cannig&cigarettes

清透

第1話

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「街」というものを本当は知らない。

 物心ついたときには辺りは半壊した大きな建物がほとんどであったし、そのころには彼らは二人きりで生きていたから、そもそも文字なんて読めはしなかったがたとえば「病院」と書かれた建物が病や怪我に苦しむ人を癒す場所であることとか「学校」と書かれた建物が彼らと同じ年頃の少年少女に教育を施す場所であることとかを教えてくれる親切な大人はいなかった。もしかしたら探せばいたのかも知れないが、リスクが高すぎる。

 何せ大人だってただ生きることに必死で身寄りの無い子供に施しを与えている余裕など無いのだから。

 ともかく彼らは二人きりで生きていた。



 轟音。

 無機質、という言葉を体現したような灰色の建物が土煙を上げて積み木のようにその4分の1程を倒壊させた。

 生きているほとんどの人間は名前を知らない、足の長さだけで15メートルはあろうかと言う機械だか怪物だかわからないモノが土煙を割ってぬぅっと姿を現す。彼らはそれの全体像すらあまり知らない。だいたいいつもそれは唐突に現れ、見境無しに、とりわけ生きのいい人間を狙い踏み潰さんと襲ってくるものだからゆっくりと全身を見上げている余裕もなかった。

 いつかじっとそれの姿を見上げていた人間はその足の裏に消えた。

 ただ、大きい、速い、襲ってくる。それだけの情報で彼らには充分だった。

 関節の軋む音を立てコンクリートの欠片をばらばらと散らしながら、歩行のためではなく獲物を踏み潰すために持ち上げられた足の下をすり抜けて、半壊した建物の中から彼らが飛び出してくる。

「何個!?」

「缶詰めのちっちゃいのとおっきいの一個ずつ!あとタバコのこれっくらいの一本見つけたけど俺んだからね!」

 真っ直ぐ走れば追い付かれ踏まれると知っている彼らはそれぞれ怪物をからかうように蛇行して走る。

 緊迫感はあっても彼らにはこれが日常だ。然程怯えてはいない。首尾の報告だが、淡い色の髪をした方の人指し指と親指で示した「これっくらい」を濃い色の髪をした方は見てはいなかった。

 建物としての機能を放棄したコンクリートの塊を迂回し、いつか誰かと共に踏み潰された何かを飛び越え、今日見付けた少ない食料を手にただ走る。

「賭けよう!」

「え?」

「俺の方追っかけてきたら大きい缶詰めお前の!お前の方追っかけてったら小さい缶詰めがお前の!」

 一方的に言い放った濃い色の髪をした方は、ザッと音を立てて十数センチ滑って急ブレーキをかけると間髪おかずに進路を90度変え大きな建物の隙間、細い路地へとあっという間に姿を消した。

 残されていつの間にか走るペースが落ちていた淡い色の髪をした方は、獲物が二手に分かれて迷うような素振りを見せた後の怪物がすぐ後ろに足を降り下ろしてアスファルトを割ったために足を止める訳にもいかず、宗教画を知っている人間がいれば「天使のよう」と形容したかも知れない顔立ちに似つかわしくない舌打ちをひとつ漏らして、ハードルのように道に横たわるコンクリート製の円柱を飛び越え彼らが何パターンも持っている怪物をまくルートのひとつに入った。当然彼らはハードルなどと言うものはおろか、ただ「速く走る」ことを目標としていた人間がいたことさえ知らないが。

 こうして日々の糧を得る。怯えるでもなく、絶望するでもなく、ただこの「日常」を受け入れていた。


 いつかこのマットレスを見付けたのは幸運だった。

 ところどころほつれてはいたがスプリングが飛び出すでもなく、運ぶのには苦労したが二人で並んで眠れる大きさのマット。ここまで状態のいい寝具にはもう出会えないんじゃないか、と二人で飛び上がって喜んだ代物だ。

 比較的保存状態のいい建物、一部は崩れているが、まあ風通しがいいと考えることができる程度に壁も屋根もある。

 そんな場所を彼らは寝床にしていた。

 コンクリートの床に思い思いに座り、今となっては生活必需品だが非常に貴重な缶切りで今日の獲物を開ける。魚の絵の描かれた小さい缶詰めは淡い色の髪をした方、愛嬌のある犬の絵の描かれた大きい缶詰めは濃い色の髪をした方。

 彼らは文字も読めないから何の缶詰めなのかもよく知らなかった。ただだいたいの缶詰めにはラベルの絵と同じ物が入っていたから、犬の絵の缶詰めにはきっと犬の肉が入っているのだと思っていた。犬は全て死ぬか首輪を捨てて野性に返っていたから彼らは過去犬と人間がどういった関係であったかを知らない。

 小さい缶詰めを開けた淡い色の髪をした方は、茹でた魚の肉の油漬けを指で摘まんでもそもそと口に運ぶ。濃い色の髪をした方が汁気の多いそぼろ状の肉に野菜の欠片が少し入った缶詰めの中身を手掴みで口に運んで頬張るのを恨めしげに眺め、スキットルの水で油っこい魚の肉片を流し込んだ。

「俺これ嫌い」

「…我が儘言うなよ、他に無いんだから」

「だって、なんかぎとぎとしてるし塩っ辛いし…っていうか、賭けの内容からおかしいんだよ!追っかけられたのに飯少ないって、反対じゃないと変だ!」

 抗議の声を上げてきゃんきゃん喚きながらも油一滴も溢さないように缶詰めを持つ淡い色の髪をした方。

 呆れ顔でそれを聞き流していた濃い色の髪をした方は、相棒の缶詰めの中身が3分の1程度になるまで待って立ち上がると淡い色の髪をした方の膝の横に中身が4分の1程度に減った犬の絵のラベルの缶詰めを置き、かわりにその手から魚の缶詰めを取り上げた。

 そのまま屋根の一部が崩れてすっかり二人の喫煙スペースと化した場所へ移り、いつか拾ったシガレットケースを開けて長さも銘柄もバラバラの煙草の中から一番短いものを取り出し唇に挟む。

 犬の絵の缶詰めを手に追ってきた淡い色の髪をした方が横から差し出したマッチに顔ごと煙草を近付け火を点けた。


「街」を構成する建物が全て機能していた頃、ここはどんな「街」だったのか。

 どれくらいの人間がいたのか。どんな暮らしをしていたのか。

 剥き出しの肉の組織とネジや鉄骨を組み合わせたようなあの「怪物」は何なのか。

 この「街」の外はどうなっているのか。

 彼らは何も知らなかった。けれど、それは彼らの他にこの街に住んでいる少年や少女達も同じだった。

 大人達は一概にそうとは言えないが、子供達は基本的に集団で生活をしている。幼児とも言える小さい子から、もうすぐ大人になる子まで。

 集団で生活をしている子供達は、水の確保、食料の調達、寝場所探しなんかの仕事を平等に分け合って行っていた。

 何も知らなかったが、ただ早く走ることだけは知っていた彼らは、何度か規模の大きな子供達のグループから誘われたが断っていた。

 基本的に彼らは、二人以外の「誰か」がいると眠れなかったから。

 缶詰の少ない食事を終えて煙草を吸い、草臥れたマットレスの上で猫のように丸くなって二人で眠る。

 眠る前には、時々二人で身体を触りあったりした。

 思春期の少年達だから、親や暖かい家庭があればふかふかした布団の中でこっそりと一人きりで楽しんでいたであろう行為も、街がこの状態で二人だけで生きている彼らにはやはり二人で共有するものだった。

 砂ぼこりにまみれた薄い皮膚を細い指でまさぐりあって、不器用に唇を重ねて。しなやかな足を絡ませて殊更敏感な部分を二人で弄りあって、果てればそれが二人だけの秘密の行為だとはなんとなくわかっていて共犯者のような悪戯っぽい笑みを交わす。

 寝具はおろか身体を洗う為の水なんてなかったから、そう頻繁には行えなかったが、気持ちのいいこの行為はなんだか秘密の儀式のようで止められなかった。


 あの機械のような生物のような怪物は、何故か日中しか現れなかった。

 辺りがはっきりと見える程度に明るくなってから錆びた金属が軋むような音を立てて姿を現し、生物を踏み潰すべく街の中を闊歩し始める。

 夜の間に食料や水を探せたなら安全だったかも知れないが、太陽や月以外の光源が無いこの街では建物の中で小さな缶詰や細い水道管を探すのは、月明かりだけではどうしても難しかった。

 結局、人々は怪物に怯えながらも日中に活動せざるを得なかった。


 ある日、彼らが水の補給に使っていた壊れた水道管からの水が止まった。

 とある廃ビルの中、コンクリートの床からにょっきり生えて何処かを目指して伸びる途中で折れ、そこから細く水を垂らしていた筈の金属製のパイプ。

 微かに錆臭かったが飲むのに支障のない水。4つの瞳に見守られながらぽたりと最期の一息のように水滴を落として息絶えた水道管を前に、まるで黙祷を捧げるように空のスキットルを手に彼らはしばらく立ち尽くしていた。

「…どうする?」呆けたように淡い色の髪をした方が問うた。

「どうする、ったって…水、探さなきゃ」

「見付かるかなぁ…」

「見付かんなきゃ死ぬだけだろ」

 短い会話を終えるとのろのろと歩き出す二人。

 宝物であるマットレスを置いている寝床の場所を決めたのも、この水道管が近いからだった。引っ越しの覚悟も胸に、コンクリートの床で乾いていくであろう水溜まりを未練がましく何度か振り返りながら廃ビルを後にする。

 寝床を決めるまでにこの近辺のビルはあらかた調べつくしていた。例えば怪物や悪意のある人間に遭遇した時の、逃走経路なんかを考えるために。

 日が昇って辺りがはっきりと見えるようになって、彼らは食料を探しに街の中を歩き始める。

 子供達のグループはいくつもあったが、彼らを含め大体のグループは独自のマーキングを建物に施していた。この建物にはもう水も食料も無い、とチェックを入れる為。他にも、はぐれた際の避難場所、寝床になりうる建物、などグループによりいくつもマーキング方法はあった。

 それらはほとんどが他のグループの者や大人にはただの瓦礫の山のようにしか見えないものだった。

 彼らにも当然それはあり、更に偶然知ったいくつかのグループのマーキングも確認しつつ廃ビルの間を歩き回る。空のスキットルの軽さが心許なかった。

 壁にかけられた小型の看板らしきものがいくつも割れて、今はくすんでいるが元は色んな色をしていたであろう硝子片を散らしている半壊したビルはマッチの燃え滓や空の缶が転がっているばかりで何の収穫もない。

 建物自体の損傷は少ないが壊れた家具類で中が埋めつくされたビルは、漁ろうと足を踏み入れた一室で鉄臭い黒ずんだものがぶちまけられていて二人で顔を見合わせ後回しにした。

 壁の半分近くが硝子で出来ていたらしい小さな建物は、奥まで入っても硝子片ばかりで全て持ち去された後かと思われたが、淡い色の髪をした方が癇癪を起こして蹴り付けた瓦礫の下から奇跡的にまだ封も切られていない煙草を一箱見付けた。

 腹は減るし喉は乾くが、日々収穫はまちまち。まったく収穫の無い日もいくつもあった。

 結局その日の収穫は煙草だけで、彼らは空きっ腹を抱えて寝床に戻った。

 一日くらいなら大丈夫。死にはしない、と、均等に二人で分けた煙草を一本ずつふかしてその日は眠った。


 探索を続けたが、次の日も何も見つからなかった。

 人間と同じ大きさらしいが人の形を留めていない壊れた人形がやたらと散らばる高いビルの屋上で、沈もうとする太陽と影の濃くなる街を見下ろしながら二人揃って溜め息混じりの紫煙を吐いた。

「お腹すいたね」

「…ん」

「喉かわいたね」

「ん」

「俺ね、今なら油っこい魚でも食べれるよ」

「ん」

「でもねぇ、前に見付けたものっすごく甘い黄色いやつがいいな。あれ食べたい」

「…お前、あれ喉かわくって騒いだ癖に」

「いいじゃん。今はあれが食べたいの」

 遠く、彼らの寝床とは別のビルが轟音を上げて崩れていった。

 怪物の恐らくは今日の最後の仕事であろうそれを特に何の感慨もなく見下ろしながら、フィルターの焦げる臭いを上げ始めた煙草を磨り減った靴底で揉み消して、彼らは寝床へと帰って行った。


 空きっ腹を擦りながらマットレスの上で微睡んでいた濃い色の髪をした方は、隣で丸くなっていた筈の気配が無いことに気付いて夜中にふと目を覚ました。

 煙草の匂いに気付いて見れば、瓦礫を椅子がわりに崩れた壁と天井から満天の星空を眺める淡い色の髪をした方の姿があった。

 膝を抱えて外を見ながら煙で輪っかを作って遊んでいる彼の、淡い色の髪が月明かりにきらきらしているのを見て、何故か安心してまた目を閉じる。

 たまに、彼が一人でどこかへ行ってしまうのではないかと不安になる日があった。

 一度も口に出したことは無いのだけれど。


 朝がきて、目が覚めて。日が高く昇るのを待って、その日も二人は水と食糧を探しに出掛けた。

 まだ足を踏み入れたことのないビルを探して、瓦礫を掻き分け食べられるものを探す。

 とあるビルの奥、瓦礫の下に水が溜まっているのを見付けたが舐めてみるととても飲めたものではなかったから諦めた。

 また別のビルでは火をおこした痕跡を見付けて二人とも身体を強ばらせたが、住人は彼らと同じく出掛けているようだった。燃え滓の側に落ちていた何かの骨をくすねて水を探したが、そのビルには水場は無いようだった。

 肉は欠片も残っていない骨を二人でしゃぶりながらそのビルを後にする。

 もうふたつ程の建物を探しまわってようやく飲めそうな水の水溜まりを見付けてスキットルを満たし、二人して犬のように顔を突っ込んで水を飲んだが、缶詰はひとつも見付からない。

 粉々になった硝子を踏んで外に出るとまた淡い色の髪をした方が癇癪を起こしそうで、濃い色の髪をした方がこっそり溜め息を漏らして宥めようと口を開いた時だった。

 不意に、からん、と二人の視界に入らないところで物音が鳴った。

 獣のように辺りの音に警戒しながら、獲物に飛び掛かる前の猫のように姿勢を低くして目を走らせ物音の正体を探る。

 アスファルトの道路にぽつんと佇み影を落とす握りこぶし程の大きさのコンクリート片、先程はなかった気がする。

 気のせいか、それともーーと、濃い色の髪をした方が違和感の正体を探ろうと頭を捻っていた時。淡い色の髪をした方が小さく「あ」と声を漏らした。

 酷く耳障りな、金属が軋む音とも鳴き声ともつかない音を立てて、ゆっくりとアスファルトに影を落としてあの怪物が曲がり角から姿を現す。

 ごちゃごちゃと適当に混ぜて組み上げたような顔らしき部分の、どこにあるかもわからない"目"と目が合った気がした。


 怪物だ、と理解した瞬間、弾かれたように地面を蹴った二人は一目散に怪物に背を向け廃墟の中を駆け抜ける。

 怯えはない。いつもの通りだ、軽い緊張があるだけ。

 背後では怪物が崩れた建物の瓦礫を踏み砕き更に細かい瓦礫にしている。

 動作自体はゆっくりとしたものだが、怪物は大きい。ゆっくりとは言え一歩の幅が大きい為に、足の遅い人間は走ったところで踏み潰されるだけだった。

 走りながら、振り向いて怪物との距離を目で測った濃い色の髪をした方は、いつもよりほんの少し硬い声で言った。

「お前、来た道戻れ」

「え?」

「お前は来た道戻っていつもの道で逃げろ」

「お前は?」

「そこの角曲がる。新しい道覚えたら後で教える」

 走りながらの会話。濃い色の髪をした方の言う"そこの角"に着くまであっという間だった。

 淡い色の髪をした方が答える間もなく靴を鳴らしてなるべく勢いを殺さないよう角を曲がった濃い色の髪をした方は、思っていたより道の悪いその通りに小さく舌打ちをした。

 足音が追ってこないから振り返らないが、相棒は濃い色の髪をした方の言葉に従ったのだろう。

 きっとかつては人通りも多く賑わっていた通りなのだろうそこは、今では硝子片や瓦礫が四散するばかりで見る影もない。

 背後からはなんの足音も聞こえなくなって、もしや怪物は淡い色の髪をした方を追って行ったのだろうか、と振り向きかけた瞬間、角に建っていた建物を薙ぎ倒すようにして怪物が姿を現した。

 舌打ちをひとつ。けれど走るペースは落とさない。

 地面を蹴る度に硝子の破片が靴底で音を立てる。

 少しずつ少しずつ、呼吸のペースが乱れてくる。

 怪物の関節の軋む音と瓦礫を踏み砕く酷く重い足音に聴覚を集中させて、怪物との距離を測る。

 さっきより、離れていない。近付いてもいないが。

 相手は機械だか生き物だかわからないが、スタミナ切れというものとは無縁のようだった。

 細い路地か何かに入って怪物との距離を開け、とにかく撒かなくてはーーそう思った濃い色の髪をした方は、とりあえず目に入った曲がり角を曲がろうと滑るように足を止めて身体の向きを変え、走り出そうと顔を上げた途端に激しい衝撃と共に浮遊感に襲われ、もう一体の怪物に蹴られたと理解するより前に意識を飛ばした。



 淡い色の髪をした方は、濃い色の髪をした方に言われた通りに来た道をそのまま戻り寝床へと戻っていた。

 濃い色の髪をした方は戻って来ない。

 あっち追っ掛けてったけど、新しい道探す余裕なんかあるのかなぁ。もしさっさと撒けてたら、ついでにひとつでもいいから何か缶詰持って帰ってきてくれないかなぁ。

 寝床の中の、天井と壁の一部が崩れた二人の喫煙スペースで空きっ腹と膝を抱えて、窓がわりの壁の穴から頻りに外を眺めていた。

 空の天辺にあった太陽が、ゆっくりと移動していた。傾き、赤みを増していく。

 濃い色の髪をした方は帰って来ない。落ち着かない。探しに行こうか、と何度も思うが、もし探しに出ている間に帰ってきたら、と思うとここを離れられない。

 ひとり悶々としている間に、先日二人で分けたばかりの煙草が灰と焦げたフィルターだけになっていくつもいくつも足元に散らばっていった。


 目を開くとそこは真っ暗だった。

 死んだんだろうか、と、濃い色の髪をした方はしばらく呆っとして、とりあえず身動ぎした瞬間に一体どこから発生しているのかわからない程あちこち全身が物凄く痛んで思わず声を上げた。

 手は動く。左右両方の手を握ったり伸ばしたり、痛みを堪えながら指や肘や肩をもそもそ動かして確認した。

 額から痛みを通り越して焼けるような感覚があって、その手で頭に触れると砂や石ころのざりざりした感触とぬるりとした嫌な感触があった。何だ、と手のひらを見ようと顔の前に翳して瞼を持ち上げて、手のひらは黒い影になって見えないが手のひらの向こうにちらちらと星屑が見えた。

 建物の中?と疑問符が頭に浮かぶ。幸い背骨も内臓もなんともないらしく、手をついて打ち身の痛みさえ堪えれば上体を起こせた。

 暗くて見えないが身体の横に手を伸ばせばどうやら瓦礫の山。反対側は等間隔に段差が続いているらしい。

 登れば外が見れるか、と立ち上がろうとして、右足の足首からこれまでで一番の激痛が走って倒れ込んだ。

 触れてみると熱を持って、木の節みたいに腫れていた。

 恐る恐る靴の中で指を動かす。動く。折れてはいない。

 身体中で痛まないところはなかったが、とりわけ痛む右足を庇いながら階段を這うようにして上がる。汗だくになって登り切ると、月明かりに照らされたそこはアスファルトの道路だった。

 街の中に、地面の下に向かう階段がいくつかあるのを彼らは知っていた。ほとんどは既に埋まっていたし、埋まっていないものを寝床にしている者もいたが、怪物が時折アスファルトを踏み抜いてそこに落ちているのを見た彼らはあまり近寄ることをしなかった。

 どうやら一体の怪物から逃げている間にもう一体と鉢合わせて、蹴飛ばされてここに落ち運良く怪物の視界から外れたらしい。奴らは前方しか見えていないようだった。

 今はもう生きていないかも知れないこれを設計した人間に胸のうちで感謝をしながら、階段に付いている手摺りに掴まり左足でなんとか立ち上がる。

 左足も痛まない訳ではなかったが、右足よりはましだ。右足を引き摺りながらなら歩ける。

 口の中に入り込んでいた砂利に今更気付いてぷっと吐き出すとそこにも血が混ざっていた。どこを切ったのかわからない。歯は全部ある。

 額から血の混ざった汗が垂れてくるのを手で拭って、一歩踏み出した。

 足を引き摺りながら歩く帰路は、酷く遠く感じた。


 太陽が沈んで、月が昇って、その月が傾いてきて夜明けの前の一番しんとした時間になって。ずっと同じ場所で膝を抱えていた淡い色の髪をした方は吸い殻に囲まれた瓦礫の上で目を覚ました。

 いつの間に眠ってたんだろう。寝床を見回しいつも二人で眠るマットレスを見るが、そこに濃い色の髪をした方の姿は無かった。

 溜め息を吐いて再び膝に顔を埋めると、ざり、とアスファルトを擦る微かな音が耳に届いた。

 顔を上げて、落ちるんじゃないかと思う程に壁の穴から身を乗り出して外を見る。

 月明かりに照らされた道路を、ふらふらしながら今にも倒れそうな様子でゆっくりと歩く濃い色の髪をした方の姿があった。飛び降りて、こけつまろびつしながら駆け寄る。

 濃い色の髪をした方は、倒れないように、気を失わないように、と自身を叱咤しながらアスファルトを睨んでずっと歩いていた。運良く、悪意のある人間とは会わなかった。

 淡い色の髪をした方が駆け寄ってきた足音で、のろのろと顔を上げる。

 額からの出血はもう止まっていたが、顔にべったりついた血を見て引きつった声を上げた淡い色の髪をした方は、月明かりの下でもわかる程に汚れた服と引き摺って歩いている足首を見て何て声をかけたらいいのか、あ、とか、う、とか、いくつか短い音を溢して結局何も言えなかった。

 ただ、ふらふらしている濃い色の髪をした方に肩を貸して、その途端に意識を飛ばした痩せた身体を引き摺って寝床に帰った。

 濃い色の髪をした方はその日酷い熱を出して、何日か目を覚まさなかった。


 目を開くと、今度はいつもの寝床だった。

 濃い色の髪をした方はマットレスの真ん中に寝ていた。身体は痛まないが、酷く怠い。

 ぐっしょりと汗をかいていて、額を拭おうと手を当てるとそこに布が巻かれていることに気付いた。

 淡い色の髪をした方は、と身体を起こす。気を失う前に着ていた服と違うものを着ていることにそこで気付いた。

 喉が乾いた。腹が減った。あと煙草。

 寝床にいくつも落ちている吸い殻からまだ吸えそうなものを拾って口にくわえて、火を点けるものを探して視線を巡らせていると、淡い色の髪をした方が酷く歪んでところどころ錆びたバケツを抱えて戻ってきた。身体を起こしている相棒の姿に目を丸くしてバケツを取り落としそうになって、水をなみなみと汲んできたらしいそれから水滴を飛ばしながら置くと、泣きそう、と、嬉しい、の中間くらいの表情で駆け寄ってきた。

「やっと起きたぁ!」

「あ?あぁ」

「ばか!心配したんだからね!!」

 まだマットレスの上に座ったままの濃い色の髪をした方にすがるように身を寄せてきゃんきゃん責め立て、一頻り喚くとほんの少しだけ泣いて、それからはやけに上機嫌に相棒が眠っている間に見付けたバケツを見せびらかした。

 よく喋る相棒に、濃い色の髪をした方は時折こくん、こくんと頷いてただ責められ、淡い色の髪をほんの少しだけ撫でて、分けて貰った水を飲んだ。

 淡い色の髪をした方は甲斐甲斐しく相棒の面倒を見た。頭に巻いていた布を替えて、足首を冷やす為に濡れた布を置いていたらしく、それも綺麗な水で濡らして取り替えた。

 濃い色の髪をした方が寝込んでいた間、ずっとそれを繰り返していたらしい。右足の腫れは大分引いていた。

 なにくれと世話を焼く相棒が擽ったくて居心地が悪くて、濃い色の髪をした方がぽつりと、腹が減った、と漏らすと、待ってましたとばかりに淡い色の髪をした方は寝床の隅の瓦礫の下からいくつもいくつも缶詰を引っ張り出して相棒の目の前に並べ、自慢気に胸を張った。

 果物、犬、魚、豆、牛、卵、猫…こんなに缶詰が積み上げられているのを、濃い色の髪をした方は初めて見た。

 言葉を無くした相棒に、淡い色の髪をした方は「好きなの食べていいよ!」と言いながら果物の絵のラベルの缶詰を缶切りで開け、透明な甘い汁に漬かった黄色い果肉を指で摘まんで、濃い色の髪をした方の口元に差し出した。

 何故か、食べていいのだろうか、と思った。砂を噛んだような違和感を拭えないまま、それでも空腹には抗えず濃い色の髪をした方は差し出された果肉に食らい付いた。

 淡い色の髪をした方は、水も缶詰もどこで見付けたのかだけは一言も言わなかった。


 缶詰はやたらとあったから、彼らは何日間か寝床にずっとこもっていた。右足の腫れは大分引いて、あちこちにできていたどす黒い紫色の痣も薄くなった。髪の生え際にできていた傷もしっかりとかさぶたになって、血も変な汁も出さなくなっていた。

 淡い色の髪をした方は時折バケツを手に寝床を出て、澄んだ水で満たして戻ってきた。

 淡い色の髪をした方は相変わらずどこで汲んで来ているのかは一言も言わなかったが、新しい水場を見付けたんだろう、と濃い色の髪をした方は何も訊かなかった。足が良くなって、寝床から出たら訊くつもりで。

 淡い色の髪をした方が汲んできた水を二人で飲んで、濃い色の髪をした方の傷を洗って、残れば服や身体を洗った。

 一日に一人二つの缶詰。それでも何日ももった。

 濃い色の髪をした方が目を覚ましてから数日、流石に残りの数が少なくなってきた缶詰を眺めながら二人で夕食を摂った。淡い色の髪をした方は好きな缶詰から食べていたから仕方なしに味の薄い豆の缶詰。濃い色の髪をした方は肉や野菜を交互に食べていたから、その日は好物の犬の缶詰を。

 腹が膨れて煙草をふかして、そろそろ食料を探しに出ないとまずいな、と話しながら二人でマットレスに横になる。

 ここのところずっと寝床にこもってばかりで身体を動かしていないからか、なかなか寝付けないな、と目を閉じたまま考えていた濃い色の髪をした方。不意に横から手を伸ばされて、口をなにかやわらかくて乾いたもので塞がれて目を開いた。

 視界いっぱいに相棒の顔があって、困ったような顔で笑っていた。

「…なに?」

「あのさ、…ううん、やっぱりなんでもない」

「そう」

 気のない相槌を打ちながらまた目を閉じる。隣から小さく溜め息が聞こえて、思っても見なかった悪戯が成功した気持ちで笑い出すのを堪えてそのまま数秒。

 淡い色の髪をした方がマットレスに横になるのを待って、勢いよく起き上がりのし掛かるとぶつけるように唇を驚きに薄く開いたそれに擦り付けた。

 目を丸くしていた淡い色の髪をした方は、すぐにからから笑いながら応戦を始める。じゃれるような取っ組み合いをしながら二人で服を乱して、笑い声はいつの間にか熱を孕んだ吐息ばかりになって、そのうちに汗と体液に汚れたまま吐息は寝息に変わっていった。



「まだゆっくりしてた方がいいよ」

 淡い色の髪をした方がぽつりと言った。

 足首の腫れは完全に治まって、歩いても問題ない。軽く跳ねたり部屋の中だけで走って見ても、痛みは走らなかった。

 缶詰はもういくつかしかなかったから、そろそろ外に出ようかと濃い色の髪をした方が意気込んで出掛けようとした時だった。

 不思議に思って振り向くと、淡い色の髪をした方は思っていたより真剣な顔をしてじっと相棒の顔を見上げていた。

「なんで?」

「だって…また追っかけられたら困るじゃん」

「…そう」

「俺が缶詰持ってきてあげる!」

 ぱっと顔を上げた淡い色の髪をした方。いつものように気のない相槌を打っていた濃い色の髪をした方は、ほんの僅かに眉を寄せた。

「どこから?」

 いい機会だと思った。目を覚ましたその日から、いつ訊こうかと機を窺っていた。

 例えばどこか商店か何かの倉庫なんかから缶詰を見付けたのなら、いつ誰が目をつけて持って行かれてしまうとも限らない。だからばらばらと何回にも分けて持って帰らない方がいい。

 それがわからない相棒ではない筈だ。

 青みの強い緑色の瞳と茶色みがかった緑色の瞳がじっと絡んで、咎めるつもりはそんなになかった濃い色の髪をした方が問いを重ねようと唇を開きかけて、淡い色の髪をした方はふっと肩の力を抜いて笑みを溢した。

「前に、なんか変に汚いからあんまり探さなかった建物があったでしょ?あそこで見付けたの。たくさんたくさんあったから、俺一人じゃ全部は持ちきれなかったんだよ」

「なら俺も行く」

「だめ。…あと一回で全部ここに持って来られるよ。あそこ、缶詰はたくさんあるのに他には何にもないんだ」

 いつになくきっぱりと断られた。濃い色の髪をした方は目を丸くしたが、やっぱり「そう」としか言わなかった。

 なんだかそわそわして落ち着かない様子の淡い色の髪をした方と、何も言わないが時折「何か言うことがあるんじゃないのか」と言うように相棒の目をじっと見詰める濃い色の髪をした方。

 二人で缶詰を開けて朝食を取る。濃い色の髪をした方は真っ赤な味の濃いどろどろした汁の缶詰。淡い色の髪をした方は茹でた小さな卵の缶詰。

 結局、淡い色の髪をした方はそわそわしながらも何も言うことはなく、濃い色の髪をした方もそれ以上問いを重ねることもなく、二人で静かに煙草を吸うと淡い色の髪をした方は何度か相棒を振り返りながら寝床を出て行った。


 煙草をふかしながら濃い色の髪をした方は残りの缶詰の数を数え、時折水を飲んで、残りの煙草とマッチの数を数えて過ごした。缶詰が大小合わせて9つ。煙草が短いものがたくさん。まったく火をつけていない長いものが5本。マッチが2箱。紙マッチが5つ。

 これだけあれば今日明日は大丈夫。まったく食べなくても何日かは動けるから、5日は大丈夫だろうか。

 フィルターだけになって嫌な臭いを立て始めた煙草をコンクリート剥き出しの床に捨てて、靴底で火を揉み消す。

 日は大分高くなっていて、てっぺんより僅かに下り始めたところ。淡い色の髪をした方は帰って来ない。

 行き先はわかっている。淡い色の髪をした方が出掛ける前に言っていた建物だろう。

 探しに行くのは簡単だが、二人のうちでどちらかと言えば決断力のある方の濃い色の髪をした方は何故か寝床から出るのに二の足を踏んでいた。

 怪物が怖い訳ではない。ただ、いつか夜中に目を覚ました時の、月に向かって煙の輪っかを作って遊んでいた淡い色の髪をした方の後ろ姿が思い出されて仕方がなかった。

 そういった時の不安が胸の奥でもやもやと居座っていて、今までそんな時は大抵ちょっと視線を巡らせれば淡い色の癖っ毛が目に入って安心できていたが、今はいない。

 探しに行こうか、と思うが、探しに行っている間にここに帰ってきたら、と、知らずいつかの相棒と同じことを考えて、これもいつかの相棒と同じく煙草の吸い殻ばかりをいくつも足元に散らしていた。

 淡い色の髪をした方が出掛けて行ってから同じことばかりをぐるぐると考えて、本当はとっくに知っていた缶詰や煙草の本数を数えて無為に時間を潰していたが、ただ待つばかりはもう限界だった。

 濃い色の髪をした方が寝床から漸く足を踏み出した時、既に日は傾き始めていた。



 瓦礫の隙間に身体を押し込んで息を殺す。

 腕の中には二人で命を繋ぐための缶詰が5つ。少なすぎる。こんな筈じゃなかった。

 どす黒く変色した"何か"のぶちまけられた建物は、濃い色の髪をした方が寝込んでいる間にちょっと奥まで入り込んでみるとまるで宝の山だった。

 濃い色の髪をした方は寝床に運んだ缶詰を見ただけでもそれまで見たことのない量に驚いていたが、ここにある缶詰の量はそれとは比べ物にならない程。

 これ全部が俺達のだったら、きっとずーっと危ない思いをしなくてもいいのに、と淡い色の髪をした方は何度も考えていた。

 熱を持って腫れた腿と、殴られ開かなくなってしまった左目をさすりながらそんな頃を思い出して思わずくすりと漏らした淡い色の髪をした方は、はっとして自分の口を押さえた。

 その建物には一部屋ぎっしり埋め尽くす程の缶詰の山と、別の場所に同じく一部屋埋め尽くす程の金属製の容器に入った水があった。そして、それらを大事に大事に守る住人がいた。

 相棒が寝込んでいる間にそれらを見付けた淡い色の髪をした方は、住人が出掛けるのを見計らって忍び込んでは缶詰と水をくすねていた。丁寧に、水は容器からバケツに移して元の場所に容器だけを返して。

 何度も通ったが、その度上手くいっていた。何せ缶詰の量が多くて、細い腕に抱えきれるだけの量をくすねただけでは気付かないんだろうと、甘く考えていた。

 気付かない訳がなかった。濃い色の髪をした方が目を覚ましてから寝床にこもって出掛けなかった何日か、住人はずっと盗人が盗んだ食糧を食べ尽くして戻るのを待っていた。

 知らずにのこのこと缶詰をくすねに戻った盗人が子供でも、住人は決して容赦しなかった。

 淡い色の髪をした方は、それまでにも悪意を持った人間と出くわしたことはあった。

 例えば、彼らの食糧を盗もうとする者、缶詰のように調理されていなくても自分以外の生き物は全て殺して食おうとする者、虐げて思うように使おうとする者、何らかの思惑を持って身体に触れようとする者。

 大人は大抵そんな奴らだったが、誰も彼らの足にはついて来られなかった。

 だから今回も、例え見付かっても逃げればいいと甘く考えていた。

 彼らが建物につけるマーキングのように、きっと何らかの仕掛けがしてあったのだろう。缶詰が綺麗にぎっしりと並べられた部屋から淡い色の髪をした方が獲物を腕いっぱいに抱えて出ようとすると、部屋の出口を人影が塞いでいた。妙に太った、身体の大きな男だった。

 太い腕が振り上げられるのをスローモーションか何かのように見つめる。次の瞬間、左目の辺りに燃えるような熱を感じたのが早いか、彼の身体は衝撃に吹っ飛ばされていた。

 考えるより先に体勢を立て直し、殴られ、蹴られながらも抱えた缶詰は(いくつかは溢れてしまっていたが)離さずに逃げ出し、瓦礫の隙間に隠れはしたがまだ建物から出られてすらいない。

 心配してるかなぁ、と考えて、そういえば相棒が大怪我を負っている時に自分は缶詰を持って帰ってくれればいいのになんて考えていた薄情者だから、今もそんな風に思われているかなと自嘲しかけて、今度は吐息すら漏らさず噛み殺した。

 あのガキ、とか、殺してやる、だとか、あと何を言っているのか聞き取れない声で喚きながら盗人を探し回っているらしい男は、ついさっき淡い色の髪をした方が隠れている瓦礫の前を通りすぎた。

 腕の中に抱えた缶詰は5つに減っていたが、これだけでも無いよりマシ。これ以上怪我が増える前に、さっさと寝床に帰ろう。

 日は沈みかけて建物の中にはほとんど灯りの差さない中で、淡い色の髪をした方はそうっと瓦礫の隙間から這い出した。



 名前を呼びながら瓦礫だらけの街の中を走る。

 始めは、ただ歩いていた。通りをひとつ曲がって、いつも通るどこかの子供達の根城の前を通り過ぎて。傾いていた日が赤く染まり、通りに落ちる影が濃く長く伸び始めた頃、少しずつ少しずつ降り積もっていた焦燥感が膨らんで、磨り減った靴底でアスファルトを蹴り、駆け出した。

 日頃はあまり呼ばない名を呼びながら走る。だって普段は二人きりでいるのだから、自分でなければ相棒で、名を呼ぶ必要が無かった。

 そんな名を呼びながら、走る。滅多に口にしない相棒の名に追われるように、焦燥感ばかりが増していく。

 焦燥感は増していきながらも、件の建物には中々近づかずに別の場所ばかりを走り回っていた。

 恐ろしかった。自分の嫌な予感が当たってしまうことが。

 だが、見付かる筈もない。息を切らして足を止めた頃、とぷんと音を立てるように日が落ちた。



 大切に抱えていた缶詰は1つも残さず奪い返されていた。

 日は完全に落ちていて、月が登ってきていた。太陽に温められていたアスファルトの熱は月に吸い上げられて、その白々した光に変わる。

 そうして冷えたアスファルトが、打ち身の熱も吸い取っていく。

 冷たくて、ざらざらする。身体のどこもかしこも、内側から熱を発しているようで、熱くて、熱くて、どこがどうなっているのか全くわからないがただアスファルトがその熱を吸い取っていくことだけが知覚できた。

 片耳は、恐らく自分の鼓動であろう音だけが聞こえる。彼は聞いたことなど無かったがラジオのノイズ音に似たざらついた音と一緒に、ぼくん、ぼくん、と、それだけ。

 もう片方の耳には、鼓動の音に掻き消されがちだったが、しりしりとほんの微かに何かが聞こえていた。

 薄く目を開いてはいたが何も見えてはおらず、彼の身体からゆっくりと流れる血液が乾いたアスファルトを濡らしていく音だとは、わからなかった。

 ぼくん、ぼくん、と、しり、しり、と。そのリズムが重なったり離れたりするのが不思議と面白い気がしてそればかりを聞いていた。

 吐息と共に小さな小さな咳が出て、泡立った血液が唇を濡らして、その咳に掻き消されてぼくんぼくんもしりしりも聞こえなくなり残念に思っていると、不意に、ゴムの磨り減った靴底がアスファルトを擦る音が、ざり、と鳴った。



 月灯りの中でそれを見付けた時、どこかのビルの中に散らばっていたバラバラの人形を運んできたものかと思った。

 月の光に照らされてぬらぬらと光る人形のような"それ"は、ぴくりとも動かなくて、歪な水溜りの中に横たわっていた。

 手足のところどころが本来の関節とは違うところで曲がっていて、それで、人形だと思ったのだったが。

 足を止めて暫く見詰め、恐る恐る歩み寄る。靴底が、ざり、と音を立てた。

 癖のある、ところどころでくるくるとカールした淡い色の髪に水溜りの泥のようなものがこびりついて月灯りを反射している。

 薄く開いた唇は青白くて、そこからとろりと流れる黒っぽい液体がアスファルトの上の水溜りへと、ぽたりと音を立てて落ちた。

 すぐ側に立って見下ろす。どう見ても、探していた、淡い色の髪をした相棒だった。

 頭の横に膝を着くのも恐る恐るで、震える手を伸ばす。

 癖のついた髪が目元を隠していて、その前髪を退けなければまだ相棒だとはわからないじゃないか。

 そう、往生際の悪い意識が湧きあがる。もう、一目瞭然だと言うのに。

 とにかく、微かに震える指を伸ばす。50㎝、10㎝、1㎝……黒っぽく濡れた髪に

「やっぱり一人じゃなかったんだなぁ」

 触れる直前、唐突に、声が響いた。

 手を引いて、弾かれたように振り返る。見たこともない、巨体の男が立っていた。

 手には鉄パイプ。そのおざなりな武器からは、ねっとりとした黒っぽい液体が糸を引いて滴り落ちていた。

 靴底が、ざり、と音を立てる。磨り減ったスニーカーではない、酷く太った男の、磨り減っていない靴。

「あれだけの食料、一人じゃないとは思っていたが……そうかぁ、やっぱりいたかぁ」

 アスファルトにつけた足裏が、スニーカーのゴム底越しに慄く。逃げる。いやしかし、相棒を置いては行けない。

「お前らもわかってるだろうが……あれだけの食料、どれだけ苦労して集めたと思ってる?」

 葛藤する。もしかして、相棒はもう死んでいるのではないか?死んでいるのなら、置いて逃げても……

「それをくすねてお前らだけ生き延びようって言うんだろ……俺は死んでもいいって言うのか?」

 行けない。死んでいない。ほんの小さな咳と共に今まさに粘っこい黒い泡を吐いた。置いて逃げられない。

「盗人の方が死ぬべきだろうが……そうだろう?なあ!?」

 巨体の男がもう何を言っているのかわからなかった。

 鉄パイプだろう、長いものが空気を切る音が聞こえた。自分達とは違う、重くて身体を動かすことも一苦労だろうという巨体が、どすどすとアスファルトの欠けらを跳ね上げ鉄パイプを振り回して走って来る。

 咄嗟に相棒に覆い被さる。頭を抱き抱えるようにして。ぬるついた黒い水溜りから、微かに鉄っぽい生臭い臭いがした。

 足音がどんどん近付いて、鉄パイプが振り上げられた音がして、

 突然、轟音が響いた。顔を上げる。

 視線の先、無機質、という言葉を体現したような灰色の建物が土煙を上げて積み木のようにその4分の1程を倒壊させた。

 この街で生きているほとんどの人間は名前を知らない、足の長さだけで15メートルはあろうかと言う機械だか怪物だかわからないモノが土煙を割ってぬぅっと姿を現す。

 近い。巨体の男も、唖然と立ち尽くしてそれをただ見上げていた。

 彼らが、恐らくは今まさに彼らに襲いかかろうとしていた男も含め知っている限りでは、怪物は日が出ている間しか動かない筈だった。

 男もそう思っていたのだろう。鉄パイプを取り落として悲鳴を上げると、怪物に背を向けて走り出した。

 金属の軋む音を立てて怪物が向きを変える。奴らの目がどこにあるのは知らないが、前方しか見えてはいないようだった。

 土煙を上げて、アスファルトを踏み砕いて怪物が迫ってくる。昼間に見るよりも、嫌に遅く見えた。日が出ていないからなのか、見ているこちらの心境の為かはわからないが。

 振り上げられた怪物の足からぱらぱらと小石のようなアスファルトの欠けらが降って、その足が振り下ろされて。

 蹄とも支柱ともつかない足が、アスファルトを砕いて二人の側を踏みしめた。

 別の足が振り上げられ、振り下ろされる。また別の足が振り上げられ、振り下ろされる。

 濃い色の髪をした方は、初めて怪物の腹を真下から見た。

 平均的なビル一棟の中にあるケーブルを全て掻き集めたよりもっと多い。太いものも細いものも一緒くたにごちゃごちゃと配置したような腹が、足を動かすと共に悶えるようにうねって、生き物の腹にそっくりだった。なにか、とてつもなく気持ち悪い生き物の。

 動いているものを追う習性があるらしい。逃げた男を追う怪物は、足の動きはゆっくりでもその歩幅があまりにも大きい。濃い色の髪をした方が呆然と眺めている間に真上を通過して、あっと言う間に男に追いついた。

 振り上げ、振り下ろした足が男のすぐ後ろのアスファルトに突き刺さる。男が転倒する。

 怪物は足元は見えづらいらしい。まだ男が走っていると思ったのか、歩行の為に振り上げた足に当たって、男の巨体が何メートルか跳ね飛ばされた。

 アスファルトに落ちて、暫くのたうっていた男だったが立ち上がる。また走り出す。

 追い掛ける怪物は、見る者が見れば猫が獲物を追っては逃し弱っていく様を眺めて遊んでいるようにも見えたかも知れない。

 ふらついてまた転倒した男はとうとう踏み潰されたかに見えたが、怪物の足の下から這い出した。その片腕は、二目と見られない有様になってはいたが。

 血の跡をアスファルトに描きながらの男と怪物の追い掛けっこを眺めていた濃い色の髪をした方は、淡い色の髪をした方を背に負って、だんだんと人間の放つものか怪しくなってくる男の悲鳴を背中に聞きながら、ビルの谷に逃げ込んだ。


 寝床にしている建物に戻って、服を換えて、濡れた布で傷を拭っている最中。淡い色の髪をした方は、呼吸を止めた。



 その日は朝から薄い灰色の雲が空を覆っていた。晴れていれば太陽が高くなる時間でもどんよりとして、空気も水を含んで今にも雨が降りそうだった。

 濃い色の髪をした少年は、廃墟の一角で瓦礫に腰掛け、紫煙を燻らせていた。

 少年は、文明的な暮らしはしたことがない。学校に通ったこともなく、学校という場所の情報も知らない。文字も読めない。

 葬儀というものを知らなかった。

 けれど、死んだものを長く放置しておけば、腐り、虫が湧いて、よくないことになるのは知っていた。路上に置いておけば、どこからか鳥や獣がやってきて食べてしまうことも知っていた。

 息をしなくなった淡い色の髪をした少年を、虫や鳥や獣に食われてしまうのは嫌だった。

 濃い色の髪をした少年は、墓というものも知らなかった。けれど淡い色の髪をした少年の身体を背負って根城から出て、根城の近く、日当たりがよくて風通しもいい、二人でよく煙草をふかしていた場所に埋めた。

 土を掘る道具も無いから、怪物の足跡であろうアスファルトが砕けた穴に淡い色の髪をした少年を寝かせて、瓦礫を上から被せただけの、粗末な墓だった。

 何も知らない者が見れば、何かが埋まっているなどと思わないであろう墓。

 その横に暫く立ち尽くして、積み上げた瓦礫をじっと見つめる。

 腹が空腹を訴える音を立てた頃、漸くその場を後にした。

 濃い色の髪をした少年は、悲しいことや辛いことがあった時に涙が出ることは知っていた。淡い色の髪をした少年は、時々泣いていたから。

 表情があまり変わらない彼と違って、泣いたり、癇癪を起こしたり、表情がころころとよく変わる少年だった。

 寝床に戻って煙草を吸い始めても、横からちょっかいを出してきたりマッチを差し出してくる細っこい腕は無い。

 涙も出ないし、どう考えたらいいのかわからなかった。

 物事を受け止めて感情として表現する機能を持つ、胸の真ん中にあった筈の何かが、すっぽり無くなってしまったようだった。


 何時間か、何日か。何週間もだったかも知れない。

 濃い色の髪をした少年は、1日ひとつの缶詰を食べて、水を飲んで、他の時間は瓦礫に腰掛けてただぼうっと煙草をふかして過ごしていた。

 その日も、空になった缶を床に転がして、その周囲に吸い殻をいくつも散らかしていた。

 日が沈んで、のろのろと腰を上げてマットレスに横になる。

 この数メートルが、ここ数日の彼のほとんどの移動距離だった。

 横になっても眠気は来ない日がほとんどだったが、目を閉じる。

 いつもは眠ったかわからないうちに朝が来ているが、その日は、すぐに眠ったらしい。夢を見た。


 どこかの建物の屋上で、他の建物を見下ろしている。どの建物も崩れていなくて、空は雲ひとつ無い快晴なのに、怪物の足音も咆哮のような軋む音も、建物が崩れる音も聞こえなかった。

 夢だ、と理解はしていた。夢の中でも煙草が吸いたくなるんだと、不思議だった。

 屋上の端のフェンスに凭れて、ポケットからシガレットケースを取り出す。夢なんだからシガレットケースの中身が全て新品の長い煙草でもいいのに、と考えながら、誰かの吸いさしの短い煙草を取り出して口に咥える。

 マッチを探してポケットを弄っていると、横からにゅっと細い腕が伸びて咥えた煙草に火を点けた。傷の無い、白い腕だった。

 驚いて、弾かれたように隣を見る。

 淡い色の髪をした少年が、悪戯が成功した顔で笑っていた。



「ね、俺、死んじゃったねえ」

「……」

「痛かったけど、うーん……そんなには、痛くなかったんだよ」

「……どっちだよ」

「わかんない。わかんないうちに、死んじゃったんだよ」

 あっけらかんと言われて、困ってしまう。

 困ってはいるが、やっぱり表情はあまり変わらない。首を反らして上へと紫煙を吐き出す。

「ね、あれでしょ。どんな顔したらいいかわかんないんでしょ」

「……」

「俺はねぇ、わかるよ。俺はね、おまえが先に死んじゃったら、寂しいし悲しいもん」

「……俺はお前とは違うよ」

「違わないよ、ずっと一緒にいたんだもん」



 淡い色の髪をした少年を埋めた時は、傷が全身にあり白い肌なんてほとんど見えなかった。腕も足も、折られていた。

 けれど、今、目の前にいる彼には傷なんてなくて、何事もなかったようににこにこと笑っている。

 その顔を見ていると、目の奥とこめかみと頬の奥の方がきりきりと痛むようで、歯をきつく噛み締め視線を足元に落とした。

 短くなった煙草を足元に落として、シガレットケースからもう一本取り出して口に咥える。

 隣からまた手が伸ばされて、マッチが火を点けた。



「ね、泣いてもいいよ」

「……」

「少しだけならね」

「……いいんじゃないのかよ」

「ダメとは言わないけどさ、俺が泣かしたと思ったら、なんかやだ」

「……」

「少しだけなら泣いてもいいけど、ずーっと後になっても泣いてたら、それもやだ」



 マッチを擦る音が聞こえて、隣から自分のものとは別の煙草の匂いが漂ってきた。

 淡い色の髪をした少年が好きだった、独特の匂いの煙草。



「ずーっと後になってから俺のこと思い出したらね、泣くよりもっと、いいこと思い出して欲しいなぁ」

「……いいこと?」

「うん。例えばねぇ、一緒に寝たこととか」

「……うん?」

「あは、どうせ思い出すんなら気持ちよかったこと思い出してよ、ってこと!」



 なんだか、拍子抜けしてしまうくらい、あっけらかんとした笑顔だった。

 思わず少しだけ笑って、それが照れ臭い気がして下を向くと、コンクリートの床にふたつだけ雫が落ちた。



「俺、もう行かなきゃ」

「……うん」

「あのさ、残り香ってやつ、置いていくから」

「なんだよ、それ」

「あとで見て」



「それじゃ、またね」




 目を開くと、いつもの寝床だった。

 少しだけ濡れた睫毛が、少しだけ、撫でる空気に冷やされていた。

 コンクリートの天井を見て、しばらくぼうっとする。胸の真ん中のあたりから何かが抜け落ちていたような感覚は、不思議と消えていた。

 マットレスの上に身を起こす。と、指先に何かが触れた。

 煙草。まだ封も切っていない、新品が一箱。

 淡い色の髪をした少年が好んでいた、独特の匂いがする煙草だった。

 寝床の中の、壁と天井が一部崩れて大きな窓のように開いた一角へと歩く。

 瓦礫を椅子がわりにして、煙草の封を切って、一本咥えて火を点けた。

 随分と、都合のいい夢を見たなあ。

 これから一人きりで生きていく街は夢の中と同じ快晴で、どこか遠くでビルの崩れる音がしていた。




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 palvan.k.清透



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