終話  甘く薫る風

 阿耶売あやめ之伎美しきみも、無事におのこ緑兒みどりこを産んだ。

 姉妹は、子供に、


「あたし達は二人とも、三田麻呂みたまろ宗麻呂むねまろ母刀自ははとじのようなものですよ。」


 と言い聞かせて、二人の男童おのわらはを分け隔てなく育てた。



     *    *    *





 (───花咲はなさかば  つねにやひむ  いやとしのはに…… )



 

 今年も、億野麻呂おのまろの屋敷の庭に、久君美良くくみらの可憐な白い花が咲いた。

 風に優しく搖れるさまは、繊細な白い刺繍が萌ゆる緑の上で波打つようで、目を奪われる。


 松の木が立派な広々とした庭を、夕陽が茜色に染める、夕暮れ。


 年端のいかぬ男童おのわらはが、ぐすっ、ぐすっ、と声を押し殺しながら泣いてる声が、やぶに隠れた庭の隅から聞こえてくる。


 五歳になった宗麻呂むねまろ───之伎美しきみの息子が、一人、家族が団欒だんらんしている広間を抜け出し、庭で悔し涙を流しているのだ。

 

 何かあったのだろう。


 億野麻呂は藪を分け入り、気軽な笑顔を作り、愛する息子が腰掛ける石のとなりに、腰を降ろした。


「どうした?」


 億野麻呂は穏やかに訊く。

 普段から優しい気質の宗麻呂むねまろは、之伎美しきみに良く似た愛らしい顔を、涙でぐしゃぐしゃにして、


「父上。……馬養うまかいが、オレの家族は変だ、って言うんだ。

 母刀自は普通一人だ。

 だって、いもは一人なんだからって言うんだ。」


 と言った。

 馬養うまかいとは、佐味君さみのきみ管轄かんかつである、上野国かみつけののくにの緑野郡みどののこほり保美郷ほみのさとに住む郷人さとびと

 宗麻呂むねまろの遊び相手のわらはだ。


「うーん、そうかあ。」


(そうきたか……。)


 億野麻呂は腕を組み上をむいて、うーん、と思案した。


 いも

 それは、おのこにとって、たった一人の運命のおみなだ。


「そうだなあ。たしかにいもは一人って言われているな。でも、オレの妻は二人いる。」


 億野麻呂は考えながら話を続ける。

 最近、思うことがある。


「父は思うんだ、宗麻呂むねまろ

 阿耶売あやめ之伎美しきみは、もしかしたら、前世、オレのいもで、何らかの理由で、魂が二つに分かれて、阿耶売あやめ之伎美しきみとして、この世に生まれてきたんじゃないかな、って。

 二人とも、オレのいもの魂を持って、生まれてる。

 だからこんなにも、オレは二人が愛おしい。

 心から、恋うているんだ。

 ……父は、おかしいか? 宗麻呂むねまろ。」


 宗麻呂むねまろはうつむき、


「わかんない。でも、阿耶売あやめ刀自とじ(この場合の刀自とじは尊称)も母刀自ははとじも、オレ、大好きだ。」


 と言った。億野麻呂は明るい、暗さの一つもない笑みを浮かべ、隣に座った宗麻呂むねまろの小さい頭をガシガシと撫でた。


「それで良いんじゃないか。大好きってハッキリわかってる。それが大事なことなんだ。

 大好きなものは、守れ。

 どんな困難からも、たとえ響神なるかみ(雷)のような、大きな恐怖からも、必ず守れ。それがおのこというものだ、宗麻呂むねまろ。」

「はい。」

「そうそう、だからと言って、父のように、いもは二人いるかも、と探すなよ。普通は一人だ。父は特別だ。」

「え───! なんだかずるい……。」

「ははは! そうだな、父はずるい。幸せで、ずるいと思うぞ。素敵な妻が二人もいるんだからな……。」


 宗麻呂むねまろは泣き止み、くしゃっとわらはらしい笑顔を浮かべた。

 億野麻呂は、ああ、幸せだな、と思う。

 億野麻呂の父も、このように、息子に遠慮なく、妻の自慢をするおのこだった。

 億野麻呂は、自分も、その自慢話をできる立場を手に入れたのである。


 幸せだ……。


 宗麻呂むねまろの頭をガシガシしながら、この話を、皆にもしてやろう、と、億野麻呂は思った。

 妻たちにも。

 他の三人の子供たちにも。


 屋敷のなかから、貝あわせで遊んでいるのであろう、阿耶売あやめの息子、三田麻呂みたまろの、


「ほら、オレが一番!」


 という得意げな声と、まだ幼い二人の娘、奈弖之児なでしこ堅香児かたかこの、


「あ〜、またとられた〜。」

「とられたー、うえ───ん。」


 という悔しそうな声がする。ほほ、という麗しいおみなの笑い声がして、阿耶売あやめの、


「ほほ……、泣かないのよ。奈弖之児なでしこ。」


 と慰める声と、之伎美しきみの、


「さ、貝あわせは終わりにして、団子を皆でいただきましょう!」


 という明るい声がする。そのうち、


宗麻呂むねまろはどこ?」

「誰ぞ、宗麻呂むねまろ億野麻呂おのまろさまを呼んできてちょうだい。一緒に団子をいただきたいわ。」


 と妻たちが家人けにんを使う声がした。

 億野麻呂が首をひねって、松の木に隠れた屋敷の方を見ると、押し上げ間戸まどの向こうに、家人けにん蠟燭ろうそくともしはじめているのが見えた。

 もう、あたりは薄暗くなりはじめている。

 億野麻呂は、


「さあ、団子を食べにいこう。」


 と腰掛けた石から立ち上がる。

 ふと、久君美良くくみらの花のほのかな甘い芳香が、微風にのり届いた。

 億野麻呂おのまろは微笑み、愛する息子、宗麻呂むねまろと手をつなぎ、橙色のあかりがともる屋敷に帰っていった。








         ───完───




  



    




 

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