飛鳥板葺宮で蘇我入鹿の首が飛んだ「乙巳の変」の直後の物語。
美貌と男と野心。
世界悪女列伝に欠かせないこの三つの要素を兼ね備えた新羅の国の美姫、文姫(ムニ)が主人公。
カテゴリ的には悪女に引っかかっている。
なにしろこの姫、十七歳で赤子を抱いて登場してきた最初から、わたしの産んだ子がいずれはこの新羅の王になるのだ、わたしはその母だ、この国はわたしのものになるのだと出産直後から未来の栄華を夢見てにんまりしている。
侘しい海岸に置き去りにされても、泣き騒ぐ侍女たちを叱りつけ、苦難にあってもぐっと顔をあげて超然としている生まれつきの高慢な女王気質だ。
年の離れた夫のことも、愛してはいないが大切には想っており、その理由というのが、
「わが夫はいずれは新羅の英雄になる男だから」
というもので、功名心の強さや計算高さを覗かせる。
さすがにまだ十代なのでぽろぽろと隙だらけではあるが、もう十年もすれば、新羅だろうと倭国だろうと裏で全てを牛耳る後宮の女帝、俗説における西太后のごとき存在になるのは必定という器だ。
そんな天命のもとに生まれた新羅の姫が、貢物として、碧海を渡りはるばる倭国にやって来て、中大兄皇子と、その実弟、大海人皇子のあいだに投げ込まれる。
中大兄皇子と大海人皇子の登場する時代はドラマチックで面白い。これまでにも多くの小説や漫画になってきた。
両皇子の心をそそる異国の姫君、しかもこの文姫が、かつて兄弟が狂おしいまでに求愛した額田王に瓜二つなのだ。
額田王とはあれである、万葉集を習う時にかならず出てくる、
『茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』
この歌の詠み人で、実の兄弟である二人の皇子から寵を受けたということになっている。
大海人皇子は、姿かたちは似ていても、あのやさしかった愛妻額田王とは似ても似つかぬと、一度は文姫を突き放す。
あっちへ行けこっちへ行けと、唯々諾々と男たちの間で振り回されているようでいて、文姫は静かにその眼光を左右に配り、牙を研いでいる。
文姫はおのれの美貌の価値と効果をよく知っており、それが男を、政治を、ひいては国を動かせるものであると分かっているのだ。
中大兄皇子の盟友、中臣鎌子(藤原鎌足)も出てくる。
中臣鎌子は、倭人にもこんなに美しい男がいたのかと文姫に愕かれるような美男で、こちらも気になる。
新羅王族の夫との間に子まで産んでいるが、文姫は、まだ愛を知らない。
愛とは優しいものなのか、辛く苦しいものなのかも、まだ知らない。
この姫は、集まる男たちを踏み台にして昇っていくタイプに想われる。
その通りに、そうなるのだろうか。
男たちが寄せる激情は、姫をいつかは情愛と政争の渦に引き込んでしまうだろう。
たとえそうなったとしても、その生涯の最期においてこの姫は情をかわした男たちのことを、夜の海の舟の上から星座の光でも眺めるようにして、冷たく見つめているような気がする。