7章 王者讃頌

時は動き出す

 王都包囲戦にて、ヴァロワ王家軍が貴族連合に勝利をおさめてから、一ヶ月ほどが経った。

 季節は冬に向かっていた。ブリアンティス平原の沃野には麦が蒔かれ、春の芽吹きへ向けて地中で眠っている。王都の整備計画も再開され、今は第三区画が集中工事に入っている。冷え込みが厳しくなる前に、可能なかぎり修復を進めようと、役人も人足も共に力を尽くしている。現場には、病から回復したエティエンヌも時折姿を現し、働く者たちを労っていた。

 貴族連合の勢力は大きく減じていた。支配地域はいまや、フレリエール北西部にわずかに残るだけになっている。最後の追討作戦は近日中に、西海岸の同盟諸侯と共同で行われる予定だ。作戦には、ヴァロワ王家古参の諸将を多数招集するとエティエンヌから聞かされた。


「そいつらで大丈夫かよ?」


 非協力的な従来の態度を思い出し、ルネは首を傾げた。


「最後くらいは花を持たせなければ、論功行賞が困難なのだ。彼らは王都で目立った活躍がなかった。だが古参の将を蔑ろにもできない。だからせめて、残敵追討で帳尻を合わせねばならない。彼らも立場は理解しているだろう、相応の奮戦はしてくれるはずだ」

「そういうものなのかね」


 政治なるものは、とかく面倒そうだ。ルネは、それ以上首を突っ込まないことにした。



   ◆



 街で必要な食材を買い込む。包囲が解かれた後は、市場にも多くの品が並ぶようになった。かつてルネが「死ぬ」前に暮らした、古い王都の賑わいが戻ってきている。

 だが、すべてが古いままではない。

 青果店で籠いっぱいに果物を買い込むと、店主の婦人が満面の笑みで訊いてきた。


「『不死鳥王』様の御用達ですの?」


 苦笑いしながら頷く。エティエンヌはまだ戴冠していない。派手な典礼は事態が落ち着くまで控えたい、との意向から、立場は依然王子のままだ。だが既に、王としての二つ名が市中に広まっている。「不死鳥王」――いちど死んで蘇った経緯と、大いなる不死鳥フェニックスを呼び寄せた徳とから、誰からともなく呼ばれ始めたらしい。

 ともあれ、婦人は目尻を下げて頷くと、赤味が鮮やかな林檎をひとつおまけしてくれた。



   ◆



 作った菓子を手に自室へ戻ると、エティエンヌがいつもの青椅子に座っていた。机に置かれたポットの茶は、横に控えるジャックが淹れたのだろう。カミツレの甘い香りがかすかに漂っている。


「呼びに行く手間が省けたぜ。ほれ、ギモーヴだ」


 賽子さいころ様の菓子を盛った皿を机に置けば、エティエンヌが目を輝かせて一つを摘まみ上げた。茶に落とし、溶ける様子をうっとりと見つめる。


「本当に気に入ったんだな、そいつ。今回はオレンジと林檎で作ってみた、好きなだけ食え」


 市中の敬意を集める不死鳥王様も、こうしていると子供のようだ。机の向かいから、軽く頬杖をつきつつ眺める。いくら見ていても飽きない。

 ふと見ると、机の端に髪の毛が落ちている。少しばかり違和感があった。癖毛はルネの髪のはずだが、色がない。茶色はどこいった――と考えかけて、ルネはひとつの可能性に思い当たった。

 部屋の端、姿見の前に立ってみる。


「やはりな」


 前髪に幾筋か、白いものが混じっていた。

 霊山を離れて数か月経つ。もともとルネの身体は、霊山の豊かなマナを毎日摂ることで若返っていた。山から離れた今、人並の老いが戻りつつあるらしい。

 覗きに来たエティエンヌも、状況を飲み込んだようだ。少し考え、ルネの肩に手を置く。


「ルネ、霊山に戻れ。いままでよく働いてくれた」


 湧いたかすかな胸の痛みに、ルネは自ら驚いた。


「それで、あんたは大丈夫なのかよ」

「『神の料理人』の力、惜しくないと言えば嘘になるが……王都回復が成った今、これ以上頼りきるわけにもいかない。それに――」


 一度言葉を切り、エティエンヌは窓の方を見遣った。


「――今は知っている。王の権威は『王冠』によって得るものではない。民の信頼によって託されるものだと、な。王冠がなくとも私は王となる。おまえの不老不死を、奪わずともよいのだ」


 ほう、と、溜息が出た。

 エティエンヌもずいぶん変わったものだと、ルネは感嘆した。なにもかも「神の料理人」に頼りきりだった、悪評だらけの王子と同じ人物とは思えない。

 だがルネの側にも、言いたいことがある。


「ほう、そうか。じゃあ、ギモーヴはもういらねえんだな?」


 心底驚いた風に目を丸くするのが、可愛い。


「なんで驚く。俺がいなくなるってことは、そういうことだぞ」

「い、いや。しかし。それは――」


 顔を真っ赤にする王子、いや不死鳥王の肩を、ルネは笑いながら叩いた。


「あんた、やっぱり青いぜ。そんだけ青けりゃ、これから先、手に余ることも色々出てくんだろ」


 叩くのをやめ、肉の薄い肩をゆっくりと撫でる。


「あんたに何かあった時、俺が側にいなかったら……あんたの苦しみに気付かねえまま、山でのうのうと暮らしてたとしたら。間違いねえ、俺は悔やむだろうよ。永遠に続く一生の間、ずっと」


 冗談めかして、ルネは笑った。


「あんた、俺にしょい込ませるつもりか。未来永劫続く後悔を」

「……では」


 エティエンヌの声音が、心なしか明るい。


「ついてってやるよ、ついていけるかぎりはな。山から離れた身体が、どこまで持つかはわからねえがな」


 エティエンヌの手が、ルネの右手を上から包んだ。握り締めてくる掌に、ルネはさらに左手を被せた。

 掌が三つ、重なる。


「悔いを抱えて、生きたくはねえんだよ。もう絶対に、な」


 窓の外から、やわらかな西日が差し込んでくる。あたたかな光が机を照らし、宝石のようなギモーヴの山を、静かに輝かせていた。

 重ねた掌の温かさを楽しみながら、ルネはふと思いついた。


「こいつら、功のあった市民に配ってみるのはどうだろうか。『不死鳥王様の大好物』って触れ込みで」

「良案だな。私としても、疫病と戦ってくれた医師や看護者たち、身命を賭してくれた兵士たちには報いたい」

「よろしいのですか?」


 控えていたジャックが、不意に口を挟んできた。


「なんだ、異論があるのか?」

「いえ、良いことだとは私も思うのですが……殿下がギモーヴをお好きなこと、広く公表してしまってよろしいのですか?」

「どこに問題があるのか、私にはわからないが」


 エティエンヌが首を傾げれば、ジャックは視線を泳がせながらうつむいた。


「その……ギモーヴを召し上がるおふたりが、あまりにも仲睦まじいご様子ですので」


 少し驚いた後、ルネは大笑いした。

 それほどに、自分たちは余人が立ち入れない雰囲気を出していたのか。だが問題はない。


「分けたところで、俺たちの愉しみが減るもんじゃねえしな。それに――」


 頭の中、菓子が次々に浮かんでくる。アップルパイ、林檎のコンポート、タルト……冬にかけて林檎の供給は増える。林檎ひとつあれば、作れる菓子はたくさんある。

 そして、季節が変われば食材も変わる。作れるものはさらに増える。


「――いちばんの好物がギモーヴだと、まだ決まったわけじゃねえしな」

「ギモーヴよりも美味しいものが、この世にあるのか」

「さあな、それはあんたの好み次第だ。だが、食べてみなきゃ口に合うかもわからねえ」


 心中、ルネはつぶやく。

 ――さあ、どんどん作ってやるぜ。あんたが食べたことのない菓子を、料理を。

 ――一緒に食おうぜ。広く市民に喜ばれるのも嬉しいが、あんたとの食事は格別だ。マナがあろうがなかろうが。

 ――俺の寿命が尽きるまでに、何度の食事を作れるかはわからねえ。だが一食でも多く、あんたのために作りたい。


「この世にはたくさん、あんたの知らねえ美味がある。できるかぎりは作ってやるから、だから――」


 重ねた手に、少しばかり力を籠める。


「この年寄より先に、逝くんじゃねえぞ。料理人には、食べさせる相手が要るんだよ」

「ならば、私からも」


 エティエンヌが薄く笑った。やわらかな陽光の中、整った目鼻立ちがくっきりと陰影を描いている。


「別れの時は、なるべく先延ばしにしてくれ。できれば、おまえを見送りたくはない」

「そればっかりは、冥王様の機嫌次第だからなんとも言えねえが――」


 ルネも、笑いを返す。


「できうるかぎりは踏みとどまってやるぜ。一度は拾った命、使えるかぎりは使ってやる」


 姿見の中、茶髪に混じる白い筋が、いやにきらきらと光っている。

 動き始めた時の中、自然の摂理に抗う術はない。だが、定められた刻限の中でできることをやる――人間は、本来そういうものだ。

 守り育てていくべき若人。肩を預け合う相棒。飯をうまそうに食ってくれる友人。人間にとって、他に何が必要だというのか。

 もういちど、掌に力を籠める。

 エティエンヌ・ド・ヴァロワ、この手はおまえのためのものだ。好きなだけ使い倒せ。いつかこの手が干からび、皺だらけになったとしても。

 そして、言いたいことはもうひとつある。あえて口には出さないが。

 見たいんだよ。

 金色のまっすぐな髪を、後ろで一本にまとめた頭に、本物の「王冠」が載るところを。

 貧民あがりの料理人じゃなく、黄金と宝玉で造られた煌びやかな細工物が、身を飾るところを。

 そして王の口から、あまたの勅令が発せられるところを。発せられた言葉が、この国を覆う冷たい支配を解き放っていくところを。止まっていた時が、動き始めるところを。

 目を閉じれば浮かんでくる。城の広間に集う貴族たち、将軍たち。満場の視線を一身に集める、高貴なガウン姿の「不死鳥王」。

 聖教会の司教が、ゆっくりと黄金の冠を載せる。一筋の乱れもなく整えられた、金色の髪の上に。

 微笑みと共に絨毯を歩く、新たなる王。城門を出れば、迎えるは万雷の拍手と歓喜の声、祝福の頌歌――


「何を考えている」


 不意の声に、思考が引き戻された。空想の中で冠を戴いていた顔が、目の前で笑っている。


「なんでもねえよ」

「そうか。なにやら、とても幸せそうだったが」


 幸せ、か。そういえば、かつては思いもしなかった。山の外に幸せがあるなどとは。

 いちど「死んだ」あの日、人の世に在るのは、ただ苦しみと悔いばかりと思っていた。

 今も悔いは消えてはいない。だが、償う道もあるのだとは知った。前途ある若人に己が力を捧げたいと、その結果を見届けたいと、いまは確かに願っている。

 きっとそれこそが、我が身に残された「幸せ」なのだ――

 無言で笑えば、エティエンヌは少し寂しそうな笑みを返した。


「それほどに楽しいことなら、せめて話は聞きたかった」

「心配ねえよ。いずれわかる」

「……ならば」


 笑みから寂寥の色が消えた。ふたたび、手が強く握られる。


「その時は、共に楽しもう。手を繋ぎ、並び立って」


 ルネは思わず、声を上げて笑った。

 ――戴冠の王と並び立つ、か。

 空想の景色に自分を描き加える。面映ゆいが、望まれるなら一緒に行こう。勝利を約す神の一皿と共に。

 不死鳥王の戴冠に、治世に、立ち会えるのならば。不老の身など、捨てたところで何も惜しくない。

 今はただ、願う。来たるべき時まで、この身が持ちこたえることを。



 【完】






 -----

 以上にて本編は完結です。

 ルネとエティエンヌの旅路を見届けていただき、心より感謝いたします。

 ありがとうございました!


 次話は付録の「参考資料集」です。

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