第五話  素敵なお方

 いちしの花(曼珠沙華まんじゅしゃげ)群れ咲くいちで、あの日、億野麻呂おのまろさまと会えて良かった。




 阿耶売あやめは本当にそう思う。




 あの日は本来、書をたしなみながら、家で過ごそうと思っていた。


 之伎美しきみが、庭に面した簀子すのこ(廊下)に腰掛け、ぼんやりと秋の晴れた空を見ながら、


夏麻引なつそびく───、宇奈比うなひをさして───、飛ぶ鳥の───。飛ぶ鳥の………。」


 と小声で唄を口ずさむのを聴きながら、紙に書をしたためていると、筆の穂先が、なんでか、次々と割れた。

 取り替えた四本目の筆も使い物にならないとわかった時、俄然がぜん、新しい筆が欲しくなった。


「いいわ、之伎美しきみ、市歩きをして、筆を求めましょう。」


 あの頃……、十四歳の之伎美しきみは、突然わけもなく泣きだし、外出したがらない日も多かったが、その日は気分が良かったらしく、唄を口ずさむのを止め、


「ええ、行きます。」


 と、あたしに向かって笑ってくれたのを覚えている。


 市を歩いて、物陰で何やらにぎやかな家族を見つけたのは、本当に偶然だ。

 楽しそうな気配に、遠くから之伎美しきみとこっそり注目していると、父親らしき人が、ぱたっと倒れた。

 気分を悪くしたのならいけない、と、若いおのこに声をかけた。

 それが億野麻呂さまだった。

 優しい声音。爽やかでおのこらしい笑顔。

 あたしも、之伎美しきみも、佐味君さみのきみの億野麻呂おのまろさまだと、すぐに分かった……。


 



 

      *   *   *






 億野麻呂おのまろが妻たちを泣かせた四回目は、之伎美しきみだ。






 務司まつりごとのつかさの務めを終えた億野麻呂の、屋敷へ帰る足取りは、軽い。

 なにしろ、阿耶売あやめのお腹に、緑兒みどりこができたのだ。


(ふっふっふ〜。まだお腹は平らだけど、そこにいるんだよ〜。オレの子がっ!)


 にこにこ笑顔で、


「帰ったぞ〜。」


 と屋敷に帰ると、そこには真っ赤な顔で憤怒する阿耶売あやめと、顔面蒼白でうつむ之伎美しきみがいた。

 億野麻呂おのまろきもを潰した。


「なっ、なに? なんなの?! どうしたの?」


 之伎美しきみは申しわけなさそうに、


「ごめんなさい、阿耶売あやめ姉さま……。お許しください、億野麻呂おのまろさま……。」


 と、はらはらと涙をこぼした。




   *   *   *




(まったく、なんて失態しったい!)


 阿耶売あやめは目を釣り上げて、同母妹いろもを叱った。


「あたしのお腹に緑兒みどりこ(赤ちゃん)がいる最中さなかに、おまえまで緑兒みどりこを作って。

 億野麻呂おのまろさまのさ寝のお相手ができないなんて。何のために、あたし達二人いるのです!」


 このままでは、何ヶ月も、億野麻呂おのまろさまに寂しい一人寝をさせてしまう。

 億野麻呂さまの家柄なら、あと一人、二人、吾妹子あぎもこ(愛人)がいても、おかしい事は何もない。

 この機会に、吾妹子あぎもこを作られてしまったら……。

 億野麻呂さまの愛が、あたし達二人から離れてしまうかもしれない。


 そんなの嫌。


 せっかく、素敵なおのこの愛を手に入れたのに。


 何より、どんなに之伎美しきみが泣く事になるか。

 自分が緑兒みどりこを作る時期をずらし、夜のお相手ができていたら、愛を失わず済んだかもしれないのに、と、自分を責める事になるであろう。


 そんなの絶対、嫌!


 そんな之伎美しきみの涙は、見たくない!





 億野麻呂おのまろさまがうわずった声で、


阿耶売あやめ之伎美しきみ───?

 何を怒って……?

 待て、まず、之伎美しきみ緑兒みどりこができたのか?」


 と問う。之伎美しきみが、


「はい、お腹に、億野麻呂さまの緑兒みどりこができました。」


 とうつむいたまま言った。

 億野麻呂さまが、かっ、と怒りで目を見開き、あたしに、


阿耶売あやめ!」


 と怒鳴り、之伎美しきみを手荒く抱き寄せた。

 あたしは、その初めて見た怒髪衝天どはつしょうてんの億野麻呂さまに、びくっ、と肩をすくめた。


之伎美しきみを、なぜそんなに叱る!

 めでたい事だ、嬉しい事だ、之伎美しきみにこんな辛い顔をさせることか?!

 おまえは、同母妹いろもを守りたいのではなかったのか?

 その気持ちは消えたのか?

 何のために、あたし達二人いるか、などど……。オレはそのような好色こうしょくで二人を妻にしたわけではない!」


 億野麻呂さまが本気で怒っている。

 怒ると、こんなにも怖いのか。

 

 億野麻呂さまは、腕のなかの之伎美しきみを、ぎゅっと固く抱きしめ、怒りを抑えた声で、


之伎美しきみ緑兒みどりこができて、嬉しい。そんな顔をするな。喜べ。心から喜べ。」


 と言った。


「ふ……。」


 之伎美しきみの目から涙がこぼれる。

 億野麻呂さまが、きっ、とあたしを睨みつけ、冷徹な声で、


阿耶売あやめ、さきほどの言葉を之伎美しきみに謝罪しなさい。」


 と言った。

 あたしは、どうしても億野麻呂さまに確認しておかなければならない。

 ぶるぶると震えながら、


「ふ、ふ……、二人ともさ寝のお相手ができなくては……。」


 となんとか言った。

 きっと、顔から相当、血の気が失せていたのであろう。

 億野麻呂さまの怒りの気配が、ふっと緩んだ。


吾妹子あぎもこ(愛人)を他に作ったりしないよ。」

「本当ですか!」


 之伎美しきみの泣きじゃくる声と、あたしの大きな声が、かぶった。

 億野麻呂さまはため息をついて、


「本当だよ。あのね、二人とも、オレがどんなにケダモノだと思ってるんだい……。」


 と、なぜかぐったりした顔をした。

 之伎美しきみは透明な涙を流しながら、しっかりした声をだした。


「億野麻呂さま、お姉さまをそれ以上、叱らないで下さいまし。

 謝罪なんて良いんです。

 いらないんです。お姉さまは、いつだって、あたしのことを考えてくださっています。大切なお姉さまです。

 億野麻呂さま……。

 あたし達の父上は、母刀自ははとじのお腹に久君美良くくみら姉さまがいる時に、吾妹子あぎもこを作ったんです。

 母刀自は、おのことはそういう生き物だから、緑兒みどりこができたら、用心するのよ、と、教えてくださいました。

 だから……、姉を責めないでくださいまし。」


 億野麻呂さまが、ふ───っ、と長いため息をついた。


天地乎乞禱あまつちにこいのむ(天地の神に願い祈る)、億野麻呂おのまろうけひをする。

 おみなは、阿耶売あやめ之伎美しきみだけ。他に妻も吾妹子あぎもこも作らない。」


(あ……!)


 あたしは息を呑み、之伎美しきみは億野麻呂さまにすがりつくように、


「億野麻呂さま……! わあああ……!」


 大泣きをしはじめた。 

 あたしは、


之伎美しきみ、言い過ぎたわ。謝罪します。億野麻呂さま、あたしは酷い思い違いをしておりました。

 父上と、億野麻呂さまは、違う。

 思い込みを謝罪いたします。

 こんなあたしを、お許しいただけますか。」


 と静かに謝った。億野麻呂さまは優しく笑い、


「もちろん、許す。恋しい阿耶売あやめ

 オレも怒りすぎた。怖かったろう? ……おいで。」


 と、之伎美しきみを抱いていないほうの、右腕を広げてくださった。


「はい。」


 あたしは、ゆっくり億野麻呂さまに身をすりよせた。之伎美しきみはぐしゃぐしゃに泣きながらも、身体をずらし、あたしの場所をつくる。

 億野麻呂さまに優しく抱きしめられ、


(億野麻呂さまは、なんて素敵なお方なんだろう…………。)


 胸に込み上げてくるものがある。

 あたしは噛みしめるように、


「億野麻呂さま、恋い慕っております。」


 と言った。之伎美しきみもすぐに、


「うぅ、あたしも、恋い慕っております!」


 と涙声で言った。

 之伎美しきみと目があった。之伎美しきみは、にこっと笑ってくれた。

 二人とも億野麻呂さまの腕のなかで、至近距離。

 体温の温かさが、伝わる。

 億野麻呂さまの、温かさ。

 之伎美しきみの、温かさ。

 温かさにすっぽりと包まれる。

 心に安らぎが満ちる。

 

 



 

 もう、昔の───。





 

 友人だと思っていたおみな

 喩手田児ゆてたこから、女童めのわらはだけの宴に呼ばれ、あたし達だけねずみの姿焼きを料理の皿に盛られ、


「ほほほ、鼠がお似合いですのよ、寝ずのつましか、もう見つからないでしょうからねえ!」

 

 と十四歳の喩手田児ゆてたこから酷い暴言をはかれた時。

 之伎美しきみは真っ青になって、一歩も動けなくなってしまい、あたしはわら喩手田児ゆてたこの顔に白酒しろさけをぶちまけてやり、


黄泉よみに落ちろ!」


 と怒鳴り、動けない之伎美しきみを抱えて、引きずるように帰宅した。


「あたしが之伎美しきみを守るって言ったでしょう? 久君美良くくみや姉さまの分まで、あたしが必ず守るわ!」


 あたしがそう言って抱きしめると、之伎美しきみは泣きじゃくった。

 それから、之伎美しきみは、何もしてない時にも、ふいに涙を零すようになった。

 いつも泣いてばかりだった。

 




 もう、あんな辛い日々は、来ない。





 もう、あたしが一人で守るのだ、と、気負わなくて良い。

 

 億野麻呂さまが、守ってくださる。


 億野麻呂さまを、頼って良い。


 億野麻呂さまを、二人で思う存分、愛して良い。




「オレも二人を恋い慕っているよ。

 大事な、オレの妻たち。

 二人とも、元気な緑兒みどりこを産んで欲しいなあ。」


 億野麻呂さまの、いつもの穏やかな、優しい声がする。


「はい!」

「必ずや。」


 あたしと之伎美しきみは、元気に返事をした。




   




    *   *   * 



 ※著者より。

 喩手田児ゆてたこは、ちょうど阿耶売あやめ之伎美しきみが幸せな婚姻をした頃、姉が不名誉な帰還をし、「あそこの家のおみなめとるのに良くない。」と評判になり、自分がつま探しに苦労することになります。

「お姉さまのせいよ!」 

「なんですってぇ! あたしは何も悪くないわよ!」

 と姉妹で取っ組み合いの喧嘩をすることになります。やれやれ。

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