亮と愛

 その日は早番で、朝のニュースを見る機会がなかった。それは同じく同僚たちもそうだった様子で、何故電車がこんなに空いているのか。皆そんな疑問を抱きながら出勤していたという。

 そうして、俺は昼休み、食堂で流れるニュースで、明日世界が終わる事を知った。

 世界中にはびこっている地盤が、全て揺れる。その後には、大氷河期が訪れる。例え地震で生き残ったとしても、世界中で麻痺した電力など復旧する筈もなく、間違いのない破滅なのだと。

「俺、早上がりします」

 昼食の後、俺は課長に訴えた。

庄司しょうじ君、君はとても優秀な人材だった。帰っても良いよ」

 と、課長は微笑した。

「最後の時間を、家族と過ごしなさい」

「有難うございます!」

 俺は頭を下げると、

「来世があるのかどうか、判らないが、また縁があれば巡り合えるだろう。その時は、また飲みにでも行こう」

「そうしましょう」

 俺はそう言って、踵を返した。

 課長は離婚歴のある一人暮らしだ。別れを惜しむ相手がいないのだろう。俺は部署の扉を開く。丁度その時、駆けてきた子供とぶつかった。

「こら、翔太!」

 子供の後ろから声がする。声の主は、艶のある黒髪をした、美しい女性だった。見た事のない人物だ。俺が驚いていると、課長の声が聞こえてきた。

「仁美……翔太」

 殆ど泣き声が籠った課長の言葉を聞いた。

「何故、ここに」

「逢いに来たのよ。世界最後の日だから」

 ハイヒールの鳴る音。子供の駆け足。俺はあえて、家族の姿を見ないように、背を向けた。


 会社から出て、妻にスマートフォンから電話をかける。妻は専業主婦だ。家にいて、既に地震の事も知っているだろう。

「……あなた」

 電話越しに聞いた声は、今にも泣き出しそうな声色をしていた。

「今から帰るよ、まな。お前、なにか食べたいものでもあるか?」

「……あなたがいるなら、何もいらない」

「判った。急いで帰るよ」

 俺は電話を切った。俺たちは結婚して一年になる。子供もいないし、それにまだ二十代の前半だ。フットワークも軽いものだった。

 昼過ぎの電車は、普段より人が少なく感じた。電車内の掲示板も、明日の事で溢れかえっている。

 地元の駅に着くと、俺は早足で妻の待つマンションのインターホンを鳴らした。

「あなた……」

 妻の声が聞こえてくる。

「帰ってきたよ、開けてくれ」

 俺が言うと、自動ドアが開く。エレベーターを使うのもこれで最後かと思うと、何処か虚しさが込み上げてきた。膨大な量のローンを借りて買い取った我が家に、一年程しか住む事が出来なかったのが、少し残念だった。

 しかし、この一年は、沢山の思い出がつまっている。それを、早く妻と共有したい。

「ただいま」

 俺が扉を開けると、妻は玄関で待っていた。

「……りょうちゃん!」

 学生時代に戻ったかのように、妻は俺の名を呼び、抱きついてきた。

「愛……」

 後ろ手に扉を閉め、俺はその抱擁を返す。一人で、不安だったのだろう。奥に続くリビングでは、既に交通機関の麻痺を伝えるニュースが流れていた。

「大丈夫、大丈夫。俺がいるよ」

 子供に接するように、俺は妻の頭を撫でた。

「ご飯、混むと思うから朝一で買ってきた。それに、亮ちゃんの好きなローストビーフもあるよ。ワインも冷えているし、それに合うチーズも買った。だから……」

 だから、行かないで。

 そんな声が聞こえた気がした。

「何処にもいかないよ」

 俺は苦笑した。

「さぁ、リビングに行こう」

「うん」

 愛は頷いた。

 リビングのテーブルの上には、まさに世界の終末に相応しい豪華な食卓が出来上がっていた。本当に、推測が、確信に変わる。それから、それは覚悟へと変化した。自分でも判らない。只、認めるのが恐かった。この世界が終わる。俺は愛する妻ともう食卓を共にする事も、ベッドで眠る事も、今度飼おうかと話していたペットの話も、出来なくなるのだ。

「豪華だな」

「ローストビーフ以外は買ったものだけどね」

 冷えたグラスを取り出しながら、愛は言った。ローストビーフは彼女の得意料理だ。それで俺は胃袋を掴まれた。そういっても他言ではない。

「乾杯、しよ?」

 グラスに白ワインを注ぎ、愛は口元を引き上げた。

「地球最後の昼に、乾杯」

「乾杯」

 本当は“夜に”の方が相応しいだろう。だが、今日はまだ日が照っているし、そんなたわ言を言うつもりには、なれなかった。

「地震、恐いね」

 ぽつりと、妻は言った。

 その時だった。

 視界が歪み、俺は椅子からテーブルへと伏していた。訳が判らない。混乱した頭の上から、愛の声を聞いた。

「睡眠剤、効いてくれて良かった」

「……?」

 俺は何も言えないまま、彼女へと視線を向ける。

「誰にでも優しい亮ちゃん。私だけの。そう、もう、私だけのもの。誰にも、渡さない……」

 スリッパで床を踏む音がする。まるで、俺が浮気でもしているかのようだ。

 彼女は数枚の紙をばらばらと床に巻く。そこには、俺が彼女以外の女と、ホテルに入る写真が貼られていた。

「私、知ってたんだ、亮ちゃんが浮気していた事。確信も得たいから、探偵さんにも調べて貰った。私以外の人を抱くって、どんな気持ちなのかな?」

 そんなに心地良くなかった。動かない口が、言葉を発しようとする。これは営業だ。この女社長さえ手にできれば、上手い商談がまとまりそうだったのだ。

 しかし、そんな言葉も、もう愛には届かないだろう。妻を裏切った代償は、鋭い針で心臓を刺されたように痛く、熱の帯びたものだった。

「大丈夫だよ、私もすぐに行くから」

 キッチンから鋭利な刃物を持ち出して、愛は囁く。それから、俺の身体中を、刃物で突き刺した。睡眠剤の効果か、余り痛みは感じない。これまでの日々が、走馬灯のように巡る。

 俺が目を閉じる数秒前、愛は首の頸動脈を切って、倒れた。

 血まみれになったこの部屋には、既に空気しか存在しないのだ。


 世界最後の日、若夫婦の笑い声も、もう聞く事が出来ない。

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明日世界が終わるなら 武田武蔵 @musasitakeda

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