九、朝陽

 永嘉えいか五年六月二日の朝陽あさひが、あたりを照らしておりました。

 はるか遠く西のはての亀茲きじからやってきた僧の仏図澄ぶっとちょうは、着ている糞掃衣ふんぞうえの裾をまくり上げ、膝まで洛水らくすいの水に浸りながら手を伸ばし、またひとつ、しかばねをつかみ、抱え、水から揚げました。

 ふりさけ見れば、都から今も細くたゆらに昇る黒い煙が、城壁にはためく無数の軍旗が見えましたけれども、仏図澄は気にとめることもなく、哀れな屍をひたすら水から揚げるのでした。

 仏図澄がいる洛水の水面には、無数の屍がまだ浮きひしめいておりました。昨晩の争いで亡くなるのに、老若男女、晋人しんじん胡人こじんのへだてはありませんでしたらから、仏図澄もまた、へだてなく屍を掬い、目を閉じさせ合掌させて経をあげたあと、埋葬しました。

 そうして供養した屍が、幾百幾千となるのか、仏図澄にもわかりません。まだ洛水に水漬みづく屍が、幾千幾万になるかもわかりません。そして、それらはたいしたことではありませんでした。大切なのは、全ての屍を供養しなければならないということだけでした。

 男がひとり、都のほうから走ってまいります。

御坊ごぼう

 仏図澄をよぶ男は、さいきん仏門に入ったばかりでした。青々とした剃髪ていはつの頭には、汗が光っております。

「帝は、ついににとらわれたそうです」

 仏図澄は、返事をしませんでした。帝も、胡も、仏の前ではみな同じです。男は、まだそういった俗世の区別が、ぬけきらないのです。

 説教をするかわりに、仏図澄は何も答えないまま、供養をつづけました。言葉で諭すよりも、どうあるべきかを行動で示すべきだと思ったからでした。

 男は仏図澄がまるで反応しないのを、不思議がっていましたけれども、仏図澄が掬い抱えた屍を見て、目をむきました。

「御坊」

 動揺して、男は仏図澄をまたよびました。仏図澄が抱えた屍に髭がなく、さらに入れ墨があるのを見て、驚いています。驚いて、嫌悪に近い表情が、その顔に浮かびました。

「そは黥面げいめん宦官かんがんですぞ」

 やはりそれも、つまらない俗世の区別にすぎません。男は、あきらかに、屍の生前を勝手に想像しているようでした。黥面の宦官であるから、きっとこうだったのだろうと、妄想をたくましくしているようでした。

 みな同じであるという教えが広まるのは、いつになるでしょうか。人が、区別と思い込みのなく、他人をみとめ共に生きるようになるまで、幾星霜かかるでしょうか。そしてそんな世が到来するまで、どれほどの血が流れるでしょうか。いま洛水に浮いている幾千万の屍は、くり返しくり返し、現れるでしょう。屍になった誰一人として、同じ人はなく、再び生きることもできないというのに。

 仏図澄は、男に構わず屍を抱きかかえ、岸辺へ揚げ、すでに揚げた屍の隣へそっと横たえました。ほかの屍と等しく閉眼させ合掌させ、救われるよう、誠心誠意、祈りました。

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伸手 久志木梓 @katei-no-tsuru

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