第16話 ひとつのお別れとあったかドーナツ
すべてのテストが返却され試験という縛りから開放された時には、十二月になっていた。十二月一日、暦では今日から冬になる。
放課後を迎えた午後四時前。私は、駅へ向かう道中で校庭に立ち寄った。今日のお昼休みに学年上位五十名の試験結果が貼り出されたらしく、自分の名前の有無を確認する為だ。二年生が三百人ほど在籍する中、私は、一年最後の期末試験から前回までギリギリでランクインしている。点数は普段と比べると若干低いけど、五十位以内はこのまま維持したい、出来ることなら順位だけでも上がっていてほしい。そう願って、ホワイトボードに掲示された貼り紙に目線を向けると印字された名前を下から数えていく。
「──あった。四十八位、か」
三番目の位置に自分の名前と点数が書かれてあった。前回より奮わずすぐに名前を見つけてしまい呆気なさは否めないものの、今回もキープできたと知ってこれで本当に心が落ち着いた気がする。
上位者の成績もとりあえず見ておこうかと目線を上げた時、ある話し声が聞こえてそちらに振り向くと、
「すごい! 松本さん、クラスどころか学年一位じゃん!」
「転校して二ヶ月弱で首位の座を勝ち取るとはやるな、このこのっ」
ちょうど女子二人から持て囃される未羊の姿があった。一人からは肘でつつかれていても満更でもない様子。確認で貼り紙の一番上に記された名前を見ると「1位 松本未羊」と書かれてある。未羊……やはり、天才肌だったのか。
「えぇっ。そんな……たまたまだよぉ」
困ったようにはにかむ、しおらしい優等生の未羊。ん? 本当に松本未羊なのか?? 一通り驚いたはずだが、まだ完全には慣れていないらしい。
「あっ。泉〜」
私を見つけた未羊がこちらに向かって手を振る。通常のキャラに戻りつつあるけれど、銭湯以降、未羊は今のようにこれまで以上に私に構うようになった。
小走りで未羊の元へ着くと、そばに居た女子二人と軽く挨拶をしてから未羊と最寄駅を目指して歩く。いつも恒例のように定時に駅で合流して帰宅しているので新鮮な気分だ。
「泉、五十位以内に入っていたね? すごいね〜!」
「さっきの光景を見た直後に褒められても釈然としないけど、ありがとう」
「素直に受け取ればいいのにー」
「いや、だってさ」
ギリギリの私に対してあなたは学年のトップじゃない。未羊には、地頭の良さや発育や物腰の柔らかさと何気に色々負けていて悔しい。けれど、一方でそんな未羊のことを魅力的に思っているし、ちゃんと言葉にして褒めてくれた点は嬉しかった。
午後四時十五分。私達は、試験の貼り出しを見ていたこともあって通常より一本遅い電車に乗った。
いつもの席に座り、列車が動き出した時、私はいつになく緊張しながら口を開く。
「ねえ、未羊」
「ドーナツだよね?」
「よく分かったわね」
「何となく緊張が伝わってきたから」
なぜ緊張からドーナツ屋のことだと見抜いたのか分からないが、さすがは洞察力に長けている未羊だなと感心する。
どうして、私がいつになく緊張しているかと言うと、そろそろ、大橋さんに自分の想いを伝えたくなったから。
テスト期間はドーナツ屋をお預けしていたので、私の心はドーナツにも大橋さんにも恋しくなっていた。
これからお店に行ったら、まずは勇気を出して連絡先を聞く。それから、少しずつでいいから距離を縮めていく。川野くんを応援していて、自分も他人事ではないと感じたのだ。
あ……でも、未羊のことだからまた私の邪魔をしてきそう。ドーナツを奢る条件付きで店の外で待機してもらおうかしら?
「今日は邪魔はしないから安心して?」
「あんた、さっきから心読みすぎ」
タイミングもピッタリだし、ここまで来ると少し怖い。
ただ、自分から約束してくれたので、今日は未羊と一緒にイートインしようかと"この時は"考えていた。
逸る気持ちを抑えながらいつもより長く感じる四十五分をかけて最寄駅に着くと、その心持ちのまま未羊と降車し、改札を抜け、数十メートル先のお馴染みのお店を目指して歩く。
到着すると、店内には黄色いカーテンのようなものが下ろされていて、硝子窓には文が綴られたA4サイズの紙が貼られていた。途端に凄く嫌な予感を覚えるも目を逸らさずに文字を辿っていくと、十一月末日、つまり昨日をもって閉店したことが記されてあった。
「え…………」
一瞬、訳が分からなかった。だって、ついこの前まで通っていたのに急に閉店だなんて。自分が行けていない期間に閉店の準備に取り掛かっていたのだろう。試験期間が終わるまで楽しみにとっておいて、それまで頑張っていたのに、あんまりだ。せめて、あと一日早ければ……。
もう、放課後にあのお店のドーナツを食べられないし、何より大橋さんに会えないんだ。
瞳から生温い液体が溢れ、頬を伝う。
「泉っ」
未羊が私の名前を呼んで駆け寄る。
「どうしてっ……どうして、みんな……私の前から姿を消しちゃうのっ……?」
両手指で拭っても拭っても涙は止まってくれない。背中をやさしく撫でられる感覚がする。未羊が無言で寄り添ってくれているんだ。
笑顔が優しい大橋さんを急に失ったこの状況が、お父さんを亡くしたあの頃と重なる。
私は、きっと、お父さんに近しい人柄の彼に憧れを抱いていたのだ。
お父さんも、大橋さんも、小学生の未羊も。まだこれからだっていう時に、みんな、私の前から居なくなっちゃう。
もう、淋しい思いはしたくないよ。
「ほーら。もう泣かないで?」
未羊が私の頭上に触れ、世話を焼く母のような微笑を浮かべる。
「だいたい、泉と仲良く絡んでおいて一言も無しに姿を消しちゃう男は残念系だよ。泉には、私みたいなふわふわ包容力がお似合いなの!」
「みよぉ……」
冗談を交えて元気付けようとする未羊の優しさが更に涙を誘う。
大橋さんに好意を向けていたこと、バレちゃった。それか、未羊のことだからもっと早くに察していたのかな。てゆーか、私、人目も気にせずに子どもみたいで恥ずかしい。でも、今はもうどうだっていい。今の私には、もう、未羊の温もりに包まれる以外の選択肢が無い。
それから、慰めの仕上げとして、未羊は私の背中に両手を回すと全身をふわりと包む。羽毛布団のような感触が、とても心地よい。
「大丈夫。大丈夫だよ。私はもう、絶対に、泉のそばから消えたりしないよ」
しばらくして落ち着くと、私は未羊から顔を上げる。
「ごめん……みっともない姿を見せて。もう大丈夫だから」
そう伝えると、ほとんど同時に体を離す。
すると、未羊は芝居がかったように人差し指を顎に当てながら含み笑いを浮かべ、私に言った。
「それじゃあ、今日は私が"おもてなし"しちゃおうかな」
未羊の誘導によってドーナツ屋があった場所から五分ほど歩くと、よくあるローカルチェーンのスーパーに到着した。一ノ瀬家を含め、市民、町民の御用達だ。
「ここ、いつも私の家がお世話になっているんだ」
買い物カゴを小さく前後に揺らして歩く未羊に「私も」と返す。まだしばらくは元気を取り戻せそうになく、素っ気ない声音になった。
それにしても、「おもてなし」と言ってスーパーへ連れて行く未羊には一体どんな目論見があるのか。
などと考えている隣で、未羊が歩く速度を落としてスマホを凝視しながら呟く。
「えーっと、卵、牛乳、砂糖、薄力粉……あれ、家にも少しあったっけ?」
なるほど。私は彼女の計画を察する。
「薄力粉と、あとベーキングパウダーくらいは買っておいた方がいいかも」
「あぁー、そうだね?」
あえて答え合わせはせずに横から提案すると、未羊は納得の笑みを向ける。
そうして、結果、薄力粉とベーキングパウダーと牛乳とグラニュー糖をカゴに入れておもてなしの調達完了。と思っていると、
「ホットドリンクもセットにしちゃお?」
後ろの私に振り返り、楽しげな表情で未羊が言う。
本格的ね、と答えてから二人でコーヒーコーナーへ移動すると、インスタントコーヒーが並ぶ棚の前で立ち止まる。
「泉、どれがいい?」
「じゃあ……この、カフェオレの」
粉末スティックが十本入のケースに指を差すと「決まりだね♪」と未羊が本品をカゴに入れる。無表情な私とは対照的にいちいち笑顔で嬉しそうな未羊。そうだ。未羊のことだから、きっと私を元気づけようとこの時間を楽しんでいるんだ。
……でも、
「このシリーズ、インスタントコーヒーの中で一番馴染みがある」
「おうちカフェの大定番だよね〜♪」
顔や声には表れていないものの、私も少し楽しくなってきた。
買い物を終えると、そのまま松本家へ招待された。松本父は仕事、松本母は同窓会、陽葉は部活と、どうやらこの家には私と未羊の二人しか居ないらしい。まるで私達を二人きりにさせるように仕向けたかのような偶然だ。
「泉、銭湯の時といいタイミングが良いよね?」
「別に、私はご家族が居ても嫌じゃないけど」
「二人っきりだよ、二人っきり〜」
何が嬉しいのか未羊はご機嫌な調子で両腕を揺らしながらキッチンへ赴き、手に持っていたレジ袋を置く。
「じゃあ、少しの間、泉はのんびり過ごしてて?」
これからおもてなしの準備に取り掛かるのだろう。私は未羊に従い、木製のダイニングチェアに腰を下ろすと料理の工程を眺めながら待機することにした。
キッチン壁に掛かる花柄エプロンを手に取り、それを体に纏う未羊を、あぁ、やっぱりかわいいな……と見つめている所で私の記憶は終わった。
……小麦の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、次第に意識がはっきりとしていく。瞼を開けると、テーブルに顔を預けていることに気づいて上半身を起こす。背中には毛布が掛けられてある。私、寝落ちしたんだ。
「おはよう。気分はどう?」
物音で気づいたのかキッチンに立つ未羊がこちらに振り返り、問い掛ける。
「……ごめん。どれくらい寝てた?」
「四十分くらいかな。色々あったもん、疲れちゃうよね?」
返しづらくて黙っていると、未羊が狐色で溢れた白いお皿を二つ手に持って近づいて来る。
「そうそう。ちょうどさっき、完成したんだ〜」
そう言って私の席とその向かいにそれぞれお皿を置くと、狐色の正体が二個のドーナツであることが判明した。よく見ると少し歪な丸みをしているけれど、お砂糖をまぶした出来立てからはほんのり甘い香りがして、すぐにでも食べたい気持ちにさせられる。
「よかった。キラキラした目になってる」
「あっ……」
未羊からやさしい眼差しで言われ、自分が興味津々にドーナツを見つめていたことに気づく。私の変化に安堵したのだろう。少し恥ずかしいけど、カフェオレを淹れにキッチンへ戻る未羊の背中を目で追いながら心の中でお礼をする。
多くの人が晩御飯を召し上がる午後六時半。
マグカップに注がれたカフェオレが用意されると、向かいの席に未羊が座り、普段より大分遅めのおやつタイムが始まった。
「いただきまーす」
「いただきます」
挨拶する未羊に倣い私も合掌してからドーナツを手に取る。一口齧ると、もちっとした暖かい生地から小麦やミルクの家庭的な甘味が広がった。すると、吸い込まれるようにしてあっという間に一個を完食。お店の甘ったるくてサクサクのドーナツもいいけど、未羊らしさが全体に表れたお手製ドーナツは、
「すごくおいしい……」
自然と囁くような声が零れると、桃色のマグカップを両手で包む未羊が「本当!?」と目を輝かせる。返事に迷った私は、青色のマグカップを両手で抱えると小さく頷き、カフェオレを啜る。……これも。慣れ親しんだ味がおうちドーナツと相性ピッタリで、それが心地よくって、ようやく口角が上がった。
「やっぱり……好きだなぁ」
理由は分からないけど、消え入るような声で、私はそんなことを呟いた。
ドーナツを食べて、少し時間が経ってから、気づいたことがある。
「大橋さん」という人は、私の七歳までの記憶のお父さんと重なる部分がある。本当に恋愛感情だったのか改めて考えてみると、なんだか違和感を覚えたのだ。
いつも笑顔で迎えてくれる、大きくて安心できる居場所のような、憧れのお兄さん的存在。これが最適な答え。
だから、癒しのひとつを失くしたショックはそれなりに大きいけれど、今更ながら恋ではない気がしたのだ。もうひとつの癒しは、まあ……未羊、っていうか。
勝手に勘違いして自分で自分を振り回した私が悪いのだけど……ごめんなさい。一瞬だけ毒づかせてほしい。
大橋さんのバーカ。私の時間を返してよ。
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