アストンの帰郷、あるいは福音

 四年ぶりの帰郷だった。

 乗り心地がいいとはいえない馬車の荷台から穏やかな春の空を仰ぎ、アストンは目を細めた。

 最後に見た故郷の空は、冬の色をした曇天だった。今にも泣き出しそうな空模様がまるで自分を憐れんでいるようで、無性に悲しかった。

 懐かしい故郷は、北部にある貧しい農村だ。父は小さいながらも自分の畑を持つ農夫で、両手の指の数より多い子どもたちをなんとか育てていた。

 しかし流行り風邪に倒れてパッタリと死んでしまい、長男のアストンは父に代わって幼い弟妹たちを養わなければならなかった。畑と家族を母と年長の妹たちに託し、アストンは遠い公都へ出稼ぎに向かった。

 伝手を頼って見つけた働き口は、ある商家の下男だった。細々とした雑用を言いつけられる使いっ走りである。給金は雀の涙よりも微々たるもので、とうてい仕送りには足りなかった。

 アストンは世話役の番頭に、どんな仕事でもかまわないから少しでも多く働かせてくれと懇願した。他の使用人が嫌がるような仕事も進んで引き受けた。身を粉にして朝から晩まで働きずくめのアストンを、老年の番頭は何かと気にかけてくれた。仕送りの額はわずかに増えた。

(マーニャが修道女になるっていう手紙が届いたのは、二年目の春だったな)

 代筆の手紙には、母が体調を崩したこと、それを見かねて妹が身売りすると言い出したこと、出家するという条件でなんとか思いとどまらせたのだということが綴られていた。文盲のアストンのために手紙を読み上げてくれた番頭は、よければ公都の女子修道院に紹介状を書こうと申し出た。労るようなその声にアストンは泣き崩れた。

 子どものころ、いつもアストンや幼なじみの背に隠れていた引っこみ思案の妹は、実は兄弟のなかで一番の頑固者だ。優しく、弟妹たちの面倒をよく見ていたあの子は、だれにも相談せずにひとりで決意を固めたに違いない。

 若い娘や子どもが売られることなど故郷では珍しくない。国じゅうを焼き尽くした内乱を経て新たに領主となった男爵は武芸一辺倒の騎士上がりらしく、領地の経営は常に沈みかけた泥舟だった。前領主が賊軍として処断されたという風評もあり、領民たちは荒れ地に這いつくばって細々と暮らしてきた。

(マーニャたちには、せめて村での平穏な暮らしを与えてやりたかったんだ……)

 だが、アストンはあまりに無力だった。

 たったひとり公都へやってきた妹は、あどけない灰褐色の瞳に静かな諦観だけを湛えていた。ごめんね、兄さん。涙を忘れてしまったように笑う妹の頭を、アストンは何も言えずに撫でるしかなかった。

 番頭が紹介してくれたのは、公都で最も古く格式のある女子修道院だった。男であるアストンは中に入れず、妹とは門前で別れた。どんなに声を堪えようとしても、情けない嗚咽が洩れてしまった。

 それからアストンは以前にも増してひたすら働いた。守ってやれなかった妹への贖罪のように、せめて他の弟妹たちは守れるように働き続けた。そして再び公都に青の季節が訪れるころ、アストンは倒れた。

 医者は不摂生と過労が原因だと言った。番頭からはこっぴどく説教され、アストンは何十日ぶりかの寝台に縛りつけられた。熱と疲労感に朦朧としながら、アストンの涙腺はすっかりゆるくなっていた。

 夢のなかで、別れたときのままの妹が幸せそうに笑っていた。

(兄さん、あたしは大丈夫よ。だから兄さんも自分を追い詰めないで)

 目が覚めると、番頭が慌てふためいて修道院から届いたという手紙を持ってきた。

 封筒には修道院の院長からの手紙と、なんと妹がしたためた手紙が同封されていた。妹は修道院で読み書きや計算を学んだらしい。

 院長の手紙には丁寧な文章で、妹はたいへん勉強熱心で、このまま一介の修道女で終わるにはあまりに惜しい人材であり、然るべき環境で更なる教養を身につけるべきだと記されていた。番頭によれば、院長は大公家のお生まれである雲上の貴婦人で、そんなお方に目をかけていただくなんてとんでもない栄誉だというのはアストンにも理解できた。

 妹からの手紙には、より詳しい事情が綴られていた。

 修道院では先達に恵まれ、充実した教育を受けさせてもらっていること。とても大切なひとができたこと。一度は修道院に入ったものの、彼女にしか為し得ない使命のために外の世界へ戻ったこと。もっとたくさん勉強して、彼女や、自分が生まれたこの国のために役立ちたいと考えていること。院長が後見を申し出てくれていること。

(わがままを言ってごめんなさい。だけど、どうか新しい道を選ぶことを兄さんたちに認めてもらいたいの)

 読めない文字を何度も追いかけて、アストンはやっぱりぼろぼろと泣いた。よかったなぁという番頭の言葉に大きく頷いた。それから声をつっかえつっかえ、番頭に返事の代筆を頼んだ。

 夏になる前には、アストンの体調はすっかり回復した。番頭からはくれぐれも無理をしないようにと念を押された。アストンは謝罪と、それ以上の感謝をこめて頭を下げた。

 アストンの心にはほんの少し余裕が生まれ、以前ほどがむしゃらにではなく、だが精力的に仕事に励んだ。心にゆとりが持てたことで要領よく立ち回れるようになり、こつこつと真面目に取り組む姿勢が同僚や番頭以外の上役にも評価された。すると不思議なことに、アストンは楽しさややりがいというものを感じられるようになった。仕送りの額も少しずつ増えていった。

 ある日、アストンは思いきって番頭に読み書きを教えてほしいと頼んでみた。文字が読めればこなせる仕事の幅も広がるし、いつか妹に自分で手紙を書いて送ることができると思ったのだ。番頭は快く指南役を引き受けてくれた。

 今では読み書きだけでなく基本的な計算なら難なく行える。難しい計算も、算盤という便利な道具を使えばできるようになった。さすがに帳簿を任されることはないが、使用人の間ではちょっとした代筆屋として活躍している。

 そうしてめぐった四年目の春、再び故郷から手紙が届いた。

 もはや番頭に頼る必要のなかった手紙は、まさに吉報だった。母がすっかり元気になったこと、幼なじみと結婚した一番目の妹が甥っ子を出産したこと、最近では弟たちに畑仕事を任せられるようになったこと、そして領地に優秀な代官が赴任したおかげで以前よりも暮らしが楽になってきたこと。どの知らせも希望と幸福に満ちていた。

 手紙の最後には、一度でいいから顔を見せに帰ってこないかと書いてあった。仕事に没頭していたあのころ、幼なじみと妹の婚礼にも結局出ないままだった。アストンは番頭にかけ合ってもらい、主人からしばしの休暇を得ると、旅支度をまとめて故郷を目指した。

 途中まで鉄道を使い、あとは辻馬車などを乗り継いで男爵領に入った。運よく村に向かう行商人の荷馬車を見つけることができ、最後の道程をこうして揺られている。

 アストンを迎えてくれたのは、短くも美しい北部の春の景色だった。

 低い山並の裾野から広がる荒れ地は、ヒースの紫や針金雀枝(ゴース)の黄色の鮮やかな絨毯に覆われている。村のあちこちに植えられた果樹がいっせいに白い花を咲かせ、まるで雲に包みこまれているようだ。

 はらはらと花びらが降りしきる畦道の上で、アストンは懐から一通の手紙を取り出した。

 透かし模様の入った便箋を広げると、自分のものより大人びた妹の筆跡が目に入った。

 帰省の直前、妹から届いた手紙だった。修道院を出たのち、養母となった院長のすすめで良家の令嬢のための女学校に進んだらしい。

 無事に卒業を迎えたという報告のあと、控えめに続いた文章は――結婚したいひとがいるという内容だった。どういう事情があるのか、名前や身分は明かせないという。

 おそらく貴族なのだろうとアストンは思った。もしや権力を笠に着た輩に無理やり囲われてしまったのではないかと勘繰りかけたが、便箋の向こうの妹は心から彼を愛し、生涯をともにしたいと望んだのだときっぱりと宣言していた。変わらぬ芯の強さを垣間見て、アストンは思わず笑ってしまった。

 養母も祝福してくれている、彼も兄に結婚の許しを乞うべきだと考えているのだと一生懸命綴られた文面に、アストンは妹の幸せを実感した。

 ふと、こんなにも妹が想っている相手は修道院で出会ったという『大切なひと』なのではないかと思った。

(女子修道院に男が入れるわけないのにな)

 だが、思えば思うほど納得が行くような気がした。アストンには想像もつかない、奇跡のようなめぐり会いを経て、妹は人生を懸けるに値するものを見つけたのではないだろうか。一途なあの子らしい生き方を。

 アストンは苦笑混じりのため息をこぼした。

 妹や義弟となる予定の人物は生家の家長である自分を重んじてくれているようだが、養女に行った時点ですでに妹はアストンの『妹』ではなくなっている。妹の後見人が認めた相手ならば、そもそもアストンに許しを得る必要などないのだ。

 きっと妹たちが望んでいるのは格式張った返答などではなく、家族からの祝福なのだろう。考えるまでもなく、妹への返信に書く言葉は決まっている。

 便箋の上にひとひらの花びらが落ちた。アストンはまばゆい花の天蓋を見上げた。

 妹の名前は庶民の娘ではありふれたものだが、その語源は古い言葉で『白い花』を意味するらしい。妹が生まれた日、村中が白々と花の雲に彩られたから名づけたのだと、亡くなった父が言っていた。

 ――まるで世界のすべてが妹の幸福を歓び、歌っているようではないか。

(幸せになれよ、マーニャ)

 夢のなかの少女を想いながら、アストンは優しく微笑んだ。

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