真実の魂

 かけるべき言葉を見つけられず、ルネはエティエンヌの傍に屈み込んだ。そうして、嗚咽を漏らす背をただ撫でた。他に、できることを見つけられなかった。

 衝撃と当惑は去りつつあった。代わりに、ぶつける相手のない怒りが身を満たしはじめていた。

 エティエンヌの独白は続いていた。血を吐くような痛々しい声だった。


「ずっと……思っていた。なにもかも私が悪いのだと。私が惰弱だから、無能だから、侮られ蔑まれるのだと……愛を受けられないのは、愛を受ける資格がないからなのだ、と」


 うずくまった肩が、激しく震えている。十年以上に渡った苦しみが、堰を切ってあふれ出しているように見えた。


「だから……力を尽くしてきた。弱い自分を殺して……強くなろうとした。他者への心配も哀れみも、すべて消し去ろうとした……弱さの証と、思っていた」


 とめどなく、床に滴が落ちる。


「父のように、ならねばと……力を尽くしてきた。だが、なれなかった。なぜこんなにも弱く生まれたのか、己を幾度も呪った。王族として無価値な己を恥じた。死にたいと思いこそすれ、生への感謝などなかった。母が己を生み落としたことを憎みさえした。だが」


 不意に大きな音が響いた。エティエンヌの拳が、床を激しく叩いていた。


「なにもかも……嘘だった」


 嗚咽の声に、明確な憎しみの色が差す。


「あの男の言葉には……一片の真実さえなかった。この苦しみには、なにひとつ意味などなかった!」


 エティエンヌは激しく頭を振った。一本にまとめられた金髪が、揺れて乱れる。


「あの日から十年以上、すべては無駄だった。くだらない虚言のために悩み、惑い、嘆き、己の魂を殺そうとした……あの日々には、ひとかけらの意義さえなかった!」


 かけるべき言葉が見つからない。

 長きにわたる傷と苦しみ。その根拠と思い込まされていた数々の言葉が、まったくの嘘と分かった時、どうすれば支えてやれるのか。皆目見当もつかなかった。


「返せ……私の十年を返せ。私のなにもかもを……返せ……!」


 エティエンヌが激しく床を叩く。

 その傷が無駄ではないと、口に出してしまうのは簡単だろう。だが安易な励ましは、苦しみの根源――あの男の虚言までも肯定してしまいかねない。

 惑ううち、身に満ちてきたのは怒りだった。遺言状の文言が、脳裏に蘇る。


『王として必要な性質は何か。諸説あろうが、私は第一に「守るべきものを守り抜く」覚悟だと考えている。自らの守護すべき対象を弁別し、いかなる危難においても守り抜く。それが王たる者の最重要な責務であり、使命なのだ』


 口には出ないまま、ルネの胸中に言葉が溢れる。

 ――よく言うぜ。いちばん最初に守るべき対象さえ、まともに守ろうとしなかった奴が、よ。

 ――人の親が、最初に我が子を守らなくてどうする。俺に親はいないが、親代わりだったブランシャール先生は、少なくとも俺や他の孤児連中を可愛がってくれていた。変なことをやらかしたら叱られることもあったがな、少なくとも、嘘をついて罵倒したり蔑んだりされたことはない。

 ――ヴィクトール。おまえは、ずいぶんと俺を愛してくれたな。「王冠」だの「無二の友」だのと呼んで。どうして、その何分の一かの愛を、自分の子に注いでやらなかった。

 ――貧民だろうが王子だろうが、子供にとって、父はたったひとりの父だ。おまえにはその責任があった。人として最低限の責さえ果たさずに、王としての在り方を語るなど、ばかばかしいにも程がある。

 ルネが考えるうち、エティエンヌの言葉は途切れていた。小さな嗚咽を漏らしつつ、涙を流し続けていた。うずくまる背を見るうち、ルネの胸中には別の感情が湧き上がった。

 エティエンヌの背に置いたままの手を、ルネはふたたび動かし始めた。できるかぎり優しく、背骨に沿って撫でながら、一言だけを口に出した。


「ごめんな」


 今、許されるであろう唯一の言葉だった。

 後悔。以前からぼんやりと胸中に在りはした。だが今は確かな棘となった。

 なぜ逃げた? すべてを棄て去り、霊山へ隠れたりした?


「俺が、逃げたりしなけりゃ……もうちょっとは、ましだったのかもしれねえ」


 自分がいれば、止められたのかもしれない。少なくとも、食事の席を侮辱の場にさせたりはしなかった。

 それは後悔ゆえの仮定かもしれない。実際にその場にいたなら、ヴィクトールに抵抗などできなかったのかもしれない。だが止めていれば、少なくとも止めようとしていれば、事態は多少ましになっていたのかもしれなかった。孤独の王子に、せめてもうひとり味方をつくってやれたのかもしれなかった。


「ごめんな。助けてやれなくて……ごめんな」


 気付けば、頬を熱いものが伝っていた。

 エティエンヌは何も言わない。ただ身を震わせ、時折床を殴っているばかりだ。

 ルネの胸中にも、継ぐべき言葉は出てこなかった。エティエンヌの背を撫でること、涙を流すこと、その他にできることが見つからない。部屋の外で待っているはずのジャックを、呼びに行くのもどこかためらわれた。

 不意に、エティエンヌがルネを呼んだ。


「……ルネ」

「どうした」


 どんな罵りだとしても、ルネは甘んじて受けるつもりだった。ヴィクトールの「友」として、すべてから逃げた者として。

 だが、エティエンヌの言葉は予想外だった。


「市井の言葉を、教えてくれ」

「急にどうした」

「おまえたちの罵倒を教えてほしい。聞いただけで耳が汚れ、魂が穢れるような……あの男を『クソ親父』としか呼べない自分が、今はもどかしくて仕方ない」


 そういうことか。

 だがルネとしても、今この場に妥当な悪口雑言は即座に思いつかない。


「まあ確かに、貧民街じゃあ汚ねえ罵りは毎日のように聞いてたが……あいつの悪行に釣り合うような言葉は、さすがにぱっとは出て来ねえな」


 思い出せる限りの罵りを、ルネは頭の内から引き出そうと試みた。だが思いつく言葉は、憤りを表すのに到底足りない。加えて裏路地で飛び交っていた罵りは、大部分が「シモ」に属する言葉だった。頼まれたとはいえ、育ちの良い耳をそれらで穢してしまうのは、少なからず気が引けた。


「あのどうしようもねえクズ……自分を大きく見せることだけは得意な、中身スカスカの藁人形男。しかも、虚勢を張るために軽々しく人を殺める外道」


 言葉を選びながら呟くうち、ルネの胸中で、ヴィクトールとの記憶が溢れはじめた。

 初めて出会った時の、光り輝くような神々しさ。即位の折の理想に満ちた演説。夜食を食べる時の微笑み。ちくちくと胸を突く痛みを、ルネはあえて振り払おうとはしなかった。

 ――俺があいつの友であるなら、友の過ちは正さなければならない。変貌し、もはや友とは呼べなくなった者の代わりに。


「地獄の悪鬼でさえ、まだしも理性があるってもんだ……どんな言葉でこき下ろせば十分なんだか、俺にもわからねえ。そのくせ臆病者ときた。自分が父親を殺したから、息子も自分を殺すんじゃねえかって怯えてやがった。ほんと、バカじゃねえかって思うぜ」


 半ばは自分に言い聞かせるように、ルネは吐き捨てた。

 不意にエティエンヌが笑いだした。気が触れたような激しい笑いだった。心配になってルネが首の後ろをさすると、細く肉のない手が上から重ねられた。


「ありがとう。ずいぶん楽になった……市井の言葉はいいものだな」


 エティエンヌは何度も大きく頷きながら、ルネの手を握り締めた。到底「市井の罵り」とは呼べない、ルネにとってはごく穏健な悪口ではあったが、それでも多少の慰めにはなったようだ。


「ありがとう。……ありがとう……」


 それ以上の言葉は、どちらからも出てこなかった。

 ふたりは、ただ互いの手を重ねあった。

 ひとかたまりの彫像になったように、じっと、動かなかった。



   ◆



 長い時間が、経った。

 細い手が不意に離れた。エティエンヌが、いやに晴れやかな顔で笑っていた。


「大丈夫か」


 ルネは、それしか言葉を出せなかった。エティエンヌは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で軽く頷いた。


「嘘を嘘と、無駄なものを無駄と認めたら、ずいぶん気が楽になった。幼い頃に返った気分だ」


 どう反応していいか、ルネにはわからなかった。青い双眸を黙って見つめていると、エティエンヌは悪戯っぽく目を細めた。


「心配するな。無駄は無駄と、切り捨てた方がすっきりする……私に、とっては」


 エティエンヌの手が、今度はルネの肩に置かれた。


「だから、ルネ。過ぎたことをあまり気に病むな。あなたには何の責もないことだ」


 ぽん、と肩をひとつ叩き、エティエンヌは立ち上がった。決意と力の宿る瞳で、どこか遠いところを見つめながら。


「ルネ。私は……あの男を殺す」


 言葉の後に、かすかな笑いが漏れていた。


「あの男の肉体は死んだ。だが、影はそこかしこに残っている……あの男の遺したものを、私はすべて叩き潰す。奴の存在すべてに止めを刺し、この国の津々浦々から痕跡を消し去るまで」


 口角を引き上げ、エティエンヌは笑った。これまでに見たことのない、害意を含んだ笑いだった。


「私は必ず、あの男のすべてを殺しつくす……あの男が自身の父を殺し、のちには私を殺そうとしたように」


 言い終わり、エティエンヌは何度も頷いた。

 ルネはエティエンヌの手を取り、強く握り締めた。脳裏にちらつく古い思い出を、記憶の奥底へと沈めながら。


「なら俺も、微力ながら協力させてもらうぜ。フレリエールの正統なる王位継承者殿」

「おまえは、奴の『友』ではなかったか」

「もし本当の『友』だったなら、友人の過ちは償わなきゃならねえ」


 せいいっぱいの笑顔を、ルネは作った。


「俺はもう、逃げたりしねえからよ」


 エティエンヌは、静かに笑い返してくれた。いまは幼子のような、屈託のない笑顔だった。

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