第10話 弱ったあなたに送る 後編

「本当に、お世話になりましたっ」


 午後七時五十分。

 松本家の玄関前にて、迎えに来てくれた母親が未羊と陽葉と松本母を前に二回頭を下げる。その隣で私も母に倣ってお辞儀をする。


「いいんですよ。元気になったらまた遊びにいらっしゃい?」

「はい」


 優しく微笑む未羊のお母さんにそう答えると、


「泉、お大事にね?」

「ゆっくり休んでくださいね?」


 未羊と陽葉はお互い似たように心配の表情を浮かべて私に伝えた。


「うん。ありがとう」


 こうして私は母と松本家を後にし、マンション前に一時停止した我が家の車で現時刻でも空いている付近の総合病院へ向かうことになった。

 母にも未羊の家にも迷惑を掛けたから、絶対に怒られる。そう内心恐れながら車に揺られていると、運転しながら母は言った。


「まったく、どうしてお母さんに黙っていたの? 無理しちゃ駄目じゃない?」


 それは、思っていたようなお説教とは少し違っていた。嫌味なんかではなく、私の体のことを心配しているかのような。


「私、怒られたり小言を言われるんじゃないかと思って、最近は体調が悪くてもお母さんには見せないようにしていた。面倒がられるのも、嫌だったし……。ごめんなさい」


 私は細くなった声で理由を伝えていった。

 すると、母は赤信号を前にブレーキを掛けると私に振り向いて、


「どうして、そんなことをしたのよ! 泉が無理をして、お母さんが安心すると思わないでちょうだい?」


 怒られた。

 でも、愛があるような、私の為に怒ってくれているように聴こえた。私はもう一度、ごめんなさい、と答える。

 もしかして、今まで嫌味に聞こえていた言葉は、すべて私に向けた心配だったの?

 そうだとしたら……未羊が私に伝えてくれた通りってこと?

 それから、お母さんは私を見つめたまま、申し訳なくも優しい声色で言った。


「でも、私の方こそ、気づかなくてごめんなさい。泉に苦しい思いをさせちゃっていたのね」


 確かにお母さんから悪意などが全く感じられない。

 少々拍子抜けしてぼうっとしていると、お母さんは信号が青に変わったのを機に車を走らせながら話し始めた。


「お母さんね、お父さんが病気で亡くなったから、泉の体のことに関してはどうしても敏感になってしまうの。泉、お父さんに似て体があまり強くないから尚更心配で、つい、言い方が強くなってね」

「そうだったんだ……」


 私に対するお母さんの本心が知れて、心の中のモヤモヤが消えていった。

 父は、私が小学二年に進級した春に突然の肺炎でこの世を去っていった。父との一生の別れにしてはあまりに早すぎる年齢だった私と母のショックはそれはもう大きかった。それでも、現実は、私にはお母さん、お母さんには私しかいないのだ。

 ずっと私のことを気にかけてくれて、むしろ大事に思ってくれていたから不安で仕方がなかったんだ。

 よかった。

 今ではたった一人の大事な家族だから、お母さんとはずっと仲良くいたかった。


「ありがとう。お母さん」


 しばらくして病院へ着くと、受付をして、ここでようやく体温計を使用する機会を得た。の、だけど……


「三十九度二分!? あんた、見た割に相当高いわね……?」

「あ……よく自力で治そうとしていたから体が慣れたのかもね」

「バカ!」


 二人が想像していた以上の高熱だった。確かに普段よりも調子は悪かったけど、実際に測ってみないと分からないものね。

 改めて、ごめんなさい。お母さん。




 診察を受けて「一般的な風邪」だと診断されると、風邪薬を貰い、夜の九時過ぎには自宅に着いた。母との帰り道に、この調子なので明日の金曜日は学校をお休みして次の登校は早くても来週の月曜日、と言う話になった。

 私は部屋に入ると、解熱剤を飲み、寝間着に着替えてすぐにベッドで体を休めた。日頃の疲れが溜まっていたのか、今日はいつになく早く眠りにつけた。




「泉! お父さんの所まで走って来れるか?」


 ある日の晴れ渡る真っ青な空の下、一面が緑色に茂る野原の絨毯に立つお父さんは、六歳の私に向かって大きく手を広げた。


「うんっ」


 私は嬉しそうに答えると、小さな体を精一杯に走らせてお父さんの胸に飛び込んだ。

 太陽のように明るいお父さんは体も陽だまりのように温かく、私を心地よく包む。


「お、元気いいな〜 泉が元気だとお父さんは安心だ!」

「ちょっとー、二人だけで。お母さんだって安心よー?」


 すると、ずるい、と言わんばかりにお母さんが私の後ろからぎゅっと抱きしめてきた。

 両親の間で包まれる私は満面の笑みで二人に言った。


「じゃあ、三人で、ずーっと元気でいようね!」




 眠りから覚めると、視界に自分の部屋が映った。消灯していても陽の光で周囲を確認できる。朝だ。

 体をゆっくり起こしてみると、頭痛も感じないし、昨夜よりも気分が良い。解熱剤が効いたのだろう。同時に、さっきまで家族三人で緑地公園へお出かけした思い出を夢で見ていたのだと理解した。昨日の車の中でお母さんの本心を聴いたからだ。


「……懐かしい夢だった」


 一度、夢に出てきてしまえば、お父さんが生きていた頃の記憶が走馬灯のように蘇ってきて、すごく淋しい気持ちにさせられる。

 すると、私の手は無意識にテーブルに置かれたスマホに伸びて通話ボタンに触れていた。三回目のコールになった時、


「おはよう。泉、調子はどう?」


 おっとりとした温かい声で、未羊が応答した。


「おはよう。結構良くなってきたと思うから、月曜日からは学校に行けるよ。て、ごめん。無意識で掛けちゃったけど、今って登校中だった?」

「ううん? 今、起きた所だよ。泉、時計ちゃんと見た? まだ六時だよ?」

「えっ」


 そう言われて時間すら確認していないことに気がつき、画面の左上に目線を移すと「6:09」と表示されていた。普段よりも早く寝た分、目が覚めたのも早朝だったらしい。


「それはそれで早すぎたわね」

「何せ泉の電話で目が覚めたからねぇ」

「未羊ならもっと寝ていたいわよねぇ……」


 気にしていないかのように彼女は言うけど睡眠が足りていないのではないかと思うと、なんだか申し訳ない。

 それでも、気を取り直して未羊に話したかったことを私は伝える。


「私ね、私が小学二年に進級した頃にお父さんが死んじゃって、しばらくの間はショックで立ち直れなかったの。昨日の夢にもお父さんが現れて、今も少し気分が沈んでいるけど……」


 突然の打ち上げ話にも動じずに未羊は静かにうん、と相槌を打つ。

 お母さんと二人家族であることは知っていても、お父さんがいない理由は今まで伝えていなかった。


「でも、落ち込んでいて、クラス替えした教室で友達も出来なかった私に未羊が話し掛けてくれたから、私は元気を取り戻して学校にも馴染めたの。ありがとう」


 お父さんの夢を見て、私は淋しい思いを感じただけはない。

 未羊と出会い、未羊の優しさに救われた日のことを思い出したんだ。




「ねー、泉ちゃんっていっつも一人で座っているよね」

「私達で友達になってあげる?」

「やめとこうよ。泉ちゃんと話したことあるけど、すごく暗かったもん」


 小二時代の学校の休憩時間中、席に着いて静かに読書をする私をチラチラ見ながら女子三人が話す。あの頃の私は、男女問わず周囲からそのような印象を持たれていた。

 私は、大好きなお父さんを失って心の整理がつかなくて、誰とも馴染めずにいた。よく本を読んでいたのは、少しでも現実逃避がしたかったから。


 しかし、ある日──


「泉ちゃん。何読んでいるの?」


 いつものように読書をしている休憩時間に、そうやって私の席に顔を覗かせる女の子がやって来た。未羊だ。


「言っても、きっと未羊ちゃんが分からない本だよ」

「え〜、私の名前知ってるんだ!」

「だって、よく授業中に寝て先生に叱られてるから」

「へへ〜」

「なんで嬉しそうなの?」

「だって、泉ちゃんとこんなに話した子って私が初めてでしょ?」

「え?」


 私、今まで、そんなに誰とも話していなかったの? なんてことを思った。

 少しだけだけど、久々に同じクラスの子と話せて、楽しかった。まだまだ辛い気持ちは消えないけど、それでも──


「ねえ、私と友達になろう?」

「……いいよ」


 ふわりと笑う未羊の問い掛けに、私も久しぶりに口角が上がった気がする。




「私も、泉と出会えて良かった」

「これからも友達としてよろしくね」

「……うん?」

「私、恥ずかしいけど勇気出して言ったのに!」

「ごめんごめん〜 はいよろしくね〜、バイバ〜イ」


 そんな感じで、最後はいつものようにいじられ、ふざけられて通話が切れた。

 納得がいかないけど、あの子らしいな、と何故だか許せてしまった。




 通話後からもベッドで安静にしていて一時間ほど経った頃、お腹が空いてきたのでリビングへ顔を出しに階段を降りると、


「泉、玄関にこんなもの掛かっていたわよ」


 そう言って、お母さんが私にお菓子や薬らしき箱が入ったビニール袋を軽く揺らして見せてきた。


「え……そんな怪しいもの受け取って大丈夫なの?」

「それが、泉宛て、って」

「ますます怖いんだけど?」

「未羊ちゃんかららしいのよ」

「未羊から??」


 恐怖がすっと消え去った一方で、若干、謎が生まれた。

 もしかして、未羊、今日も私の為に……?

 とりあえず袋を受け取ると、お母さんは不安気な表情で私に聞いてきた。


「あんた……まさかだけど"血圧"で引っ掛かったりした?」

「──血圧?」


 今の質問に中身が尚更気になってきた私は、お母さんが居間へ行ったタイミングで袋の中を確認する。

 始めに目に付いた一枚のメモ用紙を手に取ると、

「泉へ 高熱に効くみたいだよ。学校、行ってきます。未羊」

 青空が描かれたメモに、可愛らしい字体でそのように綴られていた。登校前に薬局へ寄ってここまで届けてくれたのだろう。

 袋の中には、確かに風邪の時に有り難いゼリーと栄養ドリンク、そして市販薬が入っていた。


「未羊……」


 気遣ってくれた彼女の名前を呟きながら私は市販薬の箱を手に取って……思わず吹き出した。


「ふふっ。未羊、これは血圧を下げる薬じゃないっ」


 手元のパッケージは高熱ならぬ"高血圧"に効く薬だった。未羊、私が起こしたせいで未だに寝ぼけているのかしら?

 でも……


「ありがとう。行ってらっしゃい」


 この二日間は、なんだかんだで私の方が未羊のお世話になってしまった。

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