稲の剣

宇津木志優

稲の剣

「確かに、あの方は私が斬りました」


 目の前の、あどけなさも残る女子は確かにそう言ったのだ。


 慶長七年の冬。

 二年ほど前に大合戦が起こった関が原にほど近い、名も無い村。山内一豊に仕えており、暁玄流という小さな流派に所属していた武士、飯山銀助はわざわざ土佐より訪れていた。

 それもこの村に暮らしていると噂だった暁玄流の師である松村市五郎を訊ねるためだった。主君である山内一豊はもとより、他の門下生も師を探してまわっていた。


 飯山が、松村がこの村に暮らしているという風の噂を聞いたのは秋の事。その時は元気な姿を見られると思っていたのだが。


「寒いので、用事が無ければ閉めますが」


 少女は無表情のまま門戸を閉めようとした。慌てて飯山は戸を掴んだ。さして少女は驚かず、ただ戸を閉めるのをやめると、囲炉裏に薪を加えた。吊るされた鍋の中がぐつぐつ煮えていた。


「確かにあの方を斬ったのか」


 飯山は刀の柄を握る。その力が嫌でも強くなり、震えだす。寒さで悴んでいるのもあるのだろうか。しかし、飯山の体には汗が噴きあがっている。怒りにも、困惑にも、複雑な感情が体の中を巡り、力を籠めさせる。


 少女が振り返った。その途端、飯山は全身から一瞬にして汗が止まるのを感じた。

 少女の顔は相変わらずあどけない。ただ、無表情ながら、そこから感じる気配は尋常ではないものだった。剣の道を志している者としてわかる。


――このまま斬りかかれば、負けるのは俺だ。


 その考えが体を巡り、固まらせる。しばらくして、やっとのことで柄から手を放すことができ、一気に脱力した。武士の意地だろうか、飯山は足を踏ん張り、その場にしゃがみ込むような無様なことだけはしなくて済んだ。


 確かにあの方を斬ったのだ、と一瞬で解らされるような。

 なぜ、どうして、どうやって。

 疑問が尽きぬまま、ただ突っ立っていることしかできなかった飯山に構わず、少女は門戸を閉めた。別に拒絶されたわけではない。ただ、寒い空気が入ってこないよう、当たり前のように閉めただけだ。


 飯山は声を上げようとしたが、何を言っていいかわからなかった。

 師が殺された、それもあんな女子おなごに。殺されたというのか。ただ、その事実が頭の中をぐるぐると回って、宿へ戻るのに精いっぱいだった。


 宿、と言っても村の空き家を間借りしているにすぎないのだが。近くに農民たちが暮らしている。最初訪れたときは奇異な目で見られたものだ、と考える余裕が飯山にも戻ってきているのだと感じた。


 訊ねてみようか。飯山は日が暮れる前に家に帰ってきている農民たちのもとへと歩み寄っていった。警戒されているようだったが、構わず飯山は近づく。


「すまぬが、あの屋敷に暮らす女子おなごについて伺いたいのだが」

「……お侍さんがあの子に何の用だね」

「あいや、いつから暮らしているかとか……昔、あそこに侍がいなかったか、とか」


 農民たちが何かをひそひそと話し合うように集まる。寒い風が吹き荒れ、飯山の体を冷やしていくも、農民たちは構わずゆっくり話し合っていた。

 飯山は苛立ちを抑えながらも、体を温めるようにこすった。何も話す気がないのであればそう言えばよいのに、と文句を言いだしそうになった時。農民たちは言った。


「確かにあそこには大戦おおいくさの後、落ち武者が暮らしていたよ。松村とか言ったかね」

「そこにあの子が暮らし始めたのはその後さ」

「そのぐらいだね、知っているのは」

「そうか……」


 農民たちはそう言って家に帰っていった。飯山も間借りした空き家に行く。

 落ち武者の名が松村と言うのであれば、きっと自分の想像していている師と同じだろう。そして、あの娘がその後に師の元で暮らし始めた。どういうことだろうか。


「……聞いてみるしかないか」


 事実を知っているのはあの娘だけだ。どうにかして聞き出そう。ひとまず机に紙を広げて日記を書き綴った。

――師が死んだ。それをたった一人の娘が告げた。

 その言葉だけが、飯山の心の中に残った。



 しばらく経って、春になった。

 相変わらず、娘のことはあまりわからずじまいだった。ただ、村の民たちとは交流があるようで、野良仕事をしているところが見られた。それを遠巻きに見ていると、本当にただの村娘にしか見えなかった。


 ただ、顔立ちは良い。日焼けなどをして浅黒くなった肌だが、きめ細かいところもある。鼻も整っていて、目には強い意志を感じるようにも思える。


 ただの村娘にしては目立つ。

 この付近で生まれたような娘ではないということは確かだ。さすがに京の娘ほどではないにしろ、近江や岐阜などの町ならばよく見かけるような、そんな平凡な娘だ。

 どちらにしろ、剣を極めているようには、飯山には思えなかった。

 一度斬りかかってみようか、と考えたこともあった。ただ、師の仇とはいえ、小娘一人に大人が斬りかかるというのは憚れた。

 いや、怖い、という感情がある。初めに会った時の気配が今でも体の中に残っている。


「まだいらっしゃったのですか」


 と、娘の方から声をかけてきた。飯山は一瞬体を強張らせたが、なんとか平静を装い、娘に訊き返す。


「……師を殺されたというのであれば、それなりのことはしなければならないのが侍というものだ」

「そうですか」


 娘はさして興味を持たず、籠を負って屋敷に戻っていく。感情がないのだろうか。それとも押し殺しているのか。雪のような冷たさ、というよりも何も感じない空気のようだ。

 しかし、不意に娘が振り返った。


「斬りかかるならばどうぞ」


 心の内を読まれているようだった。まるでそこに師がいるような、そんな気がして、娘が歩き出してしばらくしてからその後をついていった。

 そして、娘に続いて屋敷に入る。娘は何も言わなかった。ただ籠を物置に置いている。飯山は歩き、屋敷の中を見回していく。道場のような空間があったが、本当に暮らしていくだけの場所だった。

 師匠はなぜここにいたのだろう。なぜ、この村にたどり着き、この娘と暮らしているのだろう。


「あの人は、私に剣を教えてくれた」


 ふいに娘が言う。飯山はとっさに振り向いた。


「なぜ剣を学ぼうと思ったんだ?」


 飯山は訊ねる。娘は歩き出し、道場だった空間に立つと、懐かしそうに顔を上げた。


「復讐のため」


 ぞっとするような冷めた声だった。しかし、表情は暗くも無ければ、憎しみに満ちているわけでもない。ただ、事実を述べただけだと言わんばかりの無感情なものだった。


「誰に復讐するためだったんだ?」

「それはもちろん」


 娘が指さしたのは、道場の床だった。



 娘が復讐したかったのは、師である松山に違いない。宿に戻った飯山は考える。だとすれば、彼女はあの師を打倒し、復讐を果たしたことになる。事情こそ分からぬが、恨みを持っていたとすれば復讐を考えるのは自然なことだ。

 だが、復讐を考えていたものに、師はなぜ剣を教えたのだろう。それがわからなかった。そしていまだに、あの細い体の女子相手に師が斬られたとは信じがたかった。


――同情をしたのか。

 

 飯山は思考を巡らせる。だが、なにもわからなかった。

 そうとしか思えない。同情したとしか、負ける要素はなかった。松村は御前試合でも華々しい成績を残していた。それだけの実力があるのだ。同情をして剣を鈍らせたか、それか奇襲されたか。

 そうに決まっている。しかし飯山は自分を納得させようと思ってもできなかった。


――なれば、事実を確かめるまで。


 あの冬の時は斬れなかった。だが、今だったら。もちろん、真正面から勝負を挑む。それに松村を倒すほどの腕前をあの娘が本当にもっているのか。あの冬の時の気配は本物だったのか。それを確かめたかった。



 だが、勝負は断られた。


「まだ、稲穂ができていないから」


 それだけの理由である。何度も日を改めて頭まで下げたが、断られ続け、夏を迎えた。娘に呼び出され、田んぼまで連れてかれた。少し離れた場所で、稲が風で波立っているのをじっと眺めていた。


「これが稲の花」


 娘が指差したのは小さい花だった。初めて見た。興味がないことなのに、不思議と見つめてしまう。不意に娘が笑っていることに気づいた。初めて、感情が動いているのを見た気がする。


「今年も生きて花を見ることができたわ」

「……今年も生きて?」

「そうよ。一昨年は戦で焼かれ、去年は蝗でほとんどが台無しになった。でも、生きている稲はいたのよ。あの人も、私も、なんとか食いつなぐために奔走したものだわ」

「……そうか。知らなかった」


 苦労したのだろう。娘の喜ぶ姿にはなぜか飯山も朗らかになる気分だった。


「秋になって、稲を刈り終えたら、勝負をしましょう」


 そんな飯山に、不意を突くように娘が言う。またあの無感情に戻っていた。勝負をする、つまりは自分の仇討を受けるということだ。



 秋になり、屋敷から娘は田んぼに向かって合掌をしていた。無事に稲が刈られた。これから米となり、食糧となるのだろう。村人たちは田んぼで喜びを分かち合っていた。そこに娘は混じろうとしなかった。いや、刈りさえ手伝わなかったのだ。


「なぜ刈りを手伝わなかった?」

「私にはあの人の血が流れているもの」

「それは……殺した血がついているってことか?」


 飯山の言葉に娘はただ頷く。そして中へと入っていった。娘の格好は動きやすい道着だ。腰にはきっちり刀も差されている。飯山も刀の柄を握っていた。そして、お互いに抜き合う。

 しばらくの間、お互いに見つめ合っていた。娘も剣を抜いている。


「……聞きたいことがある」

「なんでしょうか」

「松村は……師匠の最期はどうだったのだ。村の者から聞いた、こうして真剣勝負をするから、どちらが勝っても関わりは無用。ただし、娘が勝った場合のみ、彼女を村においてやってくれ、と」


 娘の表情は動かない。ただ事実だと言わんばかりにうなずくだけだ。


「本当なんだな。真剣勝負の果てに、師匠はお前に斬られた」

「そうです」

「どのように」

「こうして向かい合っていました」


 ぽつりと、娘が口を開く。真剣勝負の最中というのに、まるで飯山が襲い掛からないと知っているかのように空を見上げた。

 その通りだった。飯山は彼女を襲うつもりはなかった。ただ、言葉を待っている。


「あの人は、お前の親父を殺したのは俺だ、とただ一言告げました。それは知っていました。ただ、松村なる武士に父が斬られた、とだけ聞いただけでしたから、本人から聞き出すまでは確信ではなかったのですが」

「……それを聞いて、どうした」

「全身から憎悪と怒りと、そして哀しみと……ともかくいろんな感情が沸き上がりました。あの人からは、どんな感情も抑えておけ、でなければ出遅れるぞ、と言われていたのに」


 同じことを学んでいた。この娘は、師から同じことを。飯山の剣の握る力が強くなる。


「その通り、あの人の剣が一瞬先に、私へ襲い掛かりました。次に私は死を感じました。何もできない、何もすることができない、その虚無が襲い掛かったのです。しかし」


 ふっと、娘は小さな笑みを浮かべながら稲を見た。


「薫ってきたのです。稲の生きたという匂いが。そうしたら、私も生きたい、そう思ったのです。気づけば、私の剣があの人の腕を落とし、そしてそのまま胸を突きさしていました」


 娘は感情を殺し、飯山に向き合った。だが、飯山は剣を鞘にしまった。

 もう十分だ、そう思った。娘からの言葉に偽りはない。それに、娘の後ろに見えてしまったのだ。師の姿を。


「生きたいというのであれば、俺も生きたいと思う。だから、この戦いは俺の負けだ」

「それでよいのですか?」

「ああ、よい。腕は互角かもしれんがな」


 だが、思いの丈は――。そう思った時、飯山はすべてを察することができたのだ。あの時に感じた、汗すら止めてしまうような気配の正体も。今まで斬りかかれなかったことも。そして、稲穂の花を見て笑みを浮かべた娘の気持ちも。


「ここには松村という男は確かにいたが、人違いだったようだ。そう伝えよう」

「どうして?」

「恨みというのは怖いものだ。俺一人が納得しても、他の門徒が納得せず、この村に押し寄せてくるかもしれない。生きたい、その気持ちでお前は生き抜こうとするだろう。だが……」


 飯山も稲の方を見た。村の平穏をこれ以上壊すのはよくない。飯山は合掌をした。


「来年も、この村の米を、お前が食べられるように祈るだけだ」


 そう言って、飯山は笠を手にしてかぶり、歩き出す。主君と他の連中には行方不明と報告だけすればいいだろう。ばれたらばれたで、生きるために逃げればいい。


「そうだ、お前の名は?」


 ふいに飯山は振り返る。すでに娘は剣を収め、屋敷の中に戻ろうとしていたところだった。娘は小さく笑うという。


「稲、と呼ばれている」

「稲か、良い名だ。二度と会うこともないだろう」


 そう言って、飯山は村を歩き出す。村人が奇異な目を向けてくるが、もう気にはならなかった。ただ、一面に広がる青空が、今は気持ちよかったのだった。

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