラに手燭を渡し、「先に行って」と言った。

「こっ、こんなところに入るのか!?」

「ごろつきどもに殺されたいの? あたしが木箱を押して入り口を塞ぐから、あなたは灯りを守ってちょうだい。早く!」

 エマヌエラは半分泣きながら闇のなかに足を入れた。マーニャはずっしりした木箱を入り口の端ぎりぎりまで移動させ、残りの床板を外せないようにした。

 とうとう扉がたわみ、外の明かりが白い針のように射しこんでくる。若者たちの怒声が聞こえ、マーニャは壊れた燭台を掴むとエマヌエラに続いて入り口へ滑りこんだ。

 金属の大きな燭台を全力で引っ張ると、床板に食いこんで即席の格子が出来上がった。荒々しく扉が打ち破られる音を背に、少女たちは手をつないで階段を駆け下りていった……

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