神の一皿
「歌、聞かせてやりたかったぜ。あんたにもな」
エティエンヌの枕元で、戦況報告と共に、夕方のスープ配布の様子を伝える。数日前よりも肉の落ちた顔が、静かに笑った。
病状はさらに進行していると、侍医からは聞かされていた。おそらくは今夜が峠、とも。
王都を包囲する貴族連合軍は、相変わらず静かだった。不気味なほどに何もしないまま、ただ周辺を固めている。それもそうだろう、彼らには今動く理由がない。
このままエティエンヌを失えば、なにもかも敵方の思う壺だ――浮かんだ考えをルネは散らした。失わせはしない。そのために、自分は今ここにいる。
「そうか。ならば……悔いはない」
答えるエティエンヌの表情に、この世ならざる気配を感じた。ぎょっとする。
あわてて、ルネは虚勢の笑いを作ってみせた。
「今から死ぬみたいなこと、言うんじゃねえよ。おまえの病はおまえが止めるんだろ」
「ああ。そうだった、な」
熱で赤く染まった顔が、緩慢に左右に揺れる。動きに覇気がない。
「だが、私は……成したのだな。父のできなかったことを」
変に満足げな笑いが、浮かぶ。頬や額には、霜状の白点が痛々しく散っている。
「民が王家に自ら歌を捧げるなど、父の世にはありえなかっただろう。私は、私のできることをなしとげた」
「……飯、食わねえか」
持ってきた麦粥を差し出しながら、ルネは強引に話を変えた。
病がよほど悪化しているのか、エティエンヌの目には生気がなかった。気力がなければ、風邪ですらこじれるものだ。まして、いま患っているのは死病だ。遠くへ行きかけた魂を、どうにか引きずり戻さねばならない。民の祈りと歌は、見送りのためではなかったはずだ。
「粥を作ってきたぞ。この状況下だから、ありもので申し訳ねえけどな……ただ、寝つきが良くなる
「ありがとう」
伸びてきた手から、ルネは粥の椀を遠ざけた。戸惑うエティエンヌへ、不敵に笑ってみせる。
「ただじゃあ渡せねえな。俺の皿を受け取るからには、相応の代価を払ってもらわねえと」
「ん? 祈れば、よいのか。市民たちのように」
虚ろな目で首を傾げる王子へ、ルネは静かに首を振った。
「思い出せ。そして言ってみろ。おまえが食べた、神の料理の記憶を」
少しばかり目を見開いた後、エティエンヌは黙り込んだ。そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
「はじめのものは……ひどかったな。
力なく笑うエティエンヌに、ルネもつられて笑った。笑うしかなかった。そういえばそうだった。最初の記憶に最悪の味を持って来てしまった自分に、いまさらながら呆れる。
「だが、まずかったのはそれだけだな。以降はどれも……美味しかった。
「そうか」
「王都を見ながら食べた、甘いギモーヴも……茶に少し溶かしてやると、とろとろになって――」
そこで、エティエンヌの言葉は途切れた。虚ろな目は、どこか遠くを眺めているようだった。
「なあ。また……食いたいか」
訊けば、小さな頷きが返る。
「ああ。叶うならば、また」
予想通りの答えだ。だがそれではいけない。
肉の落ちた肩を、ルネは強く叩いた。ばぁん、と音が鳴った。
「叶うならば、じゃねえよ」
何度も繰り返し、肩を叩く。少しばかり響いているだろうが、仕方がない。
「食うんだよ。必ずな……思い出せ。俺の飯を食ったおまえが、負けたことが一度でもあるか」
エティエンヌの目が、わずかに見開かれた。ほんの少し、瞳に光が戻った気がする。
ルネはあらためて、麦粥の椀を鼻先に差し出した。
「
肉の落ちた手を取り、麦粥の椀に触れさせる。
細い指が緩慢に、椀を下から包み込んだ。
「それとな、勘違いすんなよ。あいつは……炎竜王ヴィクトールは、そう簡単に勝てる相手じゃねえ」
その名を出した瞬間、エティエンヌの表情が強張った。瞳の奥に、隠しきれない憎悪の色が宿る。
いける、これなら。
椀を持ち替え、エティエンヌの手を上から包み込む。
「何十年も、この国のなにもかもを……俺の身も心も、あんたの魂も、思うがままにしてきた相手だ。いっぺん死んでみた程度じゃ、かすり傷にもならねえ」
木の匙を取り、椀の中へ差し入れる。
薄い麦粥を、一匙すくい取った。
「いいか、これも神の一皿だ。……神の一皿は勝利を約す。いままでもこれからも、あんたが言った通り、この国の誰もが知る通り」
軽く、匙を持ち上げる。
「口、開けな」
肉の薄い唇が、言われるがままに開いた。
そっと匙を差し入れ、粥を流してやる。
喉仏が、小さく動いた。
「食べたな、神の一皿。これで、あんたは勝つ」
さらに麦粥を掬う。赤子に対するように、一匙ずつをゆっくりと、食べさせてやる。
「さあ勝つぜ、あと一度。これまでずっと、勝ってきたようにな」
なされるがままに、エティエンヌは粥を飲み込む。
長い時間をかけて、一椀分の粥を食べさせた。空になった椀を持ち、出ていこうとすると、不意に裾を引かれた。
「……ルネ」
薄く微笑むエティエンヌの瞳に、確かな力が宿っていた。
「すべてが終わったら……また、作ってくれ」
「何をだ。血抜きしてねえ
かすかな笑い声が、聞こえた。
「それでも構わんが……ギモーヴが欲しい。狐火葵でなくてもいい、が、茶に溶かせるものがいい」
「おう、任せとけ」
この王子様、本当に甘いものが好きなんだな。
ルネは腕を曲げ、力こぶを盛り上げてみせた。
「林檎でも葡萄でも、好きなもので作ってやる。だから……必ず勝て」
上気した頬で、エティエンヌは笑った。眩しげに目を細めた、屈託のない笑みだ。輝くばかりの容貌に、病巣の白点がちらちらと散っているのが痛々しい。
今夜が峠との、侍医の言葉をあらためて思い出す。
――天の神よ。俺の願いが届くなら、どうか明日も、明後日も、この笑みを見せてくれ。
何度も後ろを振り返りつつ、ルネはエティエンヌの寝室を後にした。
できることはやった。あとは、あいつの力を信じるしかない。
信じていないわけでは、なかった。だが漠然とした不安は、拭いきれぬままにルネの胸中を満たしていた。
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