伯爵子息の回想〈2〉

「……そんなこともありましたね」

 ディートリオンはしみじみと呟いた。

 昔話を振ってきた父はくつくつと喉を鳴らしながら、あいかわらず魅惑的な口元に微笑を浮かべた。

「あのときは本当におかしかったなぁ。きみってば大真面目に訊いてくるんだもの」

「そりゃあ父親が会うたびに女装していたら不審に思うでしょう。しかも『母上』なんて呼ばせるし」

「ああ。あれはねぇ、きみが生まれたときにマーニャと相談して決めたんだよ。マーニャを『お母様』って呼ばせて私のことは『母上』にしようって。もしも何かあったときのためにね」

 最高級の黄玉のような瞳を細めて懐かしそうに語る父を、そっくりな目を半眼に据えてディートリオンは睨んだ。

「おかげで、はじめての夜会でうっかり呼び間違えて笑い者になりましたよ」

「ミリアはそんなことなかったのにねぇ。きみの意外とおっちょこちょいなところはマーニャに似たのかな」

 大公殿下のおわしますブランシェリウムにあるグリーンヒル伯爵家の邸宅、その主人の執務室にいるのは、現伯爵と嗣子である長男だけだ。長女はひと足先に伯爵家の領地へと向かっている。あともう少ししたら、父子も公都を発つ予定だった。

 グリーンヒル伯爵子息、ディートリオン・ファエル・グリーンヒルは今年で十八になる。遅い成長期を迎え、ここ数年で父や亡き祖父に並ぶ長身に育った。

 やや癖のある淡い栗毛の下、優しげに整った顔立ちは近ごろ、数多の令嬢たちの悩ましい吐息を誘っている。瞳の色は父親譲りだが、黒目がちで幼い印象を与える目元はどちらかというと母親に似ていた。

 ディートリオンが伯爵家の嗣子として披露されたのは、十六歳のときのことである。九歳まで北部にある父方の祖母の郷里で育ち、十歳から三年間、良家の子弟のための寄宿学校で学んだ。五年前に先代伯爵の祖父が亡くなり、父の襲名が正式に決まって、彼ははじめて伯爵家に嫡子として妹のミリアンナとともに迎えられた。

 ディートリオンとミリアンナがいささか複雑な家庭環境で育ったのには、父・フレデリケの職業が関わっていた。兄妹の母・マリノアはれっきとした父の正室だが、伯爵夫人としての立場は持っていない。というのも、父は伯爵家を継ぐ直前まで女性に身をやつし、大公家直属の諜報員として活躍していたのである。

(我が父ながら、化けの皮を剥がしようのない完璧な絶世の美女だったからな)

 幼いころの父を思い出し、ディートリオンはげんなりした。

 目の前の書き物机に就いた父は、記憶よりも齢を重ね、おそろしく妖艶ではあるが壮年の好紳士という枠にかろうじて収まっている。薄荷色を帯びた珍しい金髪を軽く撫でつけ、猫のような双眸を甘く細めている笑顔に老若男女問わず腰を打ち砕かれるだろう。深みのある声でそっとささやかれたら、もう逃げ場はない。

 レディ・シークレットと呼ばれ、公国じゅうの秘密を知り尽くし、その存在こそが公国最大の謎として畏怖と崇拝の的だった社交界の女王、フレデリケ・エリアス・グリーンヒル。彼女の正体が公表された当時の国内の混乱ぶりは、寄宿学校にいたディートリオンの許まで嵐のように押し寄せた。寄宿学校では身元を隠していたので級友たちから集中砲火を浴びることは避けられたが、渦中の人物の息子として舞台に上がらねばならない未来を思うと胃の腑が爛れそうだった。

(でも実際、いざ父上が伯爵になるときに目立った抵抗や軋轢がなかったのは……裏から手を回し尽くしたんだろうなぁ)

 父をはじめ、大公殿下やその幕僚たちは伏魔殿の主にふさわしい狐や狸ばかりだ。いかにも誠実そのものの笑顔の裏でどんなあくどい手口を使ったのか、考えるだけでおそろしい。

 諜報員としての一線を退いた父は、その才覚を外交官として遺憾なく振るっている。おかげで公都どころか領地に留まることはほとんどなく、領主としての実質的な執務を任されているのはディートリオンと有能な補佐官たちだ。優秀な跡取りを持って我が家は安泰だなぁ、と当の伯爵は腹立たしく笑うばかり。

 兄とは対照的に、父の外交に積極的について回っているのが妹である。『少女時代』の父にそっくりだといわれるミリアンナは、持ち前の好奇心と溌剌とした愛嬌でどこへ行っても人気者になるらしい。近年即位したばかりの東帝国の皇帝から父ともども求婚されたと聞かされたときには、思わず飲んでいた紅茶を噴き出してしまった。

(いや、ミリアを妃にというのはわかるが、なんで父上『も』なんだ。確かに昔は女装していたとはいえ、今はれっきとした子持ちのおっさんだぞ。おかしいだろ)

「そういえば、昔からディートはあんまり私に似なかったよね。髪質とか目の色とか成長期が遅いとか、ところどころは同じなのに、姉上たちに着せられたドレスは似合わなかったなぁ。いや、あれはあれでかわいらしかったけど」

「……いやなことを思い出させないでください」

 少年時代の理不尽な記憶が甦り、ディートリオンはこめかみを押さえた。

 父方の伯母たちの悪だくみで父のおさがりのドレスを着せられたのは、苦すぎる思い出である。当時の自分は確かに線の細い少年だったが、物心つく前から令嬢として育てられた父とは素質も格も違って当然だ。

「金輪際、コルセットもドレスも化粧も御免です」

「慣れれば結構楽しいよ?」

 父はにこやかに書き物机から分厚い冊子を取り出した。洒落た模様や飾り文字で彩られた表紙には、婦人向け服飾目録と記されている。

「……どうしたんですか、それ」

「出入りの商人から最新のものを必ず貰うんだ。ミリアと一緒に選ぶんだよ。あの子のとか、マーニャのとか、たまに私のとか」

 思いっきり顔が引きつった。

「父上の、ですか?」

「うん。あれ、言ってなかったっけ? 外交しごと先でね、いろいろ必要になることもあるんだよ。東帝国の宮中に女官になりすまして潜入したときなんて、軟禁中だった皇帝陛下に口説かれちゃったしね。無事に軟禁が解けて政権を取り戻したら妃になってくれって言われちゃったし。しかもミリアも一緒に」

 あのときは困ったなぁとこぼす口ぶりは本気とも冗談ともつかない。衝撃のあまり硬直していたディートリオンは、ぎくしゃくと瞬いた。

「何事もなくて、何よりです」

「本当にねぇ」

 ディートリオンは追求を放棄した。もちろん自分の精神衛生を死守するためである。

 彼は堅実な青年だった。そうでなければ、こんな父親の息子なんぞ十八年もやっていられない。

(毎回毎回思うけど、お母様はよく父上と結婚したよな……)

 マリノア・ルー・ヴェルダことマーニャは、一応は故ヴェルダ候妃の養女という身分だが、もともとは貧しい農民の娘である。

 少女時代に故郷を離れて公都の修道院に入り、そこへ暗殺者から身を隠すために逃げこんできた父と出会い――恋に落ちた。そして修道女ではなく、彼の生涯の共犯者になることを決めたのだという。父によると、そこには政治的な思惑も絡んでいたらしい。

 北部の小さな農村で自分と妹を育て上げ、父が伯爵になってからも正夫人として表に立つことはなく、ひっそりと伯爵領で暮らしている。一度は修道女を志したせいか、慈善活動や平民への教育支援などに熱心で、領民の子どもたちや希望者に無償で読み書きや計算の手ほどきをするほどだ。おかげで領内ではすっかり『マーニャ先生』で通っている。

 控えめで慎ましく、少女のように純朴なところがある母が日陰の茨道を歩く人生をなぜ選んだのか、今でもディートリオンにはよくわからない。だが、父のどんな評判が聞こえてこようと、いつでもはにかむような笑顔で「おかえりなさい」と出迎える姿こそ、母の変わらない強さの証なのだと思う。

 そんな母だからこそ、人を惑わし続けてきた父は本当の姿を見失うことなくいつでも自分らしく笑い、ディートリオンとミリアンナは平凡とは言い難い家庭環境に卑屈にならず両親を愛することができるのだろう。

 他人から見れば真昼の月のようにあやふやな存在かもしれないが、ディートリオンたちにとって母こそがたったひとつの太陽だ。

「――さてと、そろそろ時間かな?」

 父は上着の隠しから懐中時計を取り出し、正確に時を刻む文字盤を見た。そろそろ出発の準備が整い、伯爵父子が執務室から出てくるのを使用人たちが待ちかまえているだろう。

 椅子から腰を上げた父が服飾目録を小脇に抱えているのを見つけ、ディートリオンはひくりと頬を震わせた。

「……それも持っていくんですか?」

「もちろん。向こうに帰ったらマーニャと一緒にたくさん選ぼうと思って」

 父の上機嫌ぶりに、思わず母を案じずにはいられない。まるで恋人のように母を溺愛している父だが、たまにその愛情が妙な方向へ暴走することがある。

 母が恥らったり涙を堪えたりすると、父は異様に喜ぶのだ。それで機嫌を損ねてしばらく口をきいてもらえなくなったりしても、にこにこと母を抱き締めたり撫で回したりしている。結局のところ父に弱い母の根負けで終わるのがお決まりだ。

 性格的に質素なものを好む母を飾り立てるのも、父の愛情表現のひとつである。最近ではミリアンナも嬉々として加わるから凄まじく容赦がない。ディートリオンとしても、父や妹の見立ては間違いなく、似合っているのでそれほど羞恥に悶える必要もないと思うのだが……。

(というか、お母様はもっと着飾っていいと思うんだけどな。いや、農家のおかみさんたちと一緒に土まみれになりながら汗をかいたりしている姿もお母様らしくて好きだけど。『こんな大きなカブが採れたのよ!』って見せてくれたときの満面の笑顔はかわいかったな……)

 思い返しているうちに、なんだか年甲斐もなく恋しくなってきてしまった。素朴だが味わい深い母の手料理を囲んで、久しぶりの家族の団欒を楽しみたい。

「父上、くれぐれも手加減してさしあげてくださいね」

 父の横暴に耐え兼ね、母が寝室に立てこもったりしたら一大事だ。念を押す息子に、父は意味ありげに笑みを深めた。

「できる限り気をつけるよ」

(……これは無理かもしれないな)

 ディートリオンは数秒であきらめた。

 何しろ、昨今稀に見る父の多忙ぶりとそれによる鬱屈を間近で目にしてきたのだ。大公殿下に喧嘩を叩きつける勢いで数ヶ月にも及ぶ奇跡のような長期休暇をもぎ取り、羽を伸ばしにというか母を愛でるために今回の帰省を決めたのである。

 自分にできるのは、母の堪忍袋の緒が切れぬよう神に願うことぐらいだ。

 とりあえずは、母に心からただいまと言おう。

「それじゃあディート、懐かしの我が家へ帰ろうか」

 少年のように浮き立っている父の声に、ディートリオンは小さく苦笑した。

「はい、父上」

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