第34話 あなたという人間
体育祭の結果は、見事私たち、緑軍が優勝した。
競技得点と応援得点は僅差で赤軍がリードしていたが、最後に加算されるパネル得点で緑軍の優勝が確定した。
別に優勝賞品があるわけでもないのだけど、自分たちの努力が評価されたというのは嬉しいもので、特に優勝の決め手となったパネルを描いた本人たちは誰よりも喜んでいた。
閉会式が終わると、体育祭の熱気も冷めやらぬ中、会場の片付けが始まる。自分の椅子を教室に戻して、重い水筒をカバンに入れる。教室からの帰り道は、いつもの日常に戻ったような気にさせられた。
そのままグラウンドへ向かい、まだ終わっていない作業を手伝うことにする。
ちょうど、
「でもまさか、本当に幽霊が出るとはね!」
「いや、幽霊じゃないって絶対」
「じゃあ、この絵をどう説明するのさー!」
先輩たちも一緒だったようで、私に気付くと「
「やったね! 優勝!」
「はい。さすが、先輩方です」
「いやいや! 構図決めたのは音儀さんだし、わたしらはほんと、何もしてないから!」
「そうねー、もう半分は、幽霊のおかげ?」
「まだ言ってる。でも、本当に不思議。パネル係の人たちも、先生もクラスの子たちも、知らないって言うんだよー? この絵、いったい誰が描いたんだろう」
先輩がパネルをなぞる。
元々、玄武の絵は完成していた。けれど、構図を横にして、玄武を立たせたことで左端に空白ができてしまった。先輩たちはそこを埋めるいい案がないかと本番当日ギリギリまで考えていたが、結局余計なことはしないという結論に至ったのだそうだ。
しかし、今、私たちの前にある玄武のイラストが描かれたパネル、その左端には大きな葉っぱのようなものが描き足されていた。
「というかこれ、なんの葉っぱなんだろう。赤い……なんだっけ、秋の」
「紅葉でしょ。幽霊は生前、紅葉が好きだったんだよ!」
「なにその推理。誰かのイタズラでしょ」
「違うよ幽霊だよー。美術部の幽霊! だってただのイラストにしては上手すぎるでしょ。それに、わたしらが優勝できたのは、もしかしたらこの紅葉のおかげかもしれないんだから」
「そうかもしれないけどさー」
先輩たちが言い合っている間も、美桜は絵から目を離さない。
「あ、もう運ぶって。あとはわたしらがやっておくから、後輩たちはもうあがって大丈夫だよ! 今日はありがとう、大義であった!」
先輩がビシっと敬礼するので、私も真似をして背を伸ばす。
パネルが運ばれていく様子を見ながら、隣の美桜に耳打ちをした。
「幽霊が描いてくれたんだって」
「幽霊なんていない」
「
「信じてない。いたとしても、触れて、話せないのなら意味がないから」
何故か自信満々な表情で睨まれる。
「そういうものでしょう?」
「いやー、わかんないけどさ」
片付けも大方終わり、グラウンドからも人が少なくなってきた。今なら聞けるかもと思い、美桜に耳打ちをする。
「ねぇ、櫻坂さん」
「なに?」
「あれ、描いたの櫻坂さんでしょ」
パッと顔を離して、目を丸くする美桜。
「なんで?」
「ごめん、昨日の夜、私もたまたま学校にいて、そのとき見ちゃった。グラウンドで、櫻坂さんがパネルの前にいるの」
「……そう」
昨晩、私はギャル神様と別れてから、学校のグラウンドへと向かった。
しかし、先約がいたことで、私は画材を置いて家に帰った。
美桜は、電灯もないグラウンドで、一心不乱に絵を描いていた。月明かりが照らし出した美桜の表情は、今でも忘れない。
頬に付いた絵の具すら取ろうとせず、目の前の線と向き合うその姿はまさに、執念と言わざるを得ない迫力を感じさせた。
「玄武の本来の漢字は玄冥で、冥は陰を意味する。文字通り、それは日の当たらない世界、あの世を意味する。命を司る神と呼ばれるほど、玄武は人の魂に縁の在る神様なの。あの紅葉は、あたしから楓へのメッセージ。もしかしたら、玄武が届けてくれるかもしれないでしょう?」
「そ、そうだったんだ」
その説明は、絵を描き足したことを肯定するものだった。
美桜があんな絵を描けるということが、そもそも驚きだ。美桜は自分で絵は苦手と言っていたし、着色の技術においてはもってのほかだ。それなのに、このパネルに描かれた紅葉は、確かな技術の上で描かれている。
「櫻坂さん、絵、描けたんだね」
「描けたんじゃない。描けるようになるしかなかったの」
美桜は自分の指を見ながら言った。大きく腫れ上がった、タコのできた指。
一生懸命頑張りました、程度の練習ではあんなタコそうそうできない。それこそ、締め切りに追われた漫画家さんのように、血反吐を吐くような思いをしなければ指の形など変わりようがないのだ。
「あたしね、絵を描こうと思うの」
「え、しょ、小説は!?」
思わず食いついてしまって、ハッと口を押さえる。
「小説も書くわ。でも、それだけじゃダメなの。あたしは、楓の絵も一緒に、連れて行かなくちゃいけない」
「絵を、模写するってこと?」
「少し違うかもしれないわね。あたしのこの指に、紅葉楓を宿す」
美桜の言っていることは、理解できる。実際、憧れた絵師さんの絵柄に近づけたくて、寄せて書くこともあるし、どれだけ似せられるかが絵のクオリティの善し悪しに繋がるという価値観で創作をしている人もいる。
「すっごく、難しいよ。それって」
それでも、絵を書き続けるどこかで、自分なりの正義と、絵に対する姿勢が見つかって、線に自分の気持ちが乗り始める。そうすると、どれだけ絵柄を似せても、線は自分の心しか映してくれなくなる。
だからこそ、絵柄というものは、唯一無二なのだ。
「それ、あなたが言えた口なの?」
「え?」
「電撃引退して、悪い噂ばかりが流れたアイドルが復帰して、トップを目指すなんて。あたしより難しいと思うのだけど」
「そ、それは、そうかもしれないけど。私は、自分一人の力じゃないし、いろんな人に助けてもらって、ようやくここまで来たわけだから」
「なら、あたしも同じよ。音儀白雪」
美桜がこちらに、手を伸ばしてくる。
「力を貸して」
「ち、力?」
「絵を、教えて欲しいの」
真剣な表情だ。
小説を諦めて、絵に逃げる。そういう意味合いではないのだろう。挑戦的な美桜の、真っ直ぐな瞳は、いつかの光景を思い出させる。
「あなた、絵が描けるんでしょう?」
「ま、まぁ、それなりに」
「あなたの線は、楓の描く線に、とてもよく似ている。あたし一人じゃ、楓の絵に近づけるのにも限界がある。だから、あなたの力を貸してほしいの」
美桜の手が震えている。
分かっている。
だって、これは決別だ。
美桜はこれから、紅葉楓はもうこの世にはいないということを、認めようとしているのだ。
「お願い」
「……うん。わかった」
美桜の手を握る。強い手の力に、意識が持っていかれる。もしこれが夢なのだとしたら、きっと今が、醒めるときなのだろう。
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れた天井、寝慣れたベッド。朝起きて、もそもそ一人でご飯を食べて、学校に着けば美桜がいる。二人で今日の授業の文句を言いながら、笑い合う帰り道。また明日ねって手を振って別れる。そんな日々が。
待っていない。
そんなものはもう、二度とやってこない。
夢じゃないのだ。何もかもが。
夢であってたまるか。
そうしたら、これまでの頑張りや、美桜の葛藤。それから、音儀白雪と、
「あなたも、頑張って。きっと厳しい道ではあるでしょうけど」
「頑張るよ。私は、音儀白雪は、誰もが認めるトップアイドルになってやる。それが私の夢だから」
「そうね」
夢とは生きる意味だ。
そして、あの世へ持って行く名刺でもある。
自分が死んだとき、きっと待っててくれる人たちがいる。そんな人たちに、こんなことしてきました。こんな風に、人生頑張って生きました。走り抜けました。
そう、自慢できるように生きたい。
「あたしの夢は、あたしの小説に、楓の絵を描いてもらうこと!」
美桜が、夕陽に向かって叫ぶ。どんな青春ドラマだって、ツッコみそうになった。それは美桜本人も分かっていたのだろう、茜色の夕陽よりも真っ赤に頬を染めて笑っていた。
「ほら、次はあなたの番」
「え!? え、えっと……絶対、トップアイドルになってやるー!」
まだ残っている生徒や先生にも、きっと聞かれた。反響して返ってくる私の声は、ひっくり返ったみたいに上ずっている。
「楓はもういない」
そっと零す声は、もう震えてはいなかった。
「だから、あたしが楓を連れていく」
「でも、絵をたくさん練習して、絵が描けるようになったら、真似だけじゃなくて、櫻坂さん自身の絵も描いていいと思うよ。それだけ続けられるってことは、きっと絵の才能があるってことだし」
「いいえ、描かないわ」
「もったいないよ」
「忘れたくないの。楓が描いた線の軌跡を」
いつだってそうだった。私の絵を見てくれるのは美桜だけだ。絵だけじゃない。私の悩み、私のダメな部分、その全てを見届けてくれたのは、美桜だ。
美桜は私のすべてを知っている。美桜が私のことを忘れたら、本当に、紅葉楓という人間は、この世に存在しなかったということになってしまう。
「あの子の絵は、人の心を打つ絵よ。それをこの手で、証明してやる」
「櫻坂さん……」
「それに、あたしも背負ってみたいのよ。他人の夢を」
憑きものが取れたような、美桜の顔。こんなに優しい顔、できたんだ。
「ね、ねぇ、櫻坂さん」
「なによ」
「ギュって、してもいい?」
「はあ? 何急に」
「な、なんとなく」
「ふーん。そうやって、今までいろんなプロデューサーやディレクターを口説いてきたので」
睨むと、美桜は肩を竦めた。
「冗談よ。好きにすれば?」
美桜が両手を広げたので、遠慮なく飛び込む。遠慮なんていらない。したことない。
だから親友だったのだ。
もし、美桜がいなかったら、私は、何度生まれ変わっても同じような日々を過ごしてたと思う。
「ちょっと、あなた、泣いてるの?」
「うぅ、ごべん……夢を語ると、なんだか涙が出てきちゃって。ない? そういうの」
「ない。そんなの、酔っ払ったお父さんくらいよ」
「あはは」
そうは言いつつも、美桜はじっとしていてくれている。
「強いね、美桜は」
「強く、してもらったのよ」
もう一度、美桜に触れられるなんて思ってもみなかった。こうして触れ合って、熱を交換すると、想いが流れ込んでくる。
もう、大丈夫だよ。紅葉楓。
あなたは不運にも、事故に遭って、死んでしまった。
でも、あなたの人生は決して無意味なんかではなく、こうして、意思を受け継ぎ、それを生きる糧にしてくれている人もちゃんといる。
美桜は強い人だ。だからきっと、これからも、紅葉楓の果たせなかった夢を背負って生きてくれる。
美桜だけは、絶対に、紅葉楓が確かにこの世に存在していたという事実を忘れたりしない。
だから安心して。
「もう大丈夫、ありがとう、櫻坂さん」
「平気よ、ちょっと気色悪いなって思っただけで」
「だ、抱きついただけじゃん。許してよ」
「申し訳ないけど、あなたを許したことなんか一度もないわ」
「ひ、ひどい」
「どうせ許さないのだから、気負うことはないのよ」
急に美桜が片手を挙げたかと思うと、思い切り背中を叩かれた。
痛ぁ! と思わず声をあげて仰け反る。
「夢は勝手に背負うもの。これはあたしの決定であって、あたしの人生なのだから。罪悪感なんて感じてようものなら失礼にも程があるってことよ」
どこでもない虚空に向かって話す美桜。一陣の風が、そんな美桜の声を運んで空に消えていく。
「幽霊がそこにいるんだとしたら、聞かせてやろうって思ってね」
「信じてるんじゃん、やっぱり」
「それか、玄武様でもいいわ。命を司る神なんでしょう? なら持って帰ってくれないかしら。その紅葉、結構上手く描けてるのよ」
「神様は信じるんだ」
「神様はいるでしょ」
あっけからんと言う美桜に、思わず笑ってしまう。
「いるかもね」
グラウンドの片付けはすべて終わったようだ。校舎と体育館倉庫から、続々と生徒たちが出てきて、それぞれ校門へと向かっていく。
私もカバンを背負い直して、美桜と一緒に帰ることにする。
私の日常は、すべてが変わってしまった。
余裕なんてなくて、時間や疲労に追い込まれて、決して緩やかとは言えない日々に必死にしがみつく。
もしかしたら、この努力の先に、何もないことだってあるかもしれない。どれだけ頑張っても結果は振るわなくて、報われなくて、トップアイドルになるなんて夢のまた夢で、結局干されて終わり、だなんてこともあるかもしれない。
それでも、一応、名刺には書けるから。
トップアイドルにはなれませんでしたが、夢を叶えるために、いろんなものを犠牲にしながら、なりたい自分になるために必死で走り抜けました。それはとても輝かしい日々で、一瞬ではありましたが、私の人生はとても充実したものだったと、そう言い切れます。
……結局、目指すことが大事なのだ。
機械的な日々を送るのも、たまには、必要かもしれない。でも、それだけでは絶対に後悔するから。
もし明日、隕石に頭を撃ち抜かれて死んだとしても、誰かに覚えていてもらえるような、そんな人生にしたい。
でも、結局、それもただの願望でしかない。そしてその願望は、決して叶うことはない。自分の手で掴みとりに行かなくちゃ、ダメなんだ。青臭い綺麗事だって忌避していた時期もあったけど、そうやって前に進む人の背中をカッコいいって思ったことは何度もあった。だけど、私には身の丈の合わない努力だって諦めてた。
自分を一番邪魔しているのは、結局自分だ。
そういうときは、一度死ななければならない。死なないと、バカは治らないとは、よく言ったものだけど、その通りかもしれない。バカな私は、さっさとお陀仏してもらわないと。
「ねぇ、美桜って呼んでもいい?」
街路樹の下を歩きながら、聞いてみる。
数秒前までの私は、とっくに死んでいる。
そして生まれ変わった私は、美桜との関係を、もっと深いものにしたいと前に進む。
「嫌よ」
「えー! なんで!?」
「あたしのことを名前で呼んでいいのは、楓だけ」
「いや、ご両親とかにも、名前で呼ばれるでしょ」
「うるさいわね……」
「ねー、いいでしょ?」
もう、元の関係には戻れないのかもしれない。
あのときみたいな温度と空気感は、二度と手に入らないのかもしれない。
それでもいい。
それよりも、前に進めず、時間が止まってしまうことの方が怖いから。
生まれ変わるのは、早いうちがいい。明日から、とか、余裕ぶってると、また体たらくな日々に逆戻りしそうだし。
「あなたって、本当に、図々しいわよね」
「それくらいがアイドルには丁度いいんだよ」
「はいはい」
「あ、流したー」
早足になる美桜を追い掛けて、私も走る。
もうじき夏も終わり、この蒸し暑い夜もなくなるだろう。
たくさんの思い出と、悲しみと、夢を乗せた八月が終われば、じきに秋がやってくる。
その頃にはこの街路樹にも、紅葉が色づくだろうか。
冬が来れば雪が積もり、春になれば、きっと美しい桜が咲く。
整然とした季節の移り変わりの中で、私たちは燦然と時代を駆け抜ける。
奇跡や想いさえも乗り越えて、人生を彩る。
おとぎ話みたいな夢を、追い掛けながら。
陰キャの私が元アイドルに転生したら大変なことになった 野水はた @hata_hata
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