やさしく包み込むように
おれだって子供ではない。子供のつくり方くらい知っている。親父がいなければ、おれは存在しない。それでは、おれの親父だった奴は一体どんな奴だったんだろう。
おれは親父に会いに行くことにした。子供ではないので、どこに住んでいるのかさえわかれば親父に会いに行くことは造作もない。調べあげた住所は、おれの家から少し離れたところだった。ひとりで電車に乗ると緊張する。俗世の匂いがおれは苦手だった。
親父はつまんない家に住んでいた。母上と行く神様の家みたいな立派なものじゃなくて、本当に小さな、ささやかなアパートだった。おれは大人の男はみんな神様の家みたいなところで暮らすんだと思っていたけれど、そうでもないようだ。
すみません、ここに野崎という人はいますか?
壮一、壮一じゃないか!
どうやらおれの親父のようだった。親父は目に涙を浮かべて、おれの肩をしきりに触ってくる。
どうだ、中に入れ。あいつはどうした、あいつから逃げてきたのか?
いえ、今日は母が心配するから帰ります。
そんな他人行儀みたいな口をきくのはやめろ。
でも、年配者にはこう話せと言われていますので。
それは誰に言われているんだ。
神様の家ではみなこういう話し方です。
親父は泣いていた。なんで泣く必要があるんだろう。
「壮一、やっぱりお前は亜紀のところから離れるべきだ」
どうしてそう思うのですか、お父さん。
「どうもこうも、お前はあの変な宗教一色じゃないか。だから言ったんだ、俺が引き取るって、お前に子育てなんかできっこないって」
親父は母上の話をしてくれた。
「あいつも悪気があったわけじゃないんだ。ただちょっと、その、いろいろ具合が悪かったんだ。私から壮一を取り上げるなら死んでやると言われて、俺は言うことを聞くしかなかった」
親父から聞いた話は衝撃的だった。母上はおれが赤ん坊のころ、育児サークルで知り合ったママ友に感化されて神様の家へ連れていかれたらしい。そこで母上は目覚めて、神様の家に入り浸るようになったらしい。
「あの頃は俺も仕事が忙しくて、あいつにもお前にもあまり構ってやれなかった。その結果がこれだ。俺はこれが運命なら、もう二度とお前には会えないと思っていた」
親父は後悔されているようだった。
おれは薄々感じていた。神様の家のほうがおかしい、本当はおれの世界のほうが異常でおれが俗世と見下している世界が正常で、おれの思考は間違っている。おれは生まれないほうがよかったとすら思っていた。でも、おれの顔を見て親父は泣いている。一体なぜ泣くのだろう。おれには理解できなかった。
お父さん、僕はこれから神様の家で暮らすことが正しいのかお父さんに伺いに来たのです。
親父は泣きながらおれに言った。
「壮一、俺はお前を一度捨てた男だ。俺の言うことなんか聞くなと言いたいが、俺の気持ちを正直に話す。俺はお前らしく生きてほしい。お前がどうしても神様の家とやらに行くというなら、俺に止める権利はない。お前たちから逃げ出した卑怯者だ、俺のことを恨むなら恨め。それが俺の精一杯の償いだ」
「でもな、お前がもし少しでも自分自身で道を決めたいなら絶対神様の家には行くな。どこでもいいから高校には行け。そこで勉強して、お前だけの人生を歩いてくれ」
お前だけの人生とはなんですか、お父さん。
「それは自分で見つけるんだ、神様から言われた言葉に従ったまま一生空っぽの人生を送るのか、それとも自分のやりたいことをやるのか。それを自分で決めるんだ」
なんですかそれは、空っぽの人生ってなんですか。
「俺はお前に何もできなかったことを後悔している。本当はお前の心にいろいろ入れてあげなきゃいけなかったんだ。悪かった」
何を言うんですかお父さん、僕の心は祈りで満たされているんですよ。
「それはお前の言葉じゃない。ただ軽くて聞き心地のいいだけの言葉だ。そうじゃなくて、辛いだろうがお前の嫌な言葉でお前を満たせ。お前の嫌いなものがお前を作る。神様の家で嫌なことは起きないだろう。でも、それはお前の人生じゃない。借り物の神様の人生だ、俺は神様の父親になったつもりはない」
お父さん、よく意味がわからないですよ。
「わからなくていい。だからみんな勉強するんだ。勉強しているうちに、わかるようになる。まずは神様の家に行く前に少しでも外の世界、お前らの言葉では俗世だったな。俗世を知ってからでも遅くない」
でも母はそれでは遅いとお怒りになります。
「そんなことはない。お前がこうして来てくれた。物事にはやいおそいはないんだ」
親父は泣いていた。母上はいつも幸せそうな顔をしていた。親父の顔をおれは泣き顔しか知らない。
わかりました、お父さん。僕はお父さんの笑った顔が見たいです。
そうかそうか、壮一、俺の笑った顔だな、どうだ、笑っているか。
親父は泣きながら笑った。おれは変な顔の親父の顔を見て笑いながら、泣くとは一体どうやるのだったかなどくだらないことを考えていた。
おれが最後に泣いたのはいつだろうか。
おれは誰かのためにこんなに泣けるだろうか。
おれのことを捨てた親父のくせに、こんなに泣くなんて、おかしい。
いや、おかしいのはおれか。
おれは、どうすればよいのだろう。
神様は教えてくれない。おれのことはおれが考えるしかないのだ。
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